「海兵隊の存在というものを学べば学ぶにつけて、沖縄に存在している米軍の存在全体の中での海兵隊の役割というものを考えたときに、それが全て連携していると・・・」鳩山首相
とうとう友愛殿の口から、海兵隊は抑止力だ、との言葉が出た。首相就任後始めて沖縄を訪れた友愛殿にしてみれば、県内移設への理解を求めるためにはこうとでも話すしかなかったのだろう。
だけど、時すでに遅し。普天間に関する友愛殿の一連の発言は、完全に沖縄の人たちを激怒させてしまってる。地元住人との対話集会では「良心はないのか!! 」、「恥を知れ、恥を!! 」と怒号が飛んでいたけれど、当然だろう。よく卵を投げつけられなかったものだ。
それにしても、今のいままで、海兵隊が抑止力として沖縄にいる必要がないと思っていたとは信じがたい。一国の宰相として有り得ない発言。
万が一、それが事実だったとしたら、日本の安全保障について何一つ考えていないと白状するも同じ。何を今更すら、とうの昔に通り過ぎるほどの基本中の基本ではないのか。
更には、記者団から、先の衆院選で「最低でも県外移設」と言っていた事について問われると、あれは代表としての発言で党の公約ではない、と答える始末。全くもって言い訳にすらなってない。
まぁ、強いて良いように解釈するとすれば、自身が辞職することを睨んだ上で、被害が党に及ばないように自分の発言ということにした、くらいか。だけど、やっぱり苦しい。
第一、党の意見を党代表が話さないのであれば、一体誰が発言できるのか。党の意見を言えない代表なんて代表ではない。本当にこの御仁は責任を負うということを知らないとしか思えない。
これでは、自身の発言に重みを感じているなんてセリフも白々しく響くだけ。いくら重みを感じていると何億回唱えたところで、それを行動に表さないのであれば、感じていないも同じ。
共産党の小池晃政策委員長は都内での街頭演説で「党首が選挙の時に公の場で言ったことが選挙公約でないとすれば、国民は一体何を基準に選んだらいいのか」と言っているけれど、全くそのとおり。
ここまで政治家から言葉を奪い去った政治家もいないだろう。与野党問わず負ったダメージは大きく、深い。
肝心の普天間移設も、ここまで県民感情が拗れてしまっては、現行案でもすんなりといく訳がない。
まさかとは思うけれど、友愛殿は、自分が沖縄に乗り込んでいけばなんとかなるのではないかとでも思っていたのではとも勘繰りたくなる。それほど沖縄に行くには最悪のタイミング。
県民大会等であれほどの反対集会をされた後に、のこのこやってきても、受け入れ側の知事や市長が、はいそうですかとすんなり受け入れる訳がない。知事や市長だって、県民、市民の代表だから。彼らも自らの首を掛けて臨んでいる。
みんなの党の江田憲司議員は自身のサイトで、橋本政権当時、如何にして普天間返還交渉を成し遂げてきたのか、その経緯を綴っているけれど、それを読むと、如何に当時の橋本首相や沖縄県の知事、市長らが自らの首を掛け、覚悟を持って、交渉にあたってきたのか良く分かる。
だから、そういった経緯を考えると、今の地元の知事、市長らにしたって、簡単にうんと言う筈もない。そんな生易しいものじゃない。
人々の情と哀しみと、覚悟をまず受け止めることから始めないと一歩も進まない。友愛殿は簡単にみなさんの思いを受け止め、なんていうけれど、本当のところは何にも分かっていないだろう。如何にも軽すぎるとしか言い様がない。
今年の1月に「普天間問題は5月になっても決着するとは限らない 」のエントリーで次のように述べたことがある。少し引用する。
ただ、いざ5月になって、鳩山政権が、辺野古現行案で、とアメリカに回答しても、それですんなりいくかどうかは、ちょっと分からない。
今月の6日に、自民党の石破茂政調会長が、ワシントンでキャンベル国務次官補、グレグソン国防次官補、ベーダー国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長と相次ぎ会談しているのだけれど、石破氏は、記者会見で「日米合意に基づく米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市辺野古)以外の選択肢はあり得ないとの強い意思表明があった」ことを明らかにしている。
