私が申し上げたのは、沖縄の負担というものを軽減するということ。それがある意味で日米同盟というものを持続的に・・・え~、撤回(ママ)させていく、発展させていくためにも必要なことだということは申し上げました。4月12日夜 鳩山首相 於:ワシントンで記者団に対して
先の核サミットにおいて、友愛殿はオバマ大統領に相当キツイことを言われたようだ。なんでも、「最後までやり遂げることができるのか」と不信感で一杯だったと報道されている。
もちろんオバマ大統領は、何を話したかを公表していないし、友愛殿もそんな発言は無かったと否定しているから、本当のところはどうだったのかは分からない。
だけど、ああいう報道が流されてしまう時点で、オバマ大統領は、友愛殿を少しも信頼などしていないことは充分に見てとれる。
自民党の町村氏は、4月15日、町村派の総会挨拶で自ら得た米側関係者の情報として、「オバマ米大統領は、鳩山さんと会談するのは本当に嫌だ、顔も見たくないというような表現までしたそうだ」と発言している。
これらを踏まえると、実際の会話は、ずっと厳しいものであって、友愛殿は自身の「友愛空間」を粉々にされたのではないかと見ている。たとえば、
オバマ大統領 「約束を何ひとつ守らない君は日本の代表ではない。私の隣に座る資格なんてないんだ。君と会うのは本当に嫌だ。顔も見たくない。とっとと政権から降りて、二度と私の前に現れないでくれ。」くらいのことを言われたのではないか。
特に、町村氏が明かしているように、「鳩山さんと会談するのは本当に嫌だ、顔も見たくない」という表現をオバマ大統領が本当に言ったとすれば、これは友愛殿の存在否定、即ち、かの御仁の「友愛空間」をズタズタに引き裂く発言になる。ゆえに、この会話で友愛殿は、そのアイデンティティを根本から崩されたのではないか、と見る。
国際関係においては、相手の接する態度、言外の振る舞いで意思を伝えることなんて当たり前。言葉や文書では角が立つことが多いから、あえて立ち振る舞いで暗黙のサインを送る。
もともと、首脳会談を拒否られている時点で、気づいて態度を改めないといけないのに、全然気づかないように見えるものだから、とうとう言葉に出して直接言われたのではないかと見る。
本当は、とっくに反省して立ち振る舞いを改めないといけないのだけれど、友愛殿に関しては、貴族のプライドがその邪魔をする。
友愛殿は、基本的に、お坊ちゃんだから、冷たくされるのに慣れてないし、激しく罵倒されるのにも慣れてない。チヤホヤされるのが当たり前の環境に育った者が、突如冷遇されたらどうなるか。まぁ、大概はひねくれてしまうのが普通。
つまり、オバマ大統領の冷たい態度。友愛殿はあれにカチンときている。元々、反米の気質があったところが、はっきりと反米を決意したのではないか。
その意味では、むしろ、反米ではなくて、「恨米」といったほうがいいのかもしれない。
冷遇されることで、ちゃんとしろよとサインを送られているにも関わらず、自らを省みるのではなくて、恨みを溜める。下手にプライドの高い人が陥り易い落とし穴。
だから、友愛殿は冷遇された「恨み」を晴らすために、サミット後の記者会見で、その意趣返しとして、日米同盟を破棄するぞ、という本音を、ついぽろっと漏らしてしまったのではないかということを、筆者は恐れている。
※件のインタビューを聞く限りでは、撤回と展開の中間のような発音で、どちらにも取れなくもないのだけれど、「持続的に展開」では意味が通らないし、無意識のうちに撤回したいという深層心理が頭に浮かんだ?と、ついつい穿った見方をしてしまう。それほど、国民からみても友愛殿の発言は信用ならない。
サインをサインとして受け止らず、冷遇されたことだけを恨みに思っていたとすると、そんな精神構造は宰相としては、全くの不適格であると言う他ない。
そういえば、昨年9月の日米首脳会談で、途中でテレビカメラが入って会談が強制中断されたことがあった。あれとて、冷遇といえば冷遇だろう。だけど、問題はその後で、オバマ大統領と握手した友愛殿は、その手をズボンで拭っていた。
その模様はカメラに収められ、ネットで話題になったことがあった。もしかしたら、あれも会談を強制中断された腹いせに、わざとやったのかもしれない。今にしてみれば、そう思えてしまうのがなんとも情けない。
今の険悪な日米関係からすると、あれを聞いたアメリカが、友愛殿の排除を決意したとしてもなんら不思議じゃない。


◇非公式会談
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題を巡り、鳩山由紀夫首相とオバマ米大統領が12日夜(日本時間13日朝)、ワシントンで非公式に会談した際、首相が「5月末決着」を明言し協力を求めたのに対し、オバマ大統領が「最後までやり遂げることができるのか」と強い不信感を示していたことが18日、分かった。日米外交筋が明らかにした。
オバマ大統領は、昨年11月に東京で行われた首脳会談で、首相が「トラスト・ミー(私を信頼して)」と述べたことに言及して、「しかし、何も進んでいないではないか。キャン・ユー・フォロー・スルー?(最後までやり遂げられるのか)」とただしたという。
