今日は都合により、過去記事の再掲をさせていただきます。
例のクロマグロ禁輸の問題に絡んで振り返ってみたくなりました。もう2年も前のエントリーですが、本質は何も変わっていないと思います。
1.日豪捕鯨問題
南極海で日本の調査捕鯨船に米環境保護団体のメンバー2人が拘束された事件が起こったが捕鯨問題について考えてみたい。
2007年11月のオーストラリア総選挙で、環境保護を掲げた労働党が圧勝した。労働党は「日本の調査捕鯨監視」を選挙公約に挙げており、もともと反捕鯨の強硬派。
オーストラリアでは、クジラ・ウオッチングが人気で、捕鯨反対の世論が根強いという。
中でも、過激な妨害行為を働くことで、今回クローズアップされたのがシーシェパード。
シーシェパードは、グリーンピースから分かれて1977年に設立した団体で、各国の捕鯨船や漁船に対し、体当たりなどで何隻もの船を沈めるほどの過激な行動から、環境テロと批判されることもある。
日本の調査捕鯨船もこれまで何度も妨害にあっていたけれど、ついに今回の事態に至った。
だけど、いきなりこのような事件が起こったわけじゃなくてその前哨戦となる戦いはずっと前から始まっていた。
1982年の国際捕鯨委員会(IWC)での商業捕鯨の全面禁止の採択と87年からの施行以来、IWC科学小委員会による、いくつかの鯨類資源については持続可能な開発ができるという結論にも関わらず、反捕鯨キャンペーンは行われてきた。
中でも悪質なのは、1985年の日本航空ボイコットキャンペーンや、複数の自動車メーカに脅しをかけて、NGOに寄付させた事例、さらには、IWCで日本の立場を支持したという理由で、数カ国のカリブ海小島嶼国に対して観光ボイコットが行なわれた。
これらキャンペーンがあまりにも酷かったこともあって、1994年IWC会議では委員が加盟国への攻撃に対して抗議せざるを得ないまでになったという。
これらに対して、日本政府は主に、鯨を殺すなんて非人道的だ、という批判と、環境・動物福祉の議論のふたつに対して対応してきた。
前者に対しては、鯨をなるべく苦痛を与えない捕殺方法を調査し、いまではニワトリや豚を屠殺するよりも苦痛が少ないとされるペンスライト銛の使用に至っている。
また後者に対しては、IWCが1981年に、人々の文化的必要性に対応するために、「原住民生存捕鯨」という新しいカテゴリーを定義したのをきっかけとして、文化的多様性の保存を強調することによって、先住民や地域住民が自らの発展の道を自分で決める権利の主張をおこなってきた。
だけど、オーストラリアやニュージーランドなどの反捕鯨国は、資源量や捕獲の人道性にかかわらず、クジラはいかなる状況の下でも捕獲されるべきでないという立場をとっている。このような動物を殺すことは道徳的に間違っているのだ、と。
もはや捕鯨問題は、鯨からより広範な環境問題、動物の権利問題のシンボルに変えられてしまっていることは否めない。
2008年1月21日の毎日新聞にこんな記事があった。少し引用してみる。
-- 某国外交官はさらにこう語った。「捕鯨問題で国際社会での日本の印象は、バッドボーイ(反逆児)。これはどうしようもない実態だ」
では、どうすれば状況を変えられるのか。「まず、日本の外交官がそれぞれ各国にきめ細かく説明することだ」
その通り。捕鯨論争の主戦場は海外にある。日本外務省の力量が問われているのだ。--
これまでの政府の努力を考えると、毎日新聞のように日本外務省の力量を問うのは多少気の毒な気もするけれど、プロパガンダに対する対応が甘かったということは言えると思う。
オーストラリア政府も昨年10月から、YOUTUBEを使って日本の子どもたち向けの反捕鯨キャンペーンを開始していた。
たとえそれが、相手のプロパガンダであったにせよ、こちらの言い分があるにせよ、説明不足は自分自身の責任であって、相手の責任じゃない。
2.日豪プロパガンダ戦
オーストラリアが日本の調査捕鯨に反対していることをめぐり、「豪州も希少な野生生物を殺している。人種差別ではないか」と批判する動画がYOUTUBEに投稿され、波紋を呼んだ。
閲覧は約3週間で80万回以上。豪州の公共放送ABCが、「品がないことだが、両国の関係には影響しない」とするスミス外相の反応を報じる事態にまでなった。