特に気になるのは、グレグソン国防次官補から「時期が遅くなればなるほど解決は難しくなる」とし、移設問題の長期化で「いろんな機会を失っている」とコメントしているところ。
いろんな機会とは具体的に何を指すのか定かではないけれど、5月に辺野古現行案でと回答しても、なんだかんだ難癖つけて、普天間に居座る可能性だって無くはない。その場合は当然、民主党政権にとって打撃となる。引っかき回した末、何も解決できないどころか、日米関係を拙くしたという失点だけ残ることになるから。
アメリカが本当にそんな風に難癖をつけてくるか分からないけれど、やるやらないはアメリカが今の民主党政権をどのように見ているかに依るのだろう。日比野庵本館 1/11 「普天間問題は5月になっても決着するとは限らない 」
このエントリーでは、5月に鳩山政権がやっぱり現行案と決めても、アメリカが何だかんだと難癖つけるのではないか、としていたけれど、実際突きつけられたのは、「地元の合意を取ること」という至極もっともな条件。
結果的に、このエントリーで述べたのとほぼ同じような状況に陥っている。5月には決着しない。普天間はそのまま使い続けるしかない。


鳩山由紀夫首相は4日、米軍普天間飛行場の移設問題に関し「昨年の衆院選当時は、海兵隊が抑止力として沖縄に存在しなければならないとは思っていなかった。学べば学ぶほど(海兵隊の各部隊が)連携し抑止力を維持していることが分かった」と記者団に述べた。また、昨年の衆院選で沖縄県外、国外移設を主張したことについて「自身の発言に重みを感じている」とも語った。
■在沖縄米海兵隊 米軍の第3海兵遠征軍の中核。沖縄県によると、在沖米軍の6割近くを占め、兵員約1万2千人が駐留。司令部はキャンプ瑞慶覧(沖縄市など)に置かれている。砲兵部隊を含む第3海兵師団、第1海兵航空団、第3海兵役務支援群などで構成。キャンプ・ハンセン(金武町など)には地上部隊が駐留し訓練場も備える。沖縄県によると、普天間飛行場(宜野湾市)には固定翼機16機、ヘリコプター36機の計52機を配備。朝鮮半島や台湾海峡での有事をにらみ、中東にも出動する。
URL:http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100504/plc1005041845021-n1.htm

米軍普天間飛行場移設問題で迷走を重ねた末、沖縄県民を前に全面的な県外移設の断念を表明した鳩山由紀夫首相。その理由として首相は、沖縄の海兵隊を日本を守る「抑止力」と位置付け、繰り返し沖縄側に理解を求めた。ただ、こうした論理は当初から米国や外務・防衛当局者が展開していたもの。最終局面で急に海兵隊の抑止力を持ち出し、「県外移設」の約束をほごにした首相の「言葉の軽さ」が改めて浮き彫りとなった。
「学べば学ぶほど、沖縄の米軍の存在全体の中での海兵隊の役割を考えたとき、すべて連携している。その中で抑止力が維持できるという思いに至った」。一連の沖縄での日程を終えた首相は4日夜、名護市内で記者団にこう語り、在沖縄海兵隊の重要性を強調した。
昨年の衆院選で普天間移設に関し、「最低でも県外」と訴えた首相だが、同日は「(民主)党の考え方ではなく、私自身の代表としての発言だ」と正式な公約ではなかったと釈明。さらに「当時は(海兵隊の抑止力は)必ずしも沖縄に存在しなければならない理由にはならないと思っていた」と語り、「浅かったと言われればそうかもしれない」と安全保障に関する認識不足をあっさりと認めた。
名護市の稲嶺進市長との会談では「将来的にはグアム、テニアンへの完全な移転もあり得る話かと思っている」とも語り、理解を求めた首相だが、沖縄の不信感は増幅するばかり。稲嶺市長は「選挙で公約したことを実現できるよう、決断をお願いしたい」と首相に一歩も譲らない姿勢を示していた。 (2010/05/04-21:28)