非公式会談は日本側の要請により、核安全保障サミットの夕食会の冒頭、オバマ大統領の隣に鳩山首相が座ることで約10分間行われた。「5月末決着」の期限を目前にしながら、米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(沖縄県名護市)に移設する現行計画に代わる移設先が正式な日本政府案として一向に提案されないことに対し、オバマ大統領が首相に直接不満をぶつけた形だ。
米側は移設先について「運用上も政治的にも維持できるもの」(ゲーツ米国防長官)として、地元の合意を重要視している。しかし、政府が最有力候補として検討する徳之島(鹿児島県)では18日、移設反対集会が開かれるなど、「5月末決着」のめどは全く立っていない。【野口武則】
URL:http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100419ddm002010126000c.html

◇連立内から「5月末無理」
鳩山由紀夫首相は15日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で「5月末決着」について、(1)米国(2)地元(3)連立--の合意が必要と指摘、重ねて決意を示した。しかし野党はオバマ大統領との「10分間」の会談を経た米側の反応が厳しいなどと追及。連立を組む社民党からも「このままでは5月末決着は無理」との指摘が公然とあがった。平野博文官房長官は火消しに努めたが後手に回った感は否めず「首相責任論」が現実味を帯び始めた。【上野央絵】
「オバマ米大統領は、鳩山さんと会談するのは本当に嫌だ、顔も見たくないというような表現までしたそうだ」。町村信孝元外相は15日、自民党町村派の総会あいさつで自ら得た米側関係者の情報として明かした。
鳩山首相とオバマ大統領が米ワシントンで12日(日本時間13日)行った非公式会談を巡り、米側から厳しい反応が示されたとの観測が出ている。外相経験者は「米国は今回の会談でいらだちを一層強めている」と指摘。日米両首脳の会談を受けて岡田克也外相とルース駐日米大使は14日夜、電話で協議したが、実務者協議には入らず、岡田、ルース両氏間での協議継続を確認するにとどまった。
「野党はこの問題を最大限に利用してくる。今政府が検討している内容では無理だ。『5月末』といってもできない。発想を転換しないと」。社民党の重野安正幹事長は15日、首相官邸で滝野欣弥官房副長官に訴えた。その上で「我々の提案の方向で検討する方が費やすエネルギーは小さい」として、米領グアムや米自治領北マリアナ連邦テニアン島への移設を求めた。鳩山首相も同日、国会内で社民党の照屋寛徳国対委員長から直接提案を受け取った。
一向に政府・与党内で「決着」に向けて方向性が集約されない現状に、平野氏は15日の記者会見で「5月末までにすべてのことが納得、理解してとはなかなか運んでいかない」「書面ができないと理解、合意でないというのは本質論でない」などと予防線を張った。
しかし首相は同日夜、首相官邸で記者団に「米国と沖縄だけでなく国民も『この方向でいこう』と理解を示すことが前提。連立としても合意が必要で、3点が満たされれば決着だ」と説明。「最前線の官房長官だから、もう少し穏やかなものを考えておられるかもしれないが、私としてはそれが必要だと思っている」と述べ、自らハードルを上げた。
自民党の谷垣禎一総裁は15日の記者会見で「5月決着は絶望的だ」と指摘。決着できなかった場合には「当然退陣されるべきだ」と語った。
URL:http://mainichi.jp/select/world/news/20100416ddm002010050000c.html

鳩山とオバマによる「10分間会談」でどんな話があったのか、ってのが判明したみたいです。
《中略》
ロク 2010.4.16 02:48:59
地位を失う、という具体的な目に合わない限り鳩山を始め民主党の人間は自分達の至らなさを自覚しないでしょう。
また、それでも自覚しなかろうが知った事ではありません。
自覚しない連中が現在の位置を占めている事に我慢がならないからです。
原因と結果に関する事をいくら言っても民主党の連中は聞かない。
呆れて思わず言った事に噛みついているばかり。
言わせた方が悪い、などとはツユとも思わないんですな。
鳩山総理はオバマ大統領に「責任取れるのか」と言われ、それが明らかに不信感の現れだったとする報道に「事実無根」と発言したようですが、報道によるとそれは日米の複数の関係者の証言で明らかになった事のようです。
日だけじゃなく米もです。
しかも「複数」。
何を言われたか、自分の感触さえも言えない人物の「事実無根」とどちらに信憑性があると人は思うか。
鳩山総理に考えて欲しいところです。
ネット情報によれば大統領との談話直後の会食の席では、鳩山総理は涙目になってて、フォークやナイフを操る手が震えていた、というんですが本当かどうか。ありそうな話ではあります。
さすがの鳩山総理も
「オバマ流の叱咤激励。」
とは思えなかったか。
岡部まりさんは結局どう転んでも政治に興味がある人ではないらしい。
二人候補にしても、知名度優先思考にしても、小沢幹事長が如何に有権者と参議院をナメているか、よーく判るエピソードです。
