縁起のレイヤーの糸とは具体的に何かというと、もちろん、それは情報伝達手段になる。
人間の五感によって検知できるものであれば、それは何でもいいのだけれど、情報の伝達量と伝達速度、及び、その客観性を考えると、第一に視覚情報、次に聴覚情報で殆ど全ては事足りる。
臭覚、味覚、触覚によって認識できる情報は、あまり縁起の糸には成り難い。なぜかというと、それらは、今の段階では、そのままで長距離伝送をすることが難しいから。
匂いは空中で拡散してしまうし、触覚はその対象が手の届くところにないといけない。味覚に至っては、更にそれを食べなくちゃ分からない。それ以前に、臭覚、味覚、触覚には、その感度に個人差があるし、またキャッチしたものに対する好みの差が入ってくるから、客観性という意味では一段落ちた情報になってしまう。
だから、人と人とを縁で繋いでゆくことで構成される社会は、視覚と聴覚にかなりの部分を依存した社会だと言える。
もう少し細かく分類すると、視覚情報を、映像情報と文字情報に分けて、映像、文字、そして、音声の、おおよそこれら3つの情報伝達手段が縁起の糸となって、人と人の間を紡いでゆく。
縁起の糸を構成する要素が、映像、文字、音声情報がその殆どだとすると、それらの手段が国民にどれくらい普及し、かつ使用可能な状態であるか、ということが、縁起の糸の質を決めることになる。
情報伝達手段は縁起の糸が織りなす繊維のきめ細かさであったり、糸の柔軟性や耐久性を決定する。すなわち、国内のインフラの整備状況とメンテナンスの確かさが、縁起のレイヤーの質を保証している。
たとえば、国が貧しくて、テレビやラジオは勿論、携帯電話を個人が持つなんて夢のまた夢の社会であったり、国内に電車はもとより、道路すら満足になく、電気も碌に通っていない状態だったら、縁起の糸そのものが細く、また、短いものしか存在しないことになる。
そのような社会では、家族や近隣住民相手の、直接会える程度の範囲しか縁を付けることはできない。縁起の布は小さく、また、経済活動も十分に活性化できていないから、そんな国の縁起のレイヤーは、ほとんど下位レイヤーしかないということ。そのような国は世界にはまだまだ沢山ある。
そういう視点でみれば、日本の縁起のレイヤーの質の確かさと、その凄さが分かろうというもの。テレビや車が当たり前に普及し、携帯は一人一台以上持っていて、ワンセグでテレビも見れれば、ネットにもアクセスできる。
国内で郵便が届かないことはまず無いし、宅配に至っては、時間指定で届けてくれる。電車や道路も整備されていて、電気も隅々まで行き渡っている。
衛星からの夜の地球の写真を見ると分かるけれど、夜の地球で、国土全部が光っているのは、世界でも日本くらいしかない。それだけ縁起の糸が国内に張り巡らされている。
だから、日本においては、個人には、どの縁起レイヤーであっても、縁起の糸自体は接続されていて、あとは本人が、その各レイヤーからの情報を受信するかしないかだけの選択で、どのレイヤーにも活動の主体を移せる環境にある。
これは、世界的にみても極めて珍しく、かつ恵まれていることであって、この意味で世界最高峰にある国だと言っていい。
だから、日本で生活する人は、殆ど誰でも、最下位レイヤーから最上位レイヤーに自由に行き来でき、かつ、いつでも、どこでも、好きな層で生活することが出来る環境が与えられている。
だから、日本人にとって政治とは、国民の意識の問題でいくらでも変わる可能性を持ったもの。そういう意識が持てるかどうかが、これからの未来を拓く鍵になる。

この記事へのコメント
おもしろい考え方ですね
通りすがりのものでした☆