URL:http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010050400432

鳩山首相は6日午前、沖縄の米軍普天間飛行場移設問題で、昨年の衆院選に向けた遊説で「最低でも県外移設」と明言した自らの発言について、「公約は党の公約、『最低でも県外』と言ったのは自分自身の発言。場当たり的に申し上げているつもりはない」と述べ、選挙の公約ではないとの考えを強調した。
そのうえで、「沖縄の負担軽減、そのための米軍再編などに対する見直しをしっかり行いたいというのが公約だ」と述べた。首相公邸前で記者団の質問に答えた。
首相は4日の沖縄訪問で、記者団に「党ではなく、私自身の(民主党)代表としての発言だ」と述べた。個人的な発言と位置づけて自らが陳謝することで、県内移設にカジを切る狙いがあったとみられるが、すでに野党や沖縄の世論などからは、厳しい批判が上がっている。
首相は野党時代、当時の小泉首相が公約を守れなかったことを「大したことはない」と発言したことについて、衆院本会議などで「軽佻(けいちょう)浮薄」などと厳しく批判した。公約違反についても「公党としての約束反故(ほご)は、政治への信頼、社会規範の根底を崩す」と指弾していた。
首相発言について、共産党の志位委員長は5日午後(日本時間6日朝)、米ニューヨークでの記者会見で「どんな言い訳をしても公約違反になる。この政治責任は重い」と批判した。さらに、「(県外移設は)テレビの党首討論で、鳩山さんが(私の)隣に座って言ったことだ。こんな無責任な発言はない。党首が自ら言ったことが公約でないということになると、党首討論や総選挙の党首第一声などは意味がなくなる」と述べた。
みんなの党の渡辺代表は5日朝、都内で記者団に「代表の発言は党の方針だ。そんなことが分からないなら、さっさと辞めたらいい」と厳しく批判した。
(2010年5月6日11時45分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100506-OYT1T00287.htm?from=rss&ref=rssad

鳩山首相が沖縄を訪れて得たものは、県民からの怒り、落胆、怨嗟の声だった。なかでも沖縄県民が強く反発したのは、首相が発言した「公約の定義」と「抑止力」についての文言だという。番組は、このキーワードに込められた稚拙な首相の問題意識を取り上げた。
学ぶうちに…
沖縄訪問中に県民を怒らせた首相の発言、その1は…
「公約というのは選挙の時の党の考え方ということになります。私自身の(発言)は代表としての発言ということになります」
首相は昨年7月に沖縄を訪問した時に、普天間基地の移先について「最低でも県外」と発言している。ところが、「これは党の公約ではない」というわけだ。しかし、その後の言動と照らし合わせても、こんな『鳩山流公約の定義』が世の中に通るはずはないことは明らかで、しらじらしい言い訳にしか聞こえない。
発言その2は、県民をもっと激怒させた。
「学べば学ぶうちに、沖縄に存在している米軍の存在全体のなかで米海兵隊の役割というものを考えるとき、それがすべてに連携している。その中で抑止力というものが維持できるという思いに至った」
いまさら何を!と言いたいが、それとも海兵隊だけならいなくてもいいのではと軽い気持ちだったのか。日本の外交、軍事の要になっている日米安全保障条約、日米同盟の意義そのものすら学ばずに、何年も政治家を続け、首相までなってしまったのかと疑いたくなる。
スタジオでは、テレビ朝日コメンテーターの三反園は「首相は、以前は聞く耳を持っていなかったのではないか。それが厳しい現実に直面した時にはじめて勉強し、学ぶ姿勢になったのだと思う」とあきれ顔だ。
漫画家のやくみつるも「いま抑止力というのは、100の抑止力が必要か、70でもいいのか、65でもいいんじゃないのか、首相はそういうご進講を受けてほしかった」と、いち夜漬けのような勉強を批判する。
