岡田外相は、例の米軍との「核密約」の存在を認める方針を固め、密約の全容解明に向けた有識者による第三者委員会を設置するとの報道があった。
なんでも、見つかった文書は核兵器の持ち込みに必要な事前協議の対象を定めた討議記録そのものではないものの、討議記録に盛られた合意内容が記されているという。
その内容は「核兵器を搭載した艦船や航空機の寄港などを対象外」とすることのようだ。
やはり、密約はあった。詳細については、第三者委員会の報告を踏まえて政府が発表するのだろうけれど、少なくとも、「持ち込みはOKとする密約」を前提としての発表であり、しかもそれが非核三原則を覆すものであることは確定しているから、これまでの政府方針と矛盾するこの件に関して、如何に発表するのかに注目が集まることになる。
普通に考えれば、非核三原則見直し、又は撤回に走るのが妥当なところ。早くも、外務省OBで、元駐オランダ大使を務めた東郷和彦氏は、陸上への核配備は認めないが、核兵器を積んだ艦船の寄港などについては容認する「非核2.5原則」への転換を含めて議論すべきだ、と発言している。
ただ、陸上への核配備は認めない、なんて鼻息荒いことを言ったとしても、冷戦が終わった現代においては、日本の陸地に持ち込んだ核を配備するなんてのは、ちと古い。
冷戦時代ならいざ知らず、今や、ミサイルは潜水艦に搭載するのが普通であって、それも射程の長い戦略核が中心。わざわざ洋上艦船に核を持たせることはなくなってきている。
だから、今更持ち込ませない、と胸を張ったところで、アメリカ側からいえば、最早持ち込む必要もないし、持ち込んでもいない。だから実害はないし、どうでもいい。精々、核搭載原潜のトラブルか何かでの緊急寄港することは許してくれ、というくらい。
アメリカは、そのために、日米関係を悪化させないよう配慮してくれ、と要求しているものと思われる。尤も、もう既に悪化しているのだけど。
こういった、非核三原則から2.5原則への転換という流れは、外務省OBからの発言といい、どちらかといえば、官僚側からの仕掛けのように見えなくもない。
「友愛の裏で核武装」で指摘したように、政府からこうしたことを仕掛けるのであれば、大したものなのだけれど、現政権・連立与党を考えると、その可能性は低い。
逆に、政府側から見てみると、まさかとは思うけれど、ひとつ考えられるケースがなくもない。
それは、こんなことになったのは、自民党が悪かったからだ、と他人のせいにして、今後は持ち込ませないとアメリカに約束させるような調印なり何なりをすること。もちろんこれは、得点稼ぎのアピールでもある。
とっくに形骸化して意味を持たない「持ち込ませず」の原則を押し立てて、さも自分達だからうまくやったように演出するとか。自民党では無理なのだ。我々民主党だからこそできたのだ、と。なにやら、半分ショー化しつつある事業仕分けのやり方を彷彿させるものがある。
だけど、それをやるには、民主党は少々失政をやりすぎた。鳩山政権発足後のゴタゴタを目の当たりにした国民にとっては、今更そんなアピールをしたところで、君達にそんな手腕があるわけないだろう、と見透かされるのがオチ。
この件は、後日の発表如何にも依るのだけれど、なぜ、アメリカがそうしていたのか、実際の安全保障はどうなっているか、日本も核武装の必要があるのではないか、という具合に世論がだんだん現実に目覚めていく可能性を覗かせるものがある。今後に注目したい。


岡田克也外相は21日午後、米軍核搭載艦船の日本通過・寄港を黙認してきた「核密約」など日米間の密約について「外部の有識者に検証してもらい、なぜ密約が必要とされたのか、時代背景も調べて報告したい」と述べ、週明けにも発足する第三者の有識者会議を通じた実態解明に強い期待感を示した。三重県桑名市の講演で語った。
調査チームが密約の根拠となる「秘密議事録」の存在を示す関連文書を確認したことを受け、外相は調査内容を精査する有識者会議の人選に着手。研究者やジャーナリスト経験者ら5人程度とする方向だ。
岡田氏は講演で「調査は順調に進んでいる。内部調査はほぼ終わりつつある」と強調。密約解明に取り組む理由に関しては「(外交は)国民の理解と信頼が重要だ」と指摘した。
外務省は来年1月の調査結果発表に向け、詰めの作業を急ぐ。実際に核密約の存在を認定した場合、日本が国是として掲げる非核三原則との矛盾が問題となる。
40138.86181
URL:http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009112101000569.html

