十勝の黄班堕つ

 
言葉にならない。中川昭一元財務相の突然の訃報。謹んでお悔やみ申し上げます。

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それにしても、あまりにも残念でならない。まだまだこれからの逸材だったはず。

昨年のIMFへの1000億ドルの貸付をはじめとして、昨年の経済危機に対応した手腕は高く評価されていた。返す返すも残念。

麻生前総理も相当ショックを受けていたようで、インタビューの受け答えにも失望の色がありありと浮かんでいた。

中川氏は、アメリカに対しても、「平素は自由化を強引に社会正義のように要求してくるが、自分が不況になれば、平気でバイ・アメリカンという、これはけしからん」というほどの愛国保守の政治家で猛者。

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筆者は個人的に、戦国武将で例えるならば、「上州の黄班」と讃えられた猛将・長野業正を彷彿とさせるものを感じていた。

長野業正は、上野国箕輪城主で、武田信玄の侵攻を6度も退け、信玄をして、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆かせたと言われるほどの名将。

その手腕は当時も高く評価され、「関東管領上杉家は長野業正によって余命を保っている」とまで言われたほど。奇しくも、昨年来の世界経済危機も、現代の長野業正、中川昭一氏の手腕によって余命を保っていた部分もあったように思う。

巨星堕つ。

世界経済の戦国乱世はまだまだ続く。

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画像【中川昭一氏死去】「大変ショック、自民再建の大事な人材だった」麻生前首相 2009.10.4 13:00

 中川昭一元財務相の死去を受けて、麻生太郎前首相は4日、「自民再建の大事な人材だった。言葉にならないショックだ」とのコメントを発表した。

 この中で麻生前首相は「非常に大きなショックを受けている。自民党の再建に向けて、次の世代を担う大事な人材だった。衆院選の結果を厳粛に受け止めて、再起を期すことを期待していた矢先だった。麻生政権では、財務・金融担当相として、世界の金融危機への対応に卓越した力を発揮して、内閣を支えていただいた。今は、言葉にならない位にショックを受けており、慎んでお悔やみ申し上げます」とした。

 また、自民党伊吹派会長の伊吹文明元財務相は4日、「中川先生は同期当選でもあり、年齢的にもこれからの政治家であっただけに、日本のためにも残念です。詳しいことが分からないので、これ以上のコメントは現時点では差し控えますが、ご家族にお悔やみ申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします」とするコメントを発表した。

URL:http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091004/stt0910041301004-n1.htm


画像2009年10月 9日 (金) 中川昭一先生の想い出

 石破 茂 です。

 去る10月4日に56歳の若さで急逝された中川昭一先生のご葬儀に参列してまいりました。
 先生の初当選は私より一期早い昭和58年、30歳でした。
 まだ当選一・二回の頃、中川自民党青年局長の下で次長を務め、タイ・ベトナムなど諸外国を廻った時のことや、細川政権時代、ウルグアイ・ラウンド交渉を巡って夜を徹して議論した時のことなど、23年間の様々な思い出が去来いたします。
 小泉内閣で防衛庁長官を務めていた8年前、当時組織本部長であった先生から、「拉致被害者の家族の方々を支援するためのチャリティオークションを開くので、お前も何か出品しろ」とお声が掛かり、「では鳥取名産の二十世紀梨にしましょうか」と申し上げたら「何を言っている、石破といえばプラモデルしかないだろう、何が何でもお前の作ったプラモデルを出せ!」のご厳命。仕方が無いので一晩徹夜して72分の1の航空自衛隊の往時の戦闘機F-86を組み立て・塗装し出品したところ、これがなんと中川先生の出品された「北海道の名産品お届けカタログ」よりも高値で落札。先生は「なんで石破のプラモデルが俺の出したものより高いんだ!」と随分と憤慨しておられましたが、それだけ郷土に愛着と誇りをお持ちであったのでしょう。

