緊張の緩和は幸福感を生む(進歩と調和と悟りについて その2)

 
まぁ、あの~、快感というものが・・・つまり人間がええ塩梅と思うことが、所謂、緊張の緩和なんですよね。それの表れが「笑い」ということだと思うんですね。ですから、いちばん根底には、いわゆる、その緊張の大緩和・・・これは、いわばまぁ「悟り」のようなもんですね。

「悟りの笑い」こらもう、時間的に凄く長いですわな。あの・・・いわゆる、悟って・・・もう悟ったら、いわゆる緊張はないわけでしょ。大緩和な訳やから、こらもう一生涯、或いは生(しょう)を代えても、ずぅっと続くもんで、こら一番、広いですね。

その上に・・・今度~その緊張の緩和の・・・その上の広さに「喜びの笑い」というものがありますね。これはいわゆる大成功したときやとかですね・・・お父さん、家建てて良かったねぇとか・・・勝ったぞ~とかいう、所謂「喜びの笑い」、これはもう一番根本的には、大昔マンモスかなんかを皆がこう・・・やれ~や言うて、打ち倒して、やった~。これ「喜びの笑い」ですね。

ですから「悟りの笑い」の上に「喜びの笑い」があって、その~もひとつ上に、我々が言ってる、いわゆるところの笑いというものが・・・一番時間的にはだから、継続として短い。ま、瞬間のもんですわな。で、その下に「喜びの笑い」というちょっと幅の広いもんがあって・・・そのもひとつ下には、所謂「悟りの笑い」・・・、大緩和というものがあるという風に考える訳ですけどね。

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なぜ、悟りが大緩和なのか。

仏教でいう悟りとは、事象の因果を知り尽くしていることだから、極端な話、自分の身の回りに起こる全ての事象の原因が分かり、その結果も見え、解決方法も分かるということ。

落語で例えれば、悟った人、いわゆる覚者というのは、全ての噺を熟知し、演じきれる名人落語家のようなもの。どの噺でもマクラからオチまで予め知っているのだから、噺が「離れ」ようが「合わせ」ようが、緊張なんかするわけがない。最初から最後まで大緩和、大調和の中にある。

それに引き換え、悟っていない凡夫となると、こちらは、その噺を聞いている観客のようなもので、噺の流れをひとつひとつ聞いては、いちいちハラハラドキドキして緊張している。

だから、悟りというものが大緩和であり、緊張の対極に位置するものである、というのも十分に頷ける。

EXテレビの対談で、桂枝雀師匠は、「緊張の緩和理論」でいうところの笑いとは、勝ち過ぎない程度の緊張を緩和するところにあると述べている。緊張が勝ちすぎると本当に困ってしまって、笑っておられないから。笑い事ではない、と。

ここまでくると、もはや緊張ではなく「苦しみ」の領域に入ってしまってる。

だけど、その緊張を超えた「苦しみ」さえも、解決することができるのであれば、そこに現れるのは、安心であったり、喜びであったり、一言でいえば「幸福感」であろう。



こうしてみてくると、「緊張の緩和」という視点で捉えた場合、笑いも、幸福感も、それらが発生する構造は殆ど同じ。ただ、その前の「緊張」の度合いによって、緩和した後の反応が、「笑い」になるのか、「幸福感」になるのかが違っているだけにしか過ぎないように思えてくる。

この推測が正しいとすれば、笑いは緊張の緩和によって起こるけれど、「幸福感は、勝ちすぎた緊張、すなわち苦しみを緩和することで得られる」と定義することもできるだろう。

そうすると、緊張を生むものは、なんであれ、幸福感を妨げるものになるから、人はどんなときに緊張するのかを知り、それを取り除く方策を知っていれば、その人は常に幸福を感じ、大緩和の中に生きることが可能になる。

「緊張の緩和理論」と「幸福感の生成理論」がその構造において同じなのであれば、冒頭のコメントで、桂枝雀師匠が指摘している「笑いの3階層」が、幸福感についても同様にある、と推定してもおかしくない。

「笑いの3階層」とは笑いをその持続時間によって分類したもののようで、一番持続時間の長い「悟りの笑い」が土台にあって、その上に「喜びの笑い」、そして更にその上に、落語で扱う瞬間的な「笑い」がある、というもの。

これを幸福感に置き換えると、一番持続時間が長いのは「悟りの幸福感」であり、その次に何かを得たり、達成したりすることに付随する「喜びの幸福感」があり、更にその上に、その場その場のちょっとした幸福感がある、というところだろうか。

この笑い、又は、幸福の持続時間という観点はとてもユニークであり、未来を考える上でも何らかのヒントを示唆しているような気がしてならない。

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