キャスターの赤江珠緒が「中途半端に沖縄の『腫れもの』に触ったばかりに、化膿した状態になってしまいましたね」とズバリ指摘。そこには「それでも首相か!」という無言の響きも…ただ、沖縄県民の思いをここで途切れさせていいのかという国民の声も高まってきている。
三反園は「今回の沖縄訪問は、先送りのための口実づくりに終わったと思う。アメリカとの協議も時間が足りない。もう1回期限を区切ったうえで、日米協議をするということに落ち着くのでは」と予測する。バカにされ、ケチのついた「鳩山首相続投」で、アメリカとの交渉に当たるのが適切なのかどうか。
URL:http://www.j-cast.com/tv/2010/05/06065834.html

鳩山首相が沖縄の米軍普天間飛行場移設問題で、昨年の衆院選の際に「最低でも県外移設」と明言した自らの発言は選挙の公約ではないとの考えを示したことに対し、与野党から6日、批判の声が相次いだ。
首相は6日午後、都内のホテルで開かれた民主党地方自治体議員フォーラム全国研修会で、普天間移設問題などで批判を浴びていることを念頭に「いろいろとご迷惑をおかけしており、申し訳ない」と陳謝した。
しかし、同日夜には「最低でも県外」発言に関し、「約束とかそういうことより、発言の重さは認識しているから、自分が申し上げたことに関し、責任を果たそうと今日まで行動してきた」と記者団に述べ、これまでの自らの行為の正当性を強調した。
一方で、沖縄側の「期待値」を高めたあげく、土壇場で発言を翻したことで沖縄側の強い不信を招き、長期にわたる交渉でまとまった現行計画実現の可能性も難しくしたことへの反省の言葉はなかった。
自民党政権時代以来、政党党首、特に政権党トップの発言は一般的に党の公約と受け止められてきた。
鳩山首相自身が野党時代、当時の小泉首相が国債発行枠を30兆円以下にするとした自民党総裁選での主張を守れなかったことを「大したことはない」と発言したことについて、「政治家が公約なんて守らなくたって大したことないと言えば、子どもは約束なんて守らなくていいと思う」などと、厳しく批判してきた。
自民党の大島幹事長は6日、党本部で記者団に鳩山首相の発言について、「自分自身の言葉を党の公約でないというのは詭弁(きべん)だ」と批判。共産党の小池晃政策委員長は都内での街頭演説で「党首が選挙の時に公の場で言ったことが選挙公約でないとすれば、国民は一体何を基準に選んだらいいのか」と指摘した。
与党からも疑問を投げかける声が上がった。
社民党党首の福島消費者相は6日のテレビ朝日の番組で「党首として発言したら党としての発言となる」と強調。閣僚の一人は「また余計なことを言ってしまった」と政権へのダメージを強く懸念した。
(2010年5月6日22時07分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100506-OYT1T00881.htm

普天間基地の返還。それは、当時の橋本首相がまさに心血を注いで成し遂げたものだ。元々、幼少期かわいがってくれた従兄弟を沖縄戦で亡くしたという原点もあり、何度も沖縄入りし、都合17回、数十時間にわたり、当時の大田沖縄知事と会談して、まとめあげたものだ。
それが、鳩山民主党政権の、口先だけの、机上だけの、パフォーマンス政治で台無しにされようとしている。最も致命的なことは、この政権で誰一人、当時のように、血ヘドを吐き、地べたをはいずり回るような調整もせず、沖縄の声にも真摯に向き合わず、「やれ県外だ、国外だ」「いや嘉手納への移転だ」と「ほざいている」だけのところだ。
県外や国外への移設。それに越したことはないだろう。であるならば、そんなことは、ある程度、県外や国外に具体的な移設先を想定し、実現可能性を探った上で言うべきだろう。しかし、この政権では一切、そうしたことをした形跡がない。いたずらに、沖縄県民の期待だけを煽って、一体、どうおさめようというのか。私には、もう「パンドラの箱」を開けてしまったようにしか思えない。