 当選期数も、年齢も、農林水産政務次官・農林水産大臣・拉致議連会長・自民党政調会長と、辿ってきた経歴も似通っており、私の一方的な思いかもしれませんが随分と親近感を感じてきただけに、類稀な才能を持たれた中川先生のご逝去は残念でなりません。
 保守政治とは何か、民主党との対抗軸をめぐって議論が行われています。「真性保守の再生」が叫ばれる中、中川先生はその先頭に立って議論をリードされたかったことでしょう。
 「保守とはイデオロギーではなく感覚である」との江藤淳氏の議論に賛同する私は、先生から見れば現実主義の唾棄すべき存在に映っていたのかも知れません。でも、エドモント・バークの著作などをきちんと読んだ上で、もっと多くのことを胸襟を開いて語りたかった。

 それにしても、政治家とはとても悲しい仕事だな、とご遺影を見ながら改めてしみじみと思ったことでした。
 理想と誇り高き愛すべき政治家、中川昭一先生のご冥福と、ご家族のご平安を心よりお祈り申し上げます。


2009年10月 9日 (金) 本人コメント | 固定リンク

URL:http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-1cec.html



画像中川昭一氏の死を悼む 最終変更日時 2009年10月6日

一昨日、中川昭一元財務大臣が逝去されました。

痛恨の極みです。

昭一さんのお父上中川一郎氏と安倍晋太郎が盟友であった事もあり、若い時から知っていました。

本格的な付き合いは私が政治家になってからですが、教科書問題や憲法問題等、国家の基本問題で常に協力して闘ってきました。

彼が会長を勤めた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」は歴史教科書の記述改善に大きな成果を挙げました。

一部マスコミの激しい中傷にもまったく怯む事無く、若く颯爽としたあの頃の昭一さんの姿は今も脳裏に焼き付いています。
安倍内閣時代、政調会長として教育再生をはじめ様々な分野で力を発揮してくれました。

戦後レジームからの脱却という理念を完全に共有してくれた戦友でもありました。彼の功績は枚挙にいとまがありません。

こんな事を書いていると、あの魅力的なはにかんだ笑顔で「そんなに褒めるなよあべちゃん」という昭一さんの声が聞こえてきそうです。

でも残されたお二人のお子さんに、この事だけは申し上げたいと思います。

「お父さんは立派な政治家でしたよ」と。

保守派は冬の時代を迎えたと言う人がいますが、そうはいきません。
今こそこの試練に立ち向かう勇気が試されています。

保守再生に向け全力を尽くします。

URL:http://www.s-abe.or.jp/mailmagazine/909



画像長野業正の戦い

 上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守業正(1499年~1561年)は、1530年に戦傷死した父、憲業の後を継いで長野氏の当主となり、箕輪城(現箕郷町)をその居城とした。時は応仁の乱以来、戦乱の世と化しており、業正が属する関東管領上杉家も、戦国大名北条氏に圧迫され続け、ついに1552年、管領上杉憲政は北条勢の攻撃に耐え切れず、越後に長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びてしまった。ここに、西上州の防衛は、偏に業正の肩に懸かってきたのである。
 彼は、12人もの娘を西上州各地の国人領主に嫁がせ、縁戚関係による団結を図り、一大防御網を築き上げた。この体制の中では、北条氏やその要請で上野に侵入してきた武田氏も、容易に西上州を手中に収めることはできなかった。
 今回は、業正と武田氏の最初の激突となった、瓶尻(みかじり)の合戦を扱う。
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 上杉憲政が越後に落ちた後、長野氏を含む西上州の武士たちは、北条氏に服属を余儀なくされたが、越後よりの働きかけが強くなってくると、彼らの間に動揺が見えるようになり、中には甘楽郡は国峰城の小幡氏のように内紛を起こす武士団も現れた。
 業正は早くから越後長尾氏に好意を寄せており、前述した小幡氏の内紛に介入して、親北条・武田派を追放するなど、親長尾派としての立場を鮮明にしていた。
 北条氏も、西上州の諸将が長尾氏になびきつつあるこの状況を黙視するわけにはいかなかったのだが、北条の戦力は主に東方へ注がれており、西上州の動揺を鎮められる余裕はなかったもののようである。そこで北条氏康は、同盟者の武田晴信(後に信玄と号す)に出陣を求めた。即ち、「とにかく太田(北武蔵の親長尾派武将)と長野さえ攻め滅ぼしてしまえば、その他の退治は簡単である故、宜しければ信玄公には西上野に出兵して白井(群馬郡北部の白井長尾氏)、箕輪を踏み潰し、河西(利根川の西)を占領してもらいたい。云々」と申し送ったのである。
 晴信もこれに同意し、弘治3年(1557年)春、大挙して上州出兵に踏み切ったのであった。