民主党的には小沢幹事長はもう選挙では前面に出ない方がいいんではないか。
URL:http://pub.ne.jp/shadow/?entry_id=2861121

オバマ・鳩山由紀夫の日米首脳会談が途中で強制的に打ち切られたとの説ですが・・・
動画を見るまではガセかなと思ってますた。(w
《中略》
この記事へのコメント
「あ~カメラが入ってきちゃったね」とともに、
アメリカ取材陣に沸き起こる嘲笑じみた笑い声。
ユッキー、激しく馬鹿にされてますね。
ここまでコケにされても、
ユッキーは阿呆だから理解できないんでしょうね。
お花畑って幸せだなあ・・・
Posted by ドッキリカメラ at 2009年09月26日 04:08
カルト洗脳済みのぽっぽちゃんは何時もぽじちぶしんきんぐですから。(爆w
Posted by てんこもり野郎 at 2009年09月26日 04:11
不快と呼んでくれないかw
ワロタw
Posted by お手上げ at 2009年09月26日 05:02
Death and Night and Blood (YUKIO)
Posted by 七宗 at 2009年09月26日 05:16
[証拠]
http://gazox.com/JYsgICqnUYM.html
Posted by 読者 at 2009年09月26日 05:44
ぽっぽ握手の後に(1:25)、
右手をズボンで拭っているのは何でさ?
Posted by 気になった at 2009年09月26日 06:00
URL:http://antikimchi.seesaa.net/article/128868811.html

『春と修羅』序詩に学ぶ
社会のなかの人間について考えてみたい。つまり「われわれはいったい何者なのか」「わたしはだれ?」「わたしはなぜわたしなのか」という根源的な問いについてである。いうまでもなく、これは哲学・思想・宗教・文学などで追求されてきた問題だ。社会学では、この問題群を「自我論」もしくは「アイデンティティ論」と呼ぶ。社会学の議論は、もちろん哲学や文学などでなされてきた議論と無関係ではありえず、むしろそれらと呼応するものである。そこで、ここでは見田宗介にならって宮沢賢治の思索からこの問題領域へ分け入ることにしたい▼1。
一九二四年に自費出版された『春と修羅』という詩集――賢治はこれを「心象スケッチ」と呼んでいた――の冒頭に「序」という名の詩がおかれている。これは詩集のために新たに書かれた序文のようなものであり、通称「序詩」と呼ばれる。それはつぎのように書きだされている▼2。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
この連は、賢治が「自分[自我]とはなにか」について考察している部分である。そもそもこの序詩は、賢治が友人への手紙のなかで「私はあの無謀な『春と修羅』に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く返還しようと企画し、これを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと愚かにも考へたのです」とのべているように、かなり熟考されたものであり、多様な分析に耐えうる質の高さをもっている▼3。したがって、これを仏教的文脈・自然科学的文脈・文学的文脈において解釈することが可能であるように、自我論として解釈することもできるはずだ。そこで「自分とはなにか」についての賢治の明識を五つの社会学的命題群にときほどいてみよう▼4。
「わたくし」とはなにか
(1)自我は現象である――この詩は「わたくしといふ現象」ということばで始まっている。わたしたちは、ふだん「自分というもの」「自我というもの」をあたかもひとつの自明なものとして実体化しがちである。しかし、それは正確にいうならば「自分ということ」「自我ということ」なのであって、実体のない一連の「現象」なのである。よく読めばわかるように、ここで賢治は「わたくし」が「電燈」であるとはいっていない。「照明」だといっている。しかも「(ひかりはたもちその電燈は失はれ)」とまで念を入れている。これも自我の実体的把握をしりぞけた表現である。また「透明な幽霊」という表現も非実体的現象であることを強調する。
(2)自我は流動的である――ここでは自分を「ひとつの青い照明」にたとえているわけだが、それは確としてともっているわけではなく非常にあやういものとしてイメージされている。「仮定された」とか「いかにもたしかにともりつづける」というフレーズがそれであるし、「青い」との表現もそれを暗示する。これは自分が自分でありつづけることが――「ひとつの」はそれを表示している――いかに偶発的(contingent)なことか、そして自分の感じている自我が結局ひとつの虚構にすぎないことへの予感を意味する。現象としての自我は、一見固定的なものにみえて、じつは本質的に流動的なのである。