かく言う私も、政権交代をしたのだから、自民党政権時代の合意を再検証することは認める。しかし、これは、まずはアドバルーンをあげ、その反応を見ながら落としどころを探っていく、といった類の話ではない。過去、十数年にわたって、ガラス細工のように積み上げられてきた経緯、しかも、米国や沖縄の基地所在市町村等関係者も多数にのぼる。
検証するなら、この政権発足以来みられるような、閣内百家争鳴、バラバラの「発言」「検証」ではなく、関係大臣が用意周到に、かつ内々に行うべきだろう。いくら透明性のある行政が必要といっても、その過程を表に無邪気に出してはいけない案件もある。今実施している無駄遣い解消のための「事務事業の仕分け作業」のようにはいかないのだ。
ただ、こう言っても、実際、この問題に取り組んだことのない人には理解してもらえないかもしれない。あの少女暴行事件に端を発する沖縄県民の怒りが頂点に達した95年~96年にかけての世論調査でも、この問題についての全国民の関心度は一桁台だったのだ。
しかし、そうした状況下でも、橋本首相は政権発足時から動いた。96年の総選挙でも沖縄問題を愚直に訴えた。良い機会だから、この、まさに官僚の反対を押し切って、政治主導、いや、首相主導(首脳外交)で実現した普天間基地の返還、それに携わった者として、当時の経緯、深層等を振り返ってみることにしたい。もう十年以上も前の話だから、時効ということで許してもらいたい記述も含まれる。
96年1月に発足した橋本政権は、前村山政権から困難な課題を二つ、引き継いでいた。一つは「住専問題」、そして、もう一つが、この「沖縄問題」だった。95年秋に起こった海兵隊員による少女暴行事件。それに端を発する沖縄県民の怒り、基地負担軽減、海兵隊の削減等を要求する声は頂点に達していた。
こうした声を受けて、橋本首相は、政権発足早々から、一人、この沖縄問題を真剣に考えていたのである。元々橋本氏は、政治家として昔から沖縄との接点が多い方だったが、夜、公邸に帰ってからも関係書物や資料を読みふけったり、専門家の意見を聞き、思い悩んでいた。
そんな時、旧知の諸井虔氏(元日経連副会長・秩父セメント会長)から私に、「知事を囲む沖縄懇話会というのをやっている。大田氏とは知事に出る時以来の付き合いだから本音の話もできる。知事からも官僚ルートを通さず総理に本音を伝えたいとの希望がある」との話があり、早速、このルートで知事の意向を確かめたところ、「普天間基地の返還を首脳会談での総理の口の端にのせてほしい。そうすれば県民感情は相当やわらぐ」とのことだった。それからは、この大田→諸井→江田→総理というラインができたのである。
しかし、外務、防衛当局、殊に田中均北米局審議官をはじめ外務官僚は、いつもの「事なかれ主義」で、まったく取り合おうとはしなかった。普天間のような戦略的に要衝の地を米軍が返すはずがない、そんなことを政権発足後の初の首脳会談で提起するだけで同盟関係を損なう、という考えだった。あたかも、安全保障の何たるかも知らない総理という烙印を押され馬鹿にされますよ、と言わんばかりの対応だった。したがって、2月24日のサンタモニカでのクリントン大統領との首脳会談での事前の発言要領には、「普天間」という言葉はなかったのである。
この点、最近、この普天間基地の返還がホットイシューになって、「普天間返還の仕掛け人」と田中均氏を持ち上げるマスコミもあるが、とんでもないことがおわかりいただけるだろう。
ただ、橋本総理も、この外務当局の対応を踏まえ、ギリギリまで悩まれた。首脳会談の直前まで決断はしていなかったと思う。しかし、クリントン大統領と会談をしているうちに、米国側の沖縄に対する温かい発言もあって、総理はその場で「普天間基地の返還」を切り出したのである。
絶対返すはずがないと言われていた普天間基地全面返還合意を、96年4月に実現できたのは、すぐれて、この総理のリーダーシップと沖縄に対する真摯な態度、それを背景として、事務方の反対を押し切って「フテンマ」という言葉を出したことだ。会談後、私から「総理、フテンマという聞き慣れない四文字をクリントン大統領の耳に残しただけで、この首脳会談は成功ですよ」と言ったことを今でも覚えている。