岡田克也外相が米軍の核搭載艦船の日本通過・寄港を黙認してきた「核密約」の存在を認める方針を固め、週明けにも密約の全容解明に向けた有識者による第三者委員会を設置することが分かった。複数の外務省関係者が明らかにした。外務省の内部調査で核密約の根拠となる「討議記録」の存在を裏付ける日本側文書がみつかったためで、第三者委員会の検証を経て年明けに最終報告を公表する。
外務省は、外相の指示を受け、省内に調査チームを設置。省内や在米大使館に保管されていた日米安保関係のファイルを対象に、密約に関する文書がないか調べていた。外務省筋によると、見つかった文書は核兵器の持ち込みに必要な事前協議の対象を定めた討議記録そのものではないものの、討議記録に盛られた合意内容が記されているという。
討議記録は昭和35年1月の日米安保条約改定前に日米間で交わされたものとされ、米側はこの合意をもとに寄港・通過は「持ち込み」ではないとの立場を取ってきた。米国ではこの討議記録の草案が公開されている。
しかし、日本政府は討議記録について「承知していない」と存在を否定しており、日本側文書はこうした政府の従来の立場を覆すものとなる可能性がある。外相は周囲に密約を認める形で報告書を出す考えを示しているという。
ただ、米側は「(米国による)核抑止や日米関係に悪影響を与えないよう注意してほしい」(ゲーツ国防長官)と警告しており、第三者委員会の検証を経た最終報告の内容や核持ち込みに関する政府の対応が今後の焦点となる。
URL:http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091121/plc0911211133009-n1.htm

外務省が長年否定してきた核の「持ち込み」に関する日米密約を認める方針を固めたことで、国是として掲げてきた非核三原則の「持ち込ませず」というルールとの矛盾をどう説明するのかが焦点となる。岡田克也外相は米軍普天間飛行場移設問題に加え、新たな難題に苦慮しそうだ。
▽2・5原則
「非核『2・5原則』の検討も必要かもしれない」。政府関係者は21日、外務省の方針転換を受けて漏らした。
非核三原則は沖縄返還交渉を前にした1967年、当時の佐藤栄作首相が国会で「保有しない、製造もしない。持ち込ませない」と初めて表明。「2・5原則」はこのうち、持ち込み禁止を「配備」に限定し、核搭載艦船の一時的な通過・寄港は容認する考え方だ。
政府は唯一の被爆国として非核三原則を堅持。だが「持ち込ませず」は、日米間で解釈の開きが広がっていく。米政府は60年の日米安保条約の改定時に核兵器の配備・貯蔵と定義した。
一方、歴代政権はその後国会で、核搭載艦船の領海通過・寄港も含まれると答弁。外務省北米局長経験者は「政治家が非核三原則を一方的に膨らませ定着してしまった。修正しようとしたが調整できなかった」と証言。日本政府内の認識のずれが、日米間の溝を深めたと述懐する。
▽張りぼて
「日米同盟をさらに深化発展させ、建設的、未来志向の新しい日米同盟をつくりあげていきたい」。鳩山由紀夫首相は13日、オバマ大統領との首脳会談後の記者会見で、安保条約改定50年の来年に向け、新たな協議を始める方針を表明した。
「対等な日米関係」を目指す鳩山政権は、密約問題を日米関係の「闇の部分」と位置付け、早期決着を想定している。
安保条約改定時は、日米の「対等性」を強調するため「核持ち込み」などについては両国間での事前協議の対象とすることで合意した。しかし、実際は「核兵器を搭載した艦船や航空機の寄港などを対象外」とする「核密約」を結び「張りぼての対等関係」が続いてきたとされる。
▽新たな火種
元政府高官は「外務省で日米安保に携わった者は、ほとんど密約の存在を知っているはずだ」と指摘。密約否定は非核三原則との矛盾を避けるための方便だったと明かす。
90年代末に米側で「核密約の要となる秘密議事録」(坂元一哉・大阪大教授)が公表された後も、歴代の首相や外相は「事前協議がない限り核の持ち込みはないと信ずる」と繰り返し存在を否定してきた。
岡田氏が主導する調査は、長年の議論に終止符を打つのが狙いだ。ただ密約を認めると、非核三原則と整合性が取れない。三原則に影響が及ぶ展開になれば、連立パートナーの社民党が反発するのは確実。普天間問題で県内移設も視野に入れる鳩山政権と県外移設を求める社民党とは隔たりがあり、三原則が議論になれば連立の新たな火種になりかねない。
