政治報道についての雑考

 
今日のエントリーは、ただの思いつきです。話半分くらいで、お読みいただければ幸いです。

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「私の願いとしては、小沢一郎は不正な献金は受け取っていなかった。潔白だったという報道を同じように続けていただいて、その後に世論調査をしていただければ、そのときにコメントいたします。」
小沢一郎 2月8日 於:定例記者会見

2月8日の定例記者会見で、小沢幹事長は、各種世論調査で「幹事長を辞任すべき」という声が強いことについて、「不正なカネをもらっているという報道がずっと続いていた。潔白だったという報道を続けた後に調査してほしい」とコメントした。

確かに報道によるイメージ付けというのは否定できないけれど、まぁこれ程、あからさまに、潔白だったという報道を続けた後に世論調査しろ、と要求するほうも、どうかとは思う。

とはいえ、今のマスコミの現状は、特に政治報道に限ってみれば、その場その場の出来事や、イメージだけのニュースばかりで、その議員が、真に何をやりたくて、そして何をやっているか、という情報を提供することが殆ど無いように見える。

そんな「真なる」情報は、議員事務所とか後援会とかにしかなくて、その議員を応援する一部の人にしか共有されていない。

これは、テレビが広く一般に情報を普及する力を持っているにも関わらず、それを正しく使っていないということを意味してる。

というのも、たとえば、ある政治家に対するニュースひとつを取ってみても、テレビという媒体は、その場の局の判断に基づいた編集なり、色づけで、どのような印象にでも操作できてしまう怖さがあるから。

たったひとつの報道だけで、その議員の全体像なんて分かる訳がないのに、あたかもそれが全てであるかのように印象づけることだって、やろうと思えばできる。

何を伝えるかの取捨選択からソースディバイドは発生する」のエントリーでも指摘したけれど、現場を全部みて判断するのと、一部を都合良く切り取って流すのとでは全然印象が変わる。

勿論、放送時間の制約という問題はあるのだろうけれど、何時までもそんな放送しかできないのであれば、いっそのこと、今のような政治に対して、キャスターなりコメンテーターなりが、評論するスタイルのニュースなど止めてしまったらどうか。

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その代わり、政治家一人当たり30分なりなんなりの枠を持たせて、自由に自分専用の番組をつくって、24時間特定チャンネルで、順番に流すほうが、よっぽどいい。

ひとり30分づつでも、24時間あれば、48人分。半月もあれば、国会議員全員分の放送が出来る。

もしも、真夜中に見る人なんていないというなら、朝8時から夜8時までの12時間だけ放送する形でもいい。それでも一月あれば十分。それを年柄年中、毎日やる。

別に放送は、その議員が延々と演説するなんてものでなくて全然良くて、対談であったり、ドキュメンタリーであったり、自由に工夫していい。視聴者受けするような独自のスタイルを持った面白い番組であれば、視聴者は放っておかない。

なんとなれば、テレビ業界のディレクターなりスタッフなりをつけて、番組を作らせたっていい。企業にスポンサーになってもらうのではなくて、政党や政治家にスポンサーになって貰う。

自社の都合で、どこかの政党を持ち上げたり、叩いたりするのではなくて、その政治家専用の番組だと割り切って、基本的に持ち上げ報道だけにすれば、ある意味公平になる。

今のように、特定の誰かだけを賞賛したり、貶めたりするから、不公平感が生まれるのであって、皆、肯定的な報道をして、視聴者が、それを見て、自分で判断できる環境を提供することの方がよっぽど大事。

日本人がネガティブキャンペーンを嫌うのであれば、全員ポジティブキャンペーンにすればいい。

こういったポジティブキャンペーンって、実は、商品のCMと同じ。どの商品でも自分のアピールポイントだけ言って、都合の悪いことは隠すもの。視聴者もそれが分かった上で、見ているから、いざ買うとなったら、口コミとか他の情報に当たって、自分で判断して良いと判断したものを買う。今のような不況の最中、CMだけみてホイホイと買い込むなんて御目出度い人はそうはいない筈。

もしも、その商品に重大な欠陥があって、それを隠していたことが分かろうものなら、その商品は一気に市場から叩き出される。政治家でいえば、落選にあたる。

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その放送枠のオーナーを、放送される当人の政治家にしてしまえば、恣意的な偏向報道などできなくなる。政党助成金なんか止めて、そちらに金を使ったほうが、結果的に民主主義のコストは安く済むと思う。

政党助成金を、この政治家専用番組にあてれば、一人当たり、一千万や二千万くらいは使えるだろうから、ドキュメンタリー番組を10本くらいは作れる筈。

政治家個人のドキュメンタリー番組10本と、従来の挨拶ハガキや対話集会と比べて、どちらがよりポジティブな情報を広く流すことができるかなんて言うまでもない。

NHKの政見放送みたいなものは眠たいだけだけれど、TV局の専門スタッフを何人かつけて、面白い番組を作るように競わせれば、良いものなんて簡単に出来る筈。

昨今の不況で、TV局から大量にリストラされる人が出てくるだろうから、そんな人の中から政治家専用番組制作スタッフを雇えばいい。面白い番組をつくれる人なら引っ張りだこになるだろう。

できれば、1年なり2年なりスタッフ一堂を密着取材させて、その議員の専門分野に精通させてしまえば、スタッフの中から、一流の専門ジャーナリストが生まれるかもしれない。

勿論、政治家だって安穏としていられない。半月とか毎月1回、自分専用の番組が作られてしまうとなると、半年、一年もすれば、中身のない議員は、話すことがなくなって、あっという間に淘汰される。もっともバラエティに流れて、人気だけでやっていくのもいるかもしれないけれど。

当然面白い番組は、人気が出て視聴率もあがるだろうけれど、あまりに、その政治家を、褒め称えれば、褒め称えるほど、視聴者は却って胡散臭く思うだろうから、下調べもするし、いろんな突込みだってあるだろう。それにきちんと本人が答えていく仕組みをうまくつくっていけば、有権者と政治家の距離もぐっと縮まる。

・・・ただの思いつきです。

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画像1000万=“極めて安い”制作費!?