この会談を機に、クリントン大統領も真摯な対応をされ、その三日後にペリー国防長官に検討を指示した。ペリー氏(あの黒船のペリーの子孫)も沖縄への赴任経験から沖縄県民の苦渋、思い、実情を十分理解し、軍との調整等大変な努力をされた。副大統領経験者の大物・モンデール駐日大使(当時)も含め、日米の首脳レベルの連携プレイが見事にワークした事例だったのである。この交渉が極めて異例な首相主導であったことは、担当の外務大臣、防衛庁長官にすら、交渉そのものが知らされていなかったことに象徴されている。
96年4月12日、官邸での記者会見で「返還合意」を発表したあと、夜、公邸に戻り、思わず総理と抱き合い喜びあったことを今でも覚えている。その時は大田沖縄県知事も「総理の非常な決意で実現していただいだ。全面協力する」との声明を出したのである(次週に続く)。
普天間基地の返還は決まったものの、その移設先については、96年夏頃まで「嘉手納案」と「キャンプシュワブ案」で日米交渉がデッドロックに乗り上げていた。移設先が決まらなければ返還も不可能となる。
そうした中でまず「嘉手納案」は米国と地元の反対で潰えた。米国は、嘉手納(空軍のジェット機)と普天間(海兵隊のヘリ)では離発着時に機体が輻輳し管制が困難であることや、一カ所に枢要な軍事機能を集約することによる安全保障上のリスク、空軍と海兵隊の関係等あげて反対したが、やはり最終的には嘉手納地元の強硬な反対が決定的だった。
それはそうだろう。嘉手納の地元住民にとっては、そうでなくても既存の基地問題で苦悩しているのに、「なぜ、加えて普天間を嘉手納に押し付けられるのか」という気持ちがある。また、嘉手納基地が3市町村にまたがっているという事情も交渉では大きかった。
もちろん、県外移設に越したことはないが、受け入れてくれる所もなかった。やはり「キャンプシュワブ案」しかないか。しかし、ここは珊瑚礁がきれいでジュゴンも生息する美しい海岸地帯だ。そこで、こうした生態系や騒音をはじめとした環境への負荷も比較的少なくてすみ、沖縄県民の負担もなるべく軽減、かつ日米安保からの要請も満たすという点をギリギリまで追求し発案したのが「海上施設案」だった。誰もが納得する100点はなく、そのベストミックスを考え抜いての、苦渋の決断だった。
この案の経緯は、ある日、羽田空港に向かう車中で総理から「江田君、海上構造物というのは、一体技術面やコスト面でどこまでクリアーされているのか調べてくれ」という指示を受けたことからはじまる。私には、総理秘書官という立場上、色々なルートから様々な情報が入ってきていた。その中に、「あるいは最終局面では海上案も検討に値する。その場合は既に実用化されている浮体桟橋工法(QIP)が有効だ」という情報があった。私は「それならいい工法がある。沖の鳥島やニューヨークのラガーディア空港に実例があるし、何といっても環境影響が少なく、かつ、容易に撤去可能で基地の固定化の懸念も払拭できる」と答えた。
総理もこれなら、粘り強く理解を求めれば沖縄の人たちもギリギリ受け入れてくれるのではないかと決断した。相変わらず、事務当局は否定的であったが、別ルートで探ったところ、米国からも良い感触が伝えられてきた。ここでも外務官僚をはじめとした官僚、事務当局に頼っていても、何ら交渉が進まないことが証明されたのである。
その後、紆余曲折を経たが、97年12月24日、官邸に来た比嘉名護市長は、「大田知事がどうであろうと私はここで移設を容認する。総理が心より受け入れてくれた普天間の苦しみに応えたい(ここで総理が立礼して御礼)。その代わり私は腹を切る(責任をとって辞任する)。場所は官邸、介錯は家内、遺言状は北部ヤンバルの末広がりの発展だ。」市長の侍の言に、その場にいた総理も野中幹事長代理も泣いていた。
思えば、ことは、国と沖縄県、日米安保体制の下での基地問題ということにとどまらず、本当に総理と知事、市長の、人間対人間の極みまでいった交渉であったといっていいだろう。いや、それを支えた梶山官房長官を含めて、当時の内閣の重鎮二人が心の底からうめき声をあげながら真剣に取り組んだ問題であった。理屈やイデオロギー、立場を超えて本当に人間としてのほとばしり、信頼関係に支えられたと一時信じることができた、そういう取り組みだったのである。
