善き祭り 悪しき祭り(S.A.C.について考える 最終回)

 
「志」が善きものであれば、いいけれど、悪しきものであった場合は困ったことになる。ましてや、それが、大きな共感を呼ぶものであった場合、その被害は計り知れない。

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思想レイヤーは、考えが中心のレイヤーだから、互いを結ぶ縁のインフラが整えば整うほど、相互交流の結果、似たもの同士が、その考えをもとにした極をつくる。

その極には、善き極も、悪しき極もあって、一旦、極となってしまったら、互いに交わることは難しい。右翼と左翼の仲が悪いのも、それぞれが極として確立してしまっているからで、そうおいそれとは交わらない。

これはネットの世界でも同じ。むしろ、ネット特有の匿名性や、とっつき易さを考えると、その極の作られ具合はより顕著になる。

世の中の真実を追究したい人は、そうしたブログを好むし、正義を愛する人は、それを行使する祭りに参加する。そして、美しくありたい人は、そうした情報を追い求める。

だから、思想レイヤーにおいては、その「考え」の性格が決定的に重要な位置を占め、その考えの根幹にある「志」の大きさが、共感力を規定する。「志」が純粋で、大きなものであればあるほど、多くの人が共感し、手伝ってくれるようになる。

たとえば、ブログかなんかに貼り付けるネット広告を例にとってみると、たいていのブログのネット広告は、クリックするとそのクリック数の分だけ、広告費が管理人に入るようになっている。だけど、たまにネット広告をクリックすることで得た収益を、自動で、慈善団体に寄付されるようになっていたりするブログがあったりする。閲覧者の行為としては、バナーをクリックするだけでどちらも同じなのだけれど、その目的や志は、まったく違う。

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中川元財務大臣の本を購入しようとか、供花を贈ろうという祭りなどが、今行われているけれど、大切なことは、「善き祭り」なのか、「悪しき祭り」なのかを見極めること。それを間違うと出てくる結果も正反対になる。

注目すべきは、その自由なネット空間にあって、他者を応援しようという「善き祭り」が着実に行われていること。

「義を見てせざるは勇なきなり」とはよく言われることだけれど、その肝心の「義」とは何かが分からなければ、勇もへったくれもない。

まだ日本には、義を義だと分かる人たちがいる、という事実は、未来への希望そのものだといっていい。これを大切にしなくちゃいけない。

思想レイヤーでは、利害関係がないが故に、考えそのものと、その奥にある志が、どれほどのものなのかが、ものすごく問われる。ある意味、心根が顕わになる世界。

今、まさに、国民の心根が奈辺のものであるかを、問いかけられている。

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スタンド・アローン・コンプレックス

ネットを介した 認識の平準化

混ざり合った集合知が 個々の意識に充填してゆく

スタンド・アローン・コンプレックス

一人であると同時に 多数でもある存在 

一なる想いが 個々の認識に

拡散した意識が ひとりの行動に


私たちは、新しい局面を目の前にしているのかもしれない。

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