岡田氏は密約調査を「国内問題」として処理する方針だが、日本に核抑止を提供する米側も密約調査の行方を注視している。「外交というのは国民の理解と信頼の上で成り立つ」。岡田氏が繰り返す言葉の真価が問われるのは間違いない。
URL:http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200911220105.html

日米の核持ち込み密約の存在を裏付ける文書が外務省の調査で確認されたことについて、同省で条約局(現国際法局)長を務めた東郷和彦元駐オランダ大使が22日のテレビ朝日の番組に出演し、条約局長当時に密約に関連する文書を5冊のファイルにまとめた上で、後任に引き継いだことを明らかにした。
東郷氏は具体的な密約の内容には言及しなかったが、「そろそろ(密約について)国民に説明し、『ねじれ』を解消すべきだ」と指摘、密約を検証した上で公表するとした岡田克也外相の方針を支持する考えを示した。
政府が密約の存在を認めた場合、核兵器を「持ち込ませない」とした非核三原則との整合性が問題となる可能性がある。この点について東郷氏は、陸上への核配備は認めないが、核兵器を積んだ艦船の寄港などについては容認する「非核2.5原則」への転換を含め、国民的な議論を深めるべきだと強調した。
URL:http://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-091122X493.html

非核三原則(ひかくさんげんそく)は、「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という三つの原則からなる、世界的に特異な日本の国是[1]。
3項目目の表現には、「持ち込まさず」と「持ち込ませず」の2通りがある。 ノーベル賞を受賞した佐藤栄作が出した原則である。
経緯 [編集]
日米安保条約の改定を1960年に控えた岸内閣の頃から、日本の核政策が議論されるようになった。背景には米ソの冷戦と冷戦時代の核競争がある。
1955年12月15日参議院商工委員会での原子力基本法の審議で、中曽根康弘議員が「原子力燃料を人間を殺傷するための武器としては使わない」と答弁して、「核兵器を作らず」の原則について与野党の合意が形成された[2]。
1957年2月5日の衆議院本会議で、アメリカ軍の原子力部隊構想への政府の対応を問う質問があり、岸信介内閣総理大臣臨時代理・外務大臣は、
原子部隊の問題につきましては、これは新聞の誤まった報道がいたく国民の気持を刺激したと思いますが、責任ある国務省及び国防省は、これは事実ではないということを言明いたしております。また、そういう場合におきましては、すべて日本政府と話し合いをすることになっております。私どもは、あくまでも、日本国民の考えや、各種の日本の自主的な立場から、この問題に対する日本の態度をきめたいと考えております[3]。
と答弁したが、事前協議にどのように対応するかを明確にしてほしいいう質問に、2月8日の衆議院予算委員会で、
なお和田君の御質問のごとく、日本の国民の感情からいい、また防衛の態勢からいって、日本に原子爆弾を持ち込むというような事柄はいかなる意味においてもこれは適当でないというお考えに対しましては、私は全然同感でありまして、また先日来質問がありましたアメリカの原子部隊と称せられるものの日本への進駐の問題については、私はしばしば答弁をいたしましたように、事実は新聞で伝えられているような事実でない、責任ある国防省及び国務省もこれを否定しているし、従ってこの際日本がすぐ抗議を申し込むとかなんとかいう時代ではない、相談がいずれあるから、相談された場合においてわれわれは自主的な立場でこれを考えたいと申しておりますが、しかしお話のごとく、私はこの原子部隊を日本に進駐せしめるというような申し出がありました場合においても、政府としてこれに承諾を与える意思はもっておりませんから、そのことは明瞭に申し上げます。[4]
と答弁して、「核兵器を持ち込まさず」の原則について始めて明確にした。
1957年5月7日の参議院予算委員会で、岸信介総理は、
自衛権を裏づけるに必要な最小限度の実力であれば、私はたとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈としては持っております。しかし今私の政策としては、核兵器と名前のつくものは今持つというような、もしくはそれで装備するという考えは絶対にとらぬということで一貫して参りたい。[5]
と答弁し、「自衛権の範囲内であれば核保有も可能である」という憲法解釈を示しつつ、政策的には「核兵器を持たず」の原則を答弁した。
1957年5月15日[6]に政府の統一見解として「原水爆を中心とする核兵器は自衛権の範囲に入らないが、将来開発されるものなどをことごとく憲法違反とするのはいきすぎである」と表明。1959年3月2日の参議院予算委員会でも「防衛用小型核兵器は合憲である」との判断を明らかにしていた。
国際情勢は1962年のキューバ危機を経て池田内閣の1963年8月14日に部分的核実験禁止条約に調印、翌1964年6月15日に批准。やがて60年代末から米ソデタントとなる。
1967年12月8日の衆議院本会議で、公明党の竹入義勝議員が「小笠原の返還にあたって、製造せず、装備せず、持ち込まずの非核三原則を明確にし得るかいなか、見通しを伺いたい」と質問したのが、国会議事録に非核三原則が載った最初である。[7]
1967年12月11日の衆議院予算委員会において日本社会党委員長の成田知巳が、アメリカ合衆国から返還の決まった小笠原諸島へ核兵器を再び持ち込むことへの可能性について政府に対して質問した際、佐藤栄作内閣総理大臣が、日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を示した[8]。
1968年1月30日の施政方針演説においても佐藤総理は、この三原則を含めた核政策の4本柱を表明(非核三原則、核廃絶・核軍縮、米の核抑止力依存、核エネルギーの平和利用)[9]した。
その後、返還後の沖縄においても非核三原則が適用されるのかという問題に関して三木武夫外務大臣は当然適用されると主張したのに対し、返還交渉がこじれる事を危惧した佐藤栄作が三木発言を非難するなどの紆余曲折があった[10]。
1971年11月24日、佐藤栄作は最終的に非核三原則を沖縄にも適用させるべきと決断し、衆議院で沖縄返還協定の付帯決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議を議決した。
1972年10月9日、核の脅威に対してはアメリカの核抑止力に依存すると閣議決定した。
1974年、非核三原則を示したことによって佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。
1976年4月27日に衆議院外務委員会で核兵器不拡散条約採決後に、
(1)政府は、核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずとの非核三原則が国是として確立されていることにかんがみ、いかなる場合においても、これを忠実に履行すること。
という項目を含む付帯決議をした[1]。参議院外務委員会においても5月21日に、
(1)核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずとの非核三原則が国是として確立されていることにかんがみ、いかなる場合においても、これを忠実に遵守すること。
という項目を含む付帯決議を同様に決議した[1]。「持ち込まさず」と「持ち込ませず」の2通りの表現が使われている。
1978年5月23日に衆議院で、第1回国際連合軍縮特別総会に関して、「非核三原則を国是として堅持する我が国」という表現を含む決議を採択した。また、同様の表現を含む国会の決議は、核軍縮に関する衆議院外務委員会決議(1981年6月5日)、第2回国際連合軍縮特別総会に関する衆議院本会議決議(1982年5月27日)及び参議院本会議決議(1982年5月28日)でされている[1]。
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E6%A0%B8%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%89%87

戦略兵器削減条約(START: Strategic Arms Reduction Treaty)交渉は、冷戦期に増大していった米露両国の戦略核戦力を、はじめて削減したプロセスであった。(中距離核については、87年12月に米ソ間で地上配備の中距離核を全廃するINF条約に署名し、88年6月の発効以降、実施している。)これによって両国の戦略核戦力は大幅に減少することとなり、核軍縮の観点からも好ましい動きであったといえる。START(I)プロセスの結果、米露の戦略核弾頭数は冷戦期の約60%となり、STARTは核軍縮の1つの重要な基礎を構成してきたということができる。