しかし、このような全ての努力にもかかわらず、結論を延ばしに延ばしたあげく、最後に自らの政治的思惑で一方的にこの「極み」の関係を切ったのが大田知事だった。それまでは「県は、地元名護市の意向を尊重する」と言っていたにもかかわらず、名護市長が受け入れた途端に逃げた。当日、同じ時に上京していた知事は、こちらの説得にも名護市長とは会おうともせず、官邸に来て徒に先送りの御託を並べるだけだった。
太田知事にも言い分はあろう。しかし、私は、当時の総理の、次の発言がすべてを物語っているように思える。「大田知事にとっては基地反対と叫んでいる方がよほど心地よかったのだろう。それが思わぬ普天間返還となって、こんどは自分に責任が降りかかってきた。それに堪えきれなかったのだろう。」
確かに沖縄の問題は限りなく重い。60年以上苦しんできた沖縄県民が、普天間の移設先が県内では受け入れられないという気持ちもわかる。やはり「ヤマトンチュ(大和人)とウチナー(沖縄人)は通じ合えないのだ」とまで言われてしまえば、我々としては何をか言わんや、頭を抱えるしかないのだ。
しかし、当時は、そんなことを超越して、本当に人間と人間との至高の営みとして、時の政権の首班と沖縄県の長が話し合った。十数回、何十時間にも及ぶ直接会談は、それを如実に物語る。
この間の橋本総理の沖縄への思いは、以下の逸話に象徴される。当時は、一方で解散総選挙の時期をいつにするかが政治的に喫緊の課題だった。しかし、総理は、どうしても懸案の沖縄問題にある一定の道筋をつけなければ、政治的空白は絶対に許されないと考えていた。
にもかかわらず、96年9月6日、新聞各紙に解散報道がおどった。心ない、ある党幹部が漏らしたのだが、これを見た総理は「これで沖縄に影響が及べば誰が責任をとるのか!」と激怒したのだ。内閣が神経をとがらせ真剣に考えている時に、解散が何日に決まったということが出れば、それだけで沖縄県関係者が不安に思うし、政府が培ってきた信頼関係も損なわれる、そういうことを、橋本総理は一番心配していたのである。
この総理の沖縄への思い、真摯な態度は、ヤマトンチュとウチナーの厚い壁をはじめて打ち破った。96年12月4日、総理が沖縄入りした時の、基地所在市町村会での雰囲気がそれをよく表している。場所はラグナホテル。当時の日記を紐解こう。
冒頭、沖縄のことを最も考えてくれるのは橋本政権。できるだけ長く続いてほしいとの期待の挨拶があった後、
那覇市長 「総理は沖縄の心を十二分に理解してくれている。その情熱が心強い。」
名護市長 「沖縄に『お互いに会えば兄弟』という言葉があるが実感。沖縄の痛みがわかる総理にはじめて会った。あとは感謝で言葉にならない」
宜野湾市長「一国の総理が心を砕き、国政への信頼が倍加した。普天間の跡地開発をしっかりやりたい」
金武町長 「希望が見えた。町民全体が燃えている」
読谷町長 「日本の生きた政治を見る思い。村長をして22年になるが総理がはじめてボールを沖縄に投げた。やるしかない」等々。
そして橋本総理が最後に挨拶に立った。
「私がひねくれていた頃、数ある従兄弟連中と片っ端から喧嘩をしていた。その中で岡山にいた源三郎兄い、彼は海軍の飛行練習生だったが、唯一私をかばってくれた。
最後に会ったのは昭和19年の初夏、その時彼は、継母になじむように私に小言を言ってくれた。そして、今度会うときは靖国でと言って、その年の10月、南西方面で還らぬ人となった。
だから、これまで春と秋の例大祭には必ず私は靖国を参拝してきた。それが我が国の外交に影響するのであれば自制したいが、彼が戦死した南西諸島というのが沖縄だということを知ったのは、戦死公報が届いた後のことだった。」
ここで私も不覚にも涙してしまったことを今でも記憶している。
会議に出席した市町村長の何人かは、総理の言葉に感動して涙とも嗚咽ともