
特に、今の日本のように、人口が一億人、小選挙区でも何十万人といる大国ともなると、一つの政党が下位レイヤーに直接働きかけることは、非常に難しくなっている現実がある。
戸別訪問はもとより、ハガキ一枚出すのだって、10万人に出せば、600万円もかかってしまう。民主主義のコストは政党だけでは賄いきれない。
有権者が増えれば増えるほど、民主主義のコストは人数分だけ増大するから、政党を支える人々がそれに比例して増えることがない限り、直接下位レイヤーに働きかけることができる範囲は、どんどん狭くなってゆく。
インフラの充実した、暮らしやすい国においては、上位レイヤーの影響力は、どんどん拡大してゆく傾向があるのに対して、その暮らしやすさ故に、政治運動に身を投ずる人は劇的に増えることはない。
だから、これからの時代、テレビはもとより、ネットも含めた、情報メディアの影響力は、益々大きくなるものと考えておいたほうがいい。下位レイヤーへの政党及び政治団体からの働きかけに、大きな伸びしろが期待できないとなれば、当然そうなるしかない。
もしも、こうした構造が弊害を生んでいるのであれば、それを改善するためには、情報伝達の流れを是正するしかない。
その為には、個々人に対して、上位レイヤーにおいて、政治方面の正しい情報を受信するように促すことと、下位レイヤーへ、如何にその情報を浸透させてゆくかを考えてゆくことが、その柱になる。
ネットの世界では、優れた考えは勝手に拡散してゆく。
良いアイデアは、色んな人にコピペされ転載されつづけてゆく中で、その考えが吟味され、討論され、磨きあげられてゆく。ネットにおいて優れた情報は、その拡散過程において、多くの人の篩に掛けられているから、その考えが、ネットを使う人なら誰でも知っているというくらい広まったころには、多くの人の意見と合意を含んだものになっている。これこそ公論と言うべきもの。
それは、テレビの持つ、同時に、大勢に情報を送り届ける性質に加えて、ネットには、情報の双方向性があることに起因している。
たとえば、流れてくる情報をそのまま鵜呑みにするのではなくて、自分がキャッチした情報に対して、自分なりのコメントを付けて、コピペしたり、また、それに対して他の人からコメントがついたり、トラックバックが来たりして、ひとつの記事や、テーマに、実に様々な方面からの見解や意見が集まってくることがある。
これは、一般に「集合知」と呼ばれるものなのだけれど、ネットの優れた点はその集合知として練り上げられた優れた見解が瞬く間に、大勢の常識として周知され、共通認識になるところにある。
確かに、考えを自分自身のものとしたり、アイデアを練るためには、読書と思索は欠かせないものなのだけれど、そうして練り上げた考えが、どこまで世の中が必要とし、どこまで世の中が認めてくれるかどうかは、やはり世に出さないと分からない。
その意味において、考えやアイデアを世に出すツールでもあり、それらをブラッシュアップして、また自分にフィードバックしてくる「場」としてのネットの存在は、使い方によっては、大きな可能性を秘めている。
その可能性の一つが、スタンド・アローン・コンプレックス。
孤立した個人(スタンドアローン)であると同時に、全体として集団的な行動(コンプレックス)をとることが起こり得る、ということ。

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