はっきりとプロパガンダを仕掛けられたときに対抗しようと思ったら、すかさず、抗議しておくことが大切。
プロパガンダ戦って、直接の戦闘行為ではないから、当事国だけで勝敗は決まらないことが多い。その他大勢の「中立の」国々をどれだけ味方につけるかも大きな要素。
だから一方的な非難に晒されても、黙りこくってばかりいると、それを認めたことと周りに受け止められて、その時点で勝敗の殆どは決まってしまう。
だから、まず、言われたら即座に言い返して、お互いにけん制しておくのが大切。その内容は相手に非難されたのと同質な内容で返すのが最も効果がある。貴方はそうはいうが、自分でも同じことをやっているじゃないか、と。
こういったものは、議論に入る前に行う作法みたいなもの。それくらいの意識でまず牽制球を投げておいて、互いに議論する準備ができてから、ゆっくり議論に入ればいい。
もたもたしていると、嘘八百を周りが信じてしまって、おしまいになってしまう。
その意味でYOUTUBEにアップされた例の動画が、日本、または日本人から発信されたものだとしたら、プロパガンダ戦の緒戦としてはセオリーの反撃といえる。ただこれまでの日本からするとちょっと考えられなかった反撃ではある。
3.抗議の分割払い
例の動画に対する反応は様々だけど、YOUTUBEのコメント欄をはじめとするネット上では日本に対する非難が主流で、新聞などのメディアでは、賛否両論、中には、自分達も牛や鶏を食べるよな、といった自省のコメントもあるそうだ。またオーストラリア地元紙でも、比較的中立的な意見も掲載されたらしい。
少なくとも非難一辺倒ではなくなった。
日本人はキレるギリギリまで我慢して最後に大爆発してしまうところがあるから、それでかえって損をしてしまうことが多い。
チャーチルの「対日世界大戦回顧録」にそのことを示す有名なくだりがある。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。
反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数が上がるのに、それができない。それでもう一度、無理難題を要求すると、これも呑んでくれる。すると議会は、いままで以上の要求をしろという。
無理を承知で要求してみると、今後は笑みを浮かべていた日本人がまったく別人の顔になって、
「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては刺し違えるしかない」
と言って突っかかってくる。
英国はマレー半島沖合いで戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈されシンガポールを失った。日本にこれ程の力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
日本人は外交を知らない。
相手がまだまだ大丈夫と多寡をくくっているときに、いきなり大爆発したら双方被害が大きい。怒りを小出しにしてゆけば、互いに間合いを計るようになる。
借金はいっぺんに全部返したほうが得だけれど、抗議は分割払いにした方がいい。
怒りを小出しにすることで内に溜めない。怒りがぐるぐると自分の中で回りつづけるとやがて憎しみや恐怖に変わることさえある。精神のダークサイドが待っている。
そこまでいくと国民感情が一気に爆発して政府としてもそれを抑えられなくなる。そちらのほうがよっぽど危険。
こういったプロパガンダ戦に関する日本国民の不満のほとんどは、政府の対応がなかなか見えないことと、見えたとしても見えるまで時間がかかりすぎること。即座に軽いコメントを返すくらいの配慮があれば大分違う。
危機管理というか、こういわれたら、こう言い返すというシミュレーションを何度もやって、想定問答を作っておく。そういった準備をいつもしておけば、国民の不満のかなりの部分は解消する。
4.反撃のルート
プロパガンダに対して反撃をするとき、民間レベルで行うのと国家レベルで行うのはその意味合いが多少異なる。民間レベルでの反撃は、いくら激しく対立したとしても、それは国家意思ではない、と逃げをうつことができる。決定的な対立になるまでに時間を稼げる。