今朝、ふと目にした記事に、寝ぼけ眼の目玉が開く。

朝日新聞のTV面、「サブch」なる記事。見出しは「地道に300回の『金字塔』」。

フジテレビが関東地区で放送している番組「ザ・ノンフィクション」が放送300回という節目を迎えたという内容。視聴率もとれず、したがってスポンサーも付きにくいドキュメンタリー番組が長い間続いていることは嬉しいことだし、どんどんずっと続けていって欲しい。

眠っていたぼくの目玉を開かせたのは、その記事の中に、「制作費は一本当たり約一千万円と極めて安い」という表現を見つけたから。

一千万円が“極めて”安い??????

信じられん。

この記事を書いた記者は、何と比較してこう表現したのだ?キー局の人気ドラマや、NHKの大河ドラマ&NHKスペシャルなどと比較して言っているのだろう。でないと、こんな安易な言葉になるわけがない。


ぼくはローカル局でテレビの仕事をするようになって丸14年たつ。これまで200本前後の30分や1時間のドキュメンタリー番組に携わってきた。その中で、一千万という単位の制作費が使えた番組は片手で数えられるくらいしかない。

数百万円、それも片手の指で足りる程度の予算でも何本あることか。その他大半の番組は、100万前後の予算で作られてきた。

少ない予算。限られたスタッフ。それでも、ほそぼそとながらドキュメンタリー系の番組を作り続けているのは、ディレクターをはじめとする現場スタッフの努力のたまものだ。

そして、「楽しいだけのテレビでは、まずいんじゃないか?」という現場の疑問が、報われないことの多いその努力を支えている。

そんな現場の思いを知っているからこそ、「制作費は一本当たり約一千万円と極めて安い」という安易な表現にアタマにきた。

目玉と脳みそが東京を向いている人間が言いそうなことだ。


数年前、東京でフリーとして仕事をしているプロデューサーと話す機会があった。当時、ぼくは30分のドキュメンタリー番組に携わることがちょくちょくあった。

#NAME?

そう、ぼくはたずねた。そのプロデューサーはアタマをひねったあげく、思い切って値切るかのように、

--1千万くらいだろ?

このときも、アタマにきた。そのドキュメンタリー番組も、80万、90万の制作費で作られていた。

このプロデューサーも、朝日の記者氏も、感覚がマヒしているとしか思えない。考え方が、ふた桁、違うのだ。


朝日の「サブch」なる記事では、「ザ・ノンフィクション」という番組をこう讃えている。

--取材対象と人間関係をきっちりつくるまでは、
#NAME?

当たり前である。そんなこと、制作する者にとって、基本であり、常識である。そんなに珍しいことのように取り上げて言われるほど、めちゃめちゃな取材は、現場はやっていない。出たとこ勝負、突撃取材とは違うのだ。


#NAME?

どんなドキュメンタリーでも数ヶ月はかかる。これまた当たり前。今、ぼくが携わっている番組は、取材を始めてから2年以上経っている。その集大成が、ようやく今月末、1時間番組にまとまる。

こつこつと取材を続け、ひとつの番組を作りあげる。ローカルでは、そんなこと、フツウなのだ。声を大にして視聴者に告げるようなことでもない。


ローカルだからこそ、コツコツできるとも言える。「ザ・ノンフィクション」という番組は、キー局の番組。キー局でドキュメンタリー系の番組を作り続けることは大変なことには違いない。この記事を書いた記者も、それを知るからこそコラムにとりあげたのだろうから。しかし、それにしては、表現が軽い。


ぼくが住む九州地方では、10年以上続いているドキュメンタリー系番組が数本ある。中には30年をこす番組もある。どの番組も、予算不足できゅうきゅうとしている。「もうやめよう」という、営業的な声も、もれ聞こえる。

しかし、それでもやめない。スポンサーもついていないのに作り続けるのは、“作る場”はいったん消えると、二度と戻ってこないから。現場の人間がそれを痛いほど知っているからなのだ。

グルメも旅もいい。ぼくもよく見るし、楽しい。賑やかしい情報番組を情報源のひとつとして活用している視聴者も多い。

しかし、そうした番組だけを作るようになってしまっては、テレビ局として存在する意味が半減する。

多くの部数ははけなくても、出版されるべき書物があるように、視聴率があがらなくても、視聴者に提示すべき出来事、事実、真実がある。それがあるかぎり、ドキュメンタリー系の番組は作り続けられなければダメなのだ。


そうは思えど、現実は厳しい。売上の上がらない番組を自社で作ることをやめる局は増えている。制作プロダクションに下請けさせるのだ。ぼくがアタマに来た朝日の記事でも、「ザ・ノンフィクション」には40社の制作プロダクションがかかわっていると記されている。

局の人間が関わるのは、プロデューサーとして名前だけ。あとはすべて外注というのが、もうフツウだ。お金を出して、外部の人間に制作力を身に付けさせているようなものだと常々思うのだけど、もうこの流れは止まらないのだろう。


きのう、メールで某局から仕事のオファーがきた。この番組、制作費は片手の指(それも、より少ない本数)で足りる数百万円。だが、それでもローカルでは通常の数倍だ。

一千万円の制作費を“極めて”安いとする記者氏は、この制作費をどのように評してくれるだろうか?

(2004.05.22)

URL:http://plaza.rakuten.co.jp/izumatsu/4010

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