この変ちゅうのはね。おかしい、つまり、「ズレてる」ということとね、後でまた触れますが、逆に、「合う」ことも変なんです。大自然界ちゅうものは、合うものなんか無い訳です。皆、並行して、ある種流れているんです。それが合うた、いうことは、おかしいんです。変なんです。だから外へ外れても変ですし、内らに、ひっついても変なんです。
桂枝雀師匠によれば、大自然の状態から、ズレたり、合ったりすることが既に「変」であり、おかしいことだ、という。
つまり、「あるがまま」の定常状態からズレが起こるとき、緊張や苦しみが発生する、ということ。
これは、普通に考えても確かにそうで、何か新しい試みをしたり、組織の改革をしたりするとき、どこかで緊張や苦しみは発生している。
また、長らく現状維持を続けるがあまり、組織や方策が現実と合わなくなって、緊張や苦しみが生まれ、変革を余儀なくされることもある。
人間は、そうした緊張や苦しみを、なんとか克服しようと、あれこれ智慧を絞って解決してゆく。問題が解決できれば、緊張は緩和され、苦しみから解放される。そして笑いが起こり、幸福感を得る。
だから、笑いや幸福という観点から見ると、緊張や苦しみも悪いことばかりではなくて、それを克服し、解決するなかで、人間や社会が進歩して、同時に幸福感も増大してゆくという積極的な面もあるように思われる。
したがって、緊張と緩和を、それぞれ、進歩と調和の関係に置き換えてみると、色々なことが見えてくる。
社会や人類の進歩というものを考えた場合、進歩はそれまでの社会とは、違った領域に突入するのだから、どうしたって緊張を生む。だけど、それらを調和していくことで、その緊張を緩和し、幸福感に包まれる。
もしも、大自然の大緩和が絶対なのだ、といって、それだけをただひたすらに求めるのであれば、極端な話、人類は進歩することを止め、動物と同じようにただ生きるだけでいいということになるのだけれど、その代わり、それ以上の幸福感を得るということは、望むべくもない。
確かに、進歩がなくて、調和だけの世界は、あるがままの静的な幸福感はあるかもしれない。だけど、困難を克服して、苦しみから解放され、自己を拡大するという意味での、動的な幸福感に乏しいことは否定できないだろう。
その意味においては、「緊張の緩和理論」も個人の笑いというミクロの観点のみならず、社会全体といったマクロの観点でも大きな意味を持っているように思う。
なぜかといえば、社会全体も、進化に伴う何らかの社会的変化があって、一時的に混乱と緊張、そして苦しみが生まれたとしても、それを乗り越えて、調和に至ると同時に幸福が生みだされてゆくことが、人類を進歩させる大きなモチベーションになっているであろうから。
いくら進歩出来たとしても、その後の調和に伴う喜びがなければ、やがて、進歩しようなどとは誰も思わなくなる。緊張や苦しみだけの世界で生き続けたいと思う人はそうはいない。
人間社会の進歩・発展は、桂枝雀による落語の落げの分類でいうところの「離れ-合わせ」を繰り返す姿であるようにも見える。そしてそれは、正・反・合の弁証法に通ずるのではないかとさえ。
だけど、その奥には、一旦離れても、合わせをすることで、幸福感が得られるという「仕組み」があるがゆえに、進歩・発展を担保しているのではないか。それが人類そのものをドライブしているのではないか。
もしも、この仕組みが、神仏による神仕組みだとしたら、人間は、自身の進歩と調和を、神仏から義務付けられているのかもしれない。

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