 晴信の嫡男である義信を大将とする武田軍1万3千は、4月に入ると上信国境の余地峠(群馬県南牧村と長野県佐久町の境にある峠)を越え、北上して瓶尻(現松井田町人見の原)に着陣した。なお、この軍に当の晴信自身は参加していなかったようである。
 沿道諸城も大軍故に表だった抵抗は見せなかったが、「甲兵侵入」の報は着実に箕輪城へ伝達されており、業正もまた、小幡・安中(現安中市)・白倉(現甘楽町)・倉賀野(現高崎市)・和田(現高崎市)・多比良(現吉井町)・尻高(現高山村)・後閑(現安中市)・長根(現吉井町)等の西上州の諸将を糾合して2万(軍記物にはその様に記されているが、実数は1万4~5千か)の軍をもって馳せ向かい、4月9日瓶尻にて一戦に及んだ。

 合戦は、武田勢の弓・鉄砲による射撃から始まった。業正は箕輪衆を率いて西上州勢の陣頭に立ち、戦況に応じて適切に指揮し、武田の先備えを混乱に陥れた。
 彼は、総攻撃に出るのは今だとして、「味方の勝利だぞ。進めや進め」と喚き叫んで全軍に下知したが、元々寄せ集めの軍なので、諸将が勝手に進退し、中々業正の指示に従わない。そのうちに武田側は体勢を立て直して備えを入れ替え、反撃してくる。
 遂に西上州勢は後陣から壊乱して敗走していった(これを裏崩れと呼ぶ)。業正も後退を余儀なくされたが、自ら後殿(しんがり)をつとめて5~6度まで反転し、追撃してくる敵を追い払い、撤退を成功させた。
 翌10日、箕輪の重要な支城である鷹留城(現榛名町)を山県昌景率いる一部隊が攻めた。箕輪本城の攻撃に先行して鷹留を牽制し、後詰めされるのを防ごうとしたのだろう。
 鷹留城は業正の甥業通が守っており、山県隊は業通の善戦に城を攻めあぐねた。鷹留が攻撃されていることを知った箕輪の業正は、家臣の矢島久左衛門に300騎を与え、山県隊の背後を衝かせた。
 山県隊は大いに驚き、南の烏川に向けて退却を始めた。長野勢は敵を川に追い落とそうと図ったが、矢島は「背水の敵は決して追ってはならぬ」と、逸る将兵を抑えてそれぞれの城に軍を引き上げた。

 続けて12日には、箕輪城が武田勢に攻撃されるようになった。寄手は城の南方、法峰寺口に布陣して強襲を繰り返したが、業正は慌てることなく城兵を指揮し、敵を引き付け矢弾を浴びせ、怯むと見るや城より突出して寄手に斬込み、その都度武田勢は撃退され、攻め倦んだ。また、倉賀野・安中方面からも後詰めの兵が出撃するので、寄手は全力を箕輪に投入することは出来なかったであろう。
 業正が善戦して武田勢を退け、時の過ぎるうちに、「景虎(後の上杉謙信)信州表へ出馬」の報が寄手に伝えられ、25日、武田勢は陣を引き払って北信濃へと転進していった。
 この後も数回にわたって武田方は箕輪を攻めるが、業正を旗頭とする西上州諸将の結束は容易に崩せず、かつて業正が箕輪の客将であった真田幸隆に言った如く、「箕輪に業正が居る間はたやすく碓氷川を越えて馬を飼おうと思っても」成し得なかったのである。まさに名将と呼ぶに値しよう。

URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/1103/main10.html

この記事へのコメント

  • mayo5

    麻生さんとの写真、素晴らしいですね。

    合掌。
    2015年08月10日 16:50

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