1.第1次戦略兵器削減条約(START I)
91年7月に米国及びソ連により署名されたSTART Iは、戦略核の三本柱、すなわち、両国が配備する大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)及び重爆撃機の運搬手段の総数を、条約の発効から7年後にそれぞれ1600基(機)へ削減することを規定した。また同条約は、ロシアの保有している重ICBM(破壊力、すなわち発射重量又は投射重量が大きいICBMを指し、多弾頭化されたSS-18がこれに該当する)の上限を154基と規定した。さらに、配備される戦略核弾頭数の総数は6000発に制限され、このうちICBM及びSLBMに装着される戦略核弾頭の総数は4900発を越えてはならない等が規定された。
ソ連の崩壊により、戦略核兵器が配備されていたベラルーシ、カザフスタン、ウクライナ、ロシアと米国の5カ国は、START Iの当事国となること、並びにベラルーシ、カザフスタン及びウクライナは非核兵器国として核兵器不拡散条約(NPT)に加入することが定められた(リスボン議定書)。また、ロシアを除く旧ソ連3カ国は領域内のすべての核兵器を撤去し、ロシアに移管することとし、96年11月にベラルーシからロシアへの核弾頭の移送が完了したことをもって、すべての核弾頭がロシアに移管された(カザフスタンは95年5月、ウクライナは96年6月に完了)。
なお、2001年12月、米露両国は、START Iに基づく義務の履行を完了したことを宣言した。この結果、2001年12月現在のSTART Iに基づく米露の核弾頭保有数は、米国:5949発、ロシア:5518発(米国政府FACTSHEETによる)となっている。
2.第2次戦略兵器削減条約(START II)
START Iの発効を待たずして、92年6月には米国とロシアの間でSTART IIの基本的枠組が合意され、93年1月には、米国及びロシアが配備する戦略核弾頭数を2003年1月1日までに3000~3500発以下に削減すること、そのうちSLBMに装着される核弾頭数を1700~1750発以下にすること、さらにICBMを単弾頭にする、すなわち、多弾頭ICBM及び重ICBM(SS-18)を全廃すること等を規定するSTART IIが署名された。ただし、97年9月に署名されたSTART II議定書により、削減期限が2007年まで延長された。
2000年4月にロシア議会はSTART II批准法案を可決したが、これには米国がABM条約からの脱退などを行った場合は、START IIから脱退する権利を留保する旨の規定が含まれていた。米国は96年1月にSTART II条約を批准したもののSTART II条約を修正した同議定書については批准せず、START IIは発効していない。
その後、2002年6月14日、ロシア外務省は米国のABM条約からの脱退を受けて、米国がSTART II条約議定書の批准を拒否し、ABM条約から脱退したことを指摘し、「ロシア政府は、米国の行動、及びSTART II条約が効力を発する如何なる必要条件も存在しなくなったことに留意し、条約の目的達成に質さない行動を抑制する如何なる国際法上の義務ももはや負わないと考える」旨を表明した。
3.第3次戦略兵器削減条約(START III)
97年3月、ヘルシンキ米露首脳会談の結果発表された「将来の核戦力削減のパラメーター」に関する共同声明において、米露両国は、START IIが発効し次第START III交渉を開始すること、及びSTART IIIの基本的要素として、2007年12月31日までに双方の戦略核弾頭数を2000 ~2500発にすること、その他戦術核兵器、潜水艦発射巡航ミサイル(SLCM)などについて交渉することに合意した。しかしながら、START IIが発効しなかったため、START IIIの交渉は進展しなかった。
その後、米露間における戦略核兵器の削減に関する交渉は、新たな米露間の戦略核兵器の削減に関する条約(モスクワ条約)へと繋がっていくこととなる。
URL:http://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/kaku/beiro/start.html
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