(3)自我は関係である――「風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら」という部分の「風景」とは自然環境のこと、「みんな」とは他者でありひいては社会のことだ。自我はけっして自立・自存しているわけではない。それはエコロジカルなシステムの一関数であり、他者との交渉によって大きく左右される変数である。これは有機および因果「交流電燈」であるとというときの「交流」にも関連する。「交流電燈」は、ともりつづけているわけではなく、一秒間に数十回点滅しているだけである。ここではそういう科学的意味と、もうひとつの意味が加わっている。人や環境との相互作用という意味での「交流」――すなわちコミュニケーションである。自我は「交流」の産物であり「交流」そのものである。また「交流」はたんに現在の「交流」だけではなく過去の歴史との「交流」でもある。「あらゆる透明な幽霊」という表現は、過去の「風景やみんな」との「交流」の歴史をさすと考えられる。
(4)自我は複合体である――「あらゆる透明な幽霊の複合体」の「複合体」にも注目したい。これはまず関係としての自我把握に呼応してでてくる当然の帰結であろう。「わたくし」はかろうじて「ひとつ」をたもっているものの、じっさいには複数的な構成体であるということ、したがって「統一体」「融合体」などと呼ぶことはできない。
(5)自我は矛盾である――自我が複合体だとすると、当然のことながら、人間と自然とのせめぎあい、そして他者と他者のせめぎあいそのものが、複合体としての自我に入りこんでくることになる。見田宗介によると「賢治の明晰の特質は、それが世界へと向けられているばかりでなく、さらに徹底して自己自身へも向けられていることにあった。そしてこの自己自身へと向けられた明晰はまた、自己をくりかえし矛盾として客観化すると同時に、この矛盾を痛みとして主体化する運動でもあった。このように自己を客観化し、かつ主体化するダイナミズムの帰結こそ、〈修羅〉の自意識に他ならなかった▼5。」
「わたくし」=自我が流動的な現象であり、自然と他者の関数であり、それゆえ矛盾を内部にかかえこんだ複合体であるということ。このような考え方は、自分自身を実体化してとらえて疑わない日常的な常識がたんなる幻想・幻影にすぎないことを明晰に照らしだしている点でもすぐれているし、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という近代主義的な素朴かつ単純な思想をはるかに超出した、哲学的には「現象学的思考」といっていい考え方である。まさに二十世紀的思考である。自分自身を規定してしまっているものがなにかを鋭い感性で冷静に分析する、その明晰さと痛みへの感受において、社会学はとてもかなわないという気がする▼6
《中略》
アイデンティティ・クライシス
精神分析の研究者であるロナルド・D・レインによると「自己のアイデンティティ、とは、自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話[ストーリー]である▼2。」つまり自分を納得させる一種の物語だというのである。しかし、これには他者の承認が必要だ。つまり、アイデンティティを維持するためには、自分の主張するアイデンティティをたえず承認し肯定してくれる他者がいなければならない。レインのことばを借りると「〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである▼3。」つまり、ある程度統一された自我の感覚すなわちアイデンティティは、ふたつの大きな要素から成り立っている。公式風に表現すると――
アイデンティティ=自己定義+他者による承認
だから、アイデンティティというものは、他者との社会関係が明確で、自己定義と他者による定義とが相互に矛盾の少ないものであれば安定するだろうし、人は自己定義を承認してくれるような他者をえらぶものだ。反対に、他者との関係が曖昧だったり、他者による定義が自分にとって好ましくないものだったりするとアイデンティティは不安定なものになる。その結果として一種の心理的危機におちいることがある。これを「アイデンティティ・クライシス」(identity crisis)という。
たとえば、エリート公務員やエリート会社員の場合を考えてみよう。かれがエリートとして人びとから承認され、重要な仕事をまかされ、部下から尊敬されていたとしても、それはあくまで企業組織という社会的文脈において妥当することであって、かりにかれが汚職事件で逮捕される事態になったり、派閥抗争にやぶれたり、病気や事故によって不慮の現役引退を余儀なくされたりすると、エリートとしてのアイデンティティはもう他者から承認されないことになる。警察の取り調べ室や出向先の子会社や病院の大部屋のなかで、エリートとしての優秀性を主張してもむだなことであるばかりか、むしろ反発さえ買うことになるだろう。このようにアイデンティティは特定の社会的文脈においてのみ承認される。だから、そのような文脈をはなれるときアイデンティティ・クライシスが生じ「自分はほんとうはどういう人間なのか」がわからなくなる。かりに本人以外だれも認めてくれないアイデンティティにしがみついていると、人は「精神病者」とみなすかもしれない。少なくとも「境界事例」とみなされかねない▼4。
《後略》
URL:http://www.socius.jp/lec/08.html
この記事へのコメント
とおる
鳩山首相の辞任だけでは済まない。