国家レベルの抗議になると、後戻りが聞かない。国が対外的に過ちを認めた場合は謝罪と賠償がついて回る。
だから、戦争のように白黒はっきり付くものなら兎も角として、プロパガンダ戦で最初の段階から国が前面に出過ぎると、その他の面での影響が大きくなる。だから取り扱いに慎重になるのはある意味当然。
国レベルでの抗議は局長級なり、外相会談なりで行えばいいけれど、ひとつの対立で、お互いのその他の利益を阻害することのないように配慮するのは国益からみてもごく普通の選択。
先ごろ、高村外相とスミス豪外相の電話会談があったけれど、その途中何度も、この捕鯨の問題という一事で良好な日豪関係を害するものではない、ということを繰り返しスミス豪外相が言って、全く同感であると答えたと高村外相も明かしている。
また、国レベルで抗議する場合、特に首脳レベルで行う場合はその表現にうんと気をつかうのも、また当然のこと。
従軍慰安婦に関して、米ニューズウィーク誌のインタビューに応じた、安倍元総理の回答も、「慰安婦の方々に人間として心から同情する。日本の首相として大変申し訳ないと思っている」と改めて謝罪しつつ、「20世紀は人権が世界各地で侵害された世紀で、日本にもその責任があり、例外ではない」と言って、そんなことをいうけれど、君達もやっているじゃないか、と暗にほのめかすことで、(同質内容で)反撃した。
YOUTUBEの動画は確かにインパクトがあった。日本から発信されたたった10分たらずの動画で、オーストラリア中が大騒ぎになった。あまりの騒ぎにオーストラリア外相までコメントを出すほどに。しかもその動画は、何処の誰とも特定できない個人。決して国レベルじゃないという点がポイント。
国家意思としての対立は最後の最後での選択肢であるべき。国の意思決定の後ろには何もない。民間レベルでガヤガヤやっているうちに、国のレベルできちんと話し合って、折り合いをつけるのが一番平和なやり方。
今は日本が民間レベルでの反撃、オーストラリアが国中と政府が一部乗り出しているくらいの騒ぎ。早いうちに治めておかないと、今度はオーストラリアの方が後に引けなくなってしまう危険がある。
向こうから仕掛けてきた話じゃないか、と憤慨するのも結構だけれど、そのとおりにすると色々お互い困ったことになるから、うまくどこかで妥協するのも大人の対応。
5.民主国家と独裁国家におけるプロパガンダの違い
プロパガンダそのものの意味合いも、相手が民主国家か、独裁国家なのかで少し異なる。そのポイントは民意が反映されるかどうか。
民主国家では良くも悪くも民意が国策に反映する。だから民間レベルで反撃しても、相手国の民意がなるほどそうだ、と思えばやがて国政に影響してブレーキをかけることができる。民間レベルと国レベルとの2つの反撃ルートがあるから、決定的対立になるまで時間を稼ぐことができる。
だけど、独裁国家では、民意は決して国策に反映することはなくて、独裁階級の都合で決まる。いくら国民が戦争は嫌だと思っていても、独裁者の命令ひとつでそうなってしまう。
だからプロパガンダに対して、いくら民間レベルで相手の国民を説得したところで、あまり意味はない。
独裁国家にとってプロパガンダは便利な道具。プロパガンダの内容がどんなに無茶苦茶な内容であっても構わない。自国民がそれはおかしいのではないかと疑義をいくら呈したところで民意が国政に反映しないのだから、国民の意見など無いも同然。
しかも独裁国家がプロパガンダを行うときは、最初から国レベルでの攻撃がほとんどだから、相手は最初から背水の陣。独裁国家相手のプロパガンダ戦では、相手が引くことは絶対ないと最初から覚悟しておいたほうがいいくらい。
だからこの場合は、相手の国民より、さらにその他大勢の「中立の」国々をどれだけ味方につけるかが、うんと大切になる。相手を孤立するように仕向けないと、独裁国家に対してプロパガンダ戦で勝利を収めるのはなかなか難しい。
6.世界一という意識の対立と背景のズレ
これまでに争われてきた捕鯨問題の争点はWikipediaによると下記7点となっている。
1.資源としてのクジラ
2.自然保護問題としてのクジラ
3.知的生物としてのクジラ
4.文化としての捕鯨
5.原住民生存捕鯨
6.ホエールウォッチングとの対立
7.人道的捕殺問題
それぞれについての様々な意見はあるのだろうけれど、これを更につきつめてみると、鯨を資源(家畜)とみるか保護動物とみるかといった2点に集約されるように思う。1、4、5が資源とみる立場。2,3,6,7が保護動物とみる立場。
今の日本にとって、商業捕鯨の必要性は薄れている。普通のスーパーで鯨肉は手に入らない。日本が恐れるのは、その先の海洋資源、マグロとか鰯とかが漁獲禁止されること。
たぶん西洋人は、自分達の文明が世界一の文明だと考えているのだと思う。それは過去数百年をみれば、確かにそう。だけど、日本人も意識しているかどうか分からないけれど、食や食文化に関しては、おそらく自分達が世界一だろうと思っているのではないか。特に魚に関しては。
英紙デイリーテレグラフ東京特派員のコリン・ジョイス氏は、その著書で日本人の食に対する意識に触れ、こう語っている。
日本人はよく「日本の料理はおいしいが、イギリスの料理はひどい」という(その口調にぼくはときに自惚れが混じっているように感じることもある)。
これにはぼくは賛成できない(しかし普段は礼儀正しく控えめな日本人が、ことこの話題に関してはひどく無礼で慎みがなくなってしまうのはいったいどうしてなのだろう?)。
食文化については、世界一だと内心自負する日本と、文明で世界一だと思っている欧米の対立。お互い世界一と思っているので簡単には譲れない。でもそれぞれ世界一と思っている背景がズレているので、話は一向に噛み合うことがない。
例の動画で、日本国内でも人種差別まで指摘するのは行き過ぎだという声も上がっていたけれど、背景に背負っている意識のズレに起因する問題のようにも思える。
この問題を食文化レベルで捉えるか、種の選択と保護というレベルで捉えるかの違い。
7.スチュワードシップ
神は彼らを祝福して言われた。「生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを支配せよ」(創世記1章28 節)
西洋、特にキリスト教文明圏では、神と人と動植物がはっきりと区別されている。創世記では、神は人にすべての生き物を支配せよ、と命じている。
従来のキリスト教の伝統的自然観では、自然を支配すべき対象と見なして、自然からある意味搾取するのを当然としてきた。近年、環境問題が深刻になるにつれて、解釈のみなおしが行われるようになった。
カリフォルニア大学の歴史学教授であったリン・ホワイトは、キリスト教は、人と自然の二元論を打ち立てただけでなく、人が自分のために自然を搾取することが神の意思であると主張したことで、自然に対するとてつもない罪の重荷を負っていると主張して論争を巻き起こした。
この論争を切っ掛けとして、聖書解釈の見直しが行われ、エコロジー神学が発生してきたという。
エコロジー神学とは、主にエコロジカルな視点から聖書などを再解釈し、創世記だけに注目するのではなく、他の箇所に、とりわけこれまで見過ごされがちであった詩編や文学にある自然描写の多様性に目を向けることで新たな解釈をする学問のこと。
たとえば、創世記の続きでは、傲慢になった人間達に対して、神は洪水をおこして地上のすべてを滅ぼす。そして生き残ったノアと神と契約を結ぶのだけど、その時には「従わせよ」の言葉はなかったりする。
エコロジー神学では、創世記の創造物語をエコロジー的にいかに理解するかということ、創世記1章28節の「従わせる」「支配する」をどのように解釈するかということがそのの中心となっているらしい。
ドイツのゲルハルト・リートケは、ここで「従わせる」「支配する」と翻訳されている語には「暴力的意味合いがあると見るべきではない」と述べて、自然と人類の共生を開くエコロジー的なキリスト教として、創造物語の再解釈を行っている。
こうした流れの中で、スチュワードシップという考えが生まれてきた。
スチュワードシップとは、従来の自然を人間が支配するのではなくて、能力のある人間が他の弱い被造物の立場に下りて最高レベルの世話(救済・管理)をするというもの。
要するに人間は自然の「支配者」ではなくて「管理者」だとする考え。
この考えが環境保護や動物保護に転化されると、いったん何かの動物を保護対象だと決めるとすると、それを乱獲することはもとより、一匹でも獲るような行動は悪魔の所業と映るはず。
8.日本的共生の思想
山川草木みな仏性有り。悉皆成仏、悉有仏性。日本人はすべてのものに「いのち」を見出していた。
日本人的感性では、他の動植物を食べるということは「いのち」をいただくのと同じ。
歴史的に、日本人の殺生は生態系を壊さない範囲の「間引き」という考えが中心。採れた作物、獲った獲物は感謝していただくし、時には彼らのために供養すらする。日本各地にある鯨神社なんかはその一例。
そこには、自然を管理しようという考えは見られない。これをもって日本的共生の思想だ、ということもできるかもしれないけれど、単に管理しなくても沢山の自然の恵みがあったという面も忘れてはいけない。ほおっておいても魚は獲れるし、米も実る。日本は別名「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」
中世ヨーロッパでの麦の収穫率(単位面積あたりの収穫量)は米の半分程度しかなかったし、収穫倍率(種籾に対する収穫量)でみても、麦はせいぜい3~4倍だった。それに対して、米の収穫倍率(種籾に対する収穫量)は10ぐらいあったといわれている。
これくらい自然の恵みに差があると、自然状態をみる見方が彼我で違っていても仕方がないのかもしれない。ヨーロッパでは生きるために自然と戦い、日本は生きるために自然を自然のままで留めおいた。
かといって、日本人は食において全く自然と闘わなかったというとそうでもない。米や野菜、果物の品種改良がそれ。寒冷地でも獲れる米、甘いイチゴ。それこそ品種改良は山のように行っている。
なぜ品種改良するようになったかといえば、人口が増えて、既存耕作地の作付面積では足りなくなったことと、もっとおいしいものを食べたくなったから。
品種改良といえば聞こえはいいけれど、動物に置き換えれば、キメラとか、改造動物とか強化生物を作るようなもの。日本人だって、食うに困ればやっぱり自然と闘う。
ただ、日本とヨーロッパで自然に対する態度に違いがあるとすれば、多分その出発点の発想だと思う。ヨーロッパは「人間が」生きるため。日本は「作物が」よく生長するため。
ヨーロッパのように人間を出発点におけば、人間の都合の良いように自然を改造・管理しようとするのは理の当然。
だけど、日本のように、ほおっておいてもどんどん草木が生長するような国土では、それぞれの草木同士が互いに邪魔しあって、双方の生長が阻害されないように、適当に間引いて、交通整理してやるのが基本になる。手入れと剪定で十分の、ある意味自然に甘える考え方。
日本人の自然観では、自然は自然のままが一番。下手に弄らないほうがいい、という考えが根底にある。自然まかせが一番うまくいくと思ってる。
だから日本人からみると、なにかの保護動物が増えすぎて、他の動物が絶滅しそうだからといって、途端にその保護動物を間引きしたりするようなスチュワードシップは、とても「へたくそな管理人」にみえる。
9.いのちの序列
エコロジー神学からスチュワードシップという考えが生まれてきたけれど、この考えであっても日本人の自然観とはまだ対立する部分がある。
支配だとか、管理だとか言ったところで、人が動物を支配・管理または保護して「あげる」という考え方が根底にあるのは変わりない。
人が動植物を管理するということは、しっかり管理すべきものと、適当でいいものとを人間が勝手に決めている、ということを意味してる。言い換えれば、動植物の種に「序列」をつけている。
この考え方からいけば、人間が食べていい「動植物」と食べてはいけない「動植物」がいて、それがどれなのかを人間が決めていいことにもなる。
だから、牛や鶏は食べても良くて、鯨はダメというのは、根底にこのスチュワードシップの考えがあるのだと思う。
こうした「いのちに序列をつける」という考え方は、決定的に日本人の価値観と対立を生む要素になりうる。
なぜかといえば、日本人こそが世界から表向きにせよ、人種差別をなくした原動力だったから。
第二次大戦をどうみるかというのはいろいろな見解があるけれど、その後の結果を見る限り、少なくとも植民地支配は悪であったという認識と人種平等の原則を世界基準にさせたということだけは言える。
日本は敗戦という代償を払ったけれど、100%の敗北というわけではなくて、思想レベルにおいて、人種差別撤廃というカウンターパンチを放っていた。
人種差別って、人種間で序列をつけることと同じ。動植物の命に序列をつけたように人種にも序列をつけていたのを、日本が第二次大戦を通じて、その序列を無くさせた。それまでの欧米の価値観からみれば、痛恨の思想的敗北。
だから、捕鯨問題も、人種間には序列はないかもしれないけれど、動物にはやっぱり序列があるんだ、とする欧米の価値観の反撃にみえなくもない。
彼らがおそらく持っているであろう、神>人>動植物の序列があると信じたい心理。もし、日本的自然観を受け入れて、人=動植物という価値観にまでなると、更に思想的敗北を喫することになる。
もしも本当に、彼らにこういう深層心理が働いていたとしたら、例のYOUTUBE動画は物凄く痛いところを抉り出したといえる。
表向きは人種平等・自然保護を謳っているのに、内心はいのちに序列をつけていることを炙り出したから。
10.いのちをいただくということ
捕鯨問題で環境保護団体は、鯨は賢い生き物だから、殺すのは可哀想だ、と言っている。そんな人でも普段の食事では、なにかを食べている。たとえベジタリアンであっても野菜だけは食べる。
普段から野菜は平気に採って食べているけれど、もし野菜に感情があって、声を出せるとしたら料理なんかできなくなる。「やさいごろしー」と叫ぶニンジンに包丁は入れられない。
野菜の品種改良や遺伝子組み換えは気にもしない癖に、クローン羊やらなにやらには拒絶反応を示す人間。だから食料にするものの「生きている感」をどこまで感じるかによって、食べるということに対する感情は変わる。
すべてのものにいのちがあって、人間はそれを食べずには生きてゆけないから、全てを無駄なく感謝していただくのが日本人的感性。
いのちのあるなしに関わらず、食べられるために存在する動植物とそうでない動植物がいると線を引いて納得させてしまう欧米人。
だけど、人間が一切手をつけなくても、野菜や果物もいずれ腐って朽ちるし、動物も寿命がくれば死ぬ。人間だってそう。仮に遠い未来、人間がなにも食べなくても、なにかのカプセルさえ飲めば、それで十分生きていけるような世の中になったと想像してみても、やっぱり、牛や鶏や鯨はいて、野菜や果物は豊かな実りをつけ続ける。
たとえ、動植物が人間に飼われて繁殖したとしても、自然の摂理の中で生きていったとしても、食物連鎖そのものが止むことはない。
これまでも人間が自然環境を破壊して絶滅にまで追い込んだ種は沢山いる。
どんな命も一族の繁栄を願うもの。繁栄とは持続する発展。いかなる環境においても生き残る種のいとなみ。
なにかの種を保護して、その影響で別の種が滅びてしまったとき、それは是とされるのか。
間引きを全くしないで、特定種が増えすぎて、他の種の生存域がなくなっていったとき、それも是とされるのか。
ひとつひとつの種のいのちを人間がいただくとき、食べられる等の食材自体は悲しみにくれているかもしれない。だけど一族の一部が他の種の食料としてが饗されることで、逆に自然界のトータルバランスをとって一族の繁栄を保障している面もあることは事実。
食物連鎖の頂点にいる人間だって、自ら食べる食料供給の許す範囲でしか生存できない。
間引きという考えも、自然を管理するという考えも、それが許容される条件は、自然界全体のバランスをとって、おのおのの動植物がなるべく長く一族の繁栄を続けられるように配慮しているときなのだろうと思う。

この記事へのコメント
ミンク鯨は?
シロナガス鯨が減っているのは事実として、それならシロナガスクジラは捕らないようにすればいい。ミンク鯨とシロナガス鯨を一緒にすることが問題。
八目山人
今日、たかじんで捕鯨の事を取り上げていて、説明に出ていた人が、調査捕鯨で得たデータは、英文で書いてIWCに提出される。それが日本語に訳されたことは無いと言っていた。
シロナガスクジラは1000頭以下に減ってしまって、絶滅の虞があるそうです。
ワシントン条約で、どうしたらシロナガスを増やせるか、プロパガンダを排して討議して欲しいですね。
それにしても、日本の外務省や水産庁が何をやっているのか、全く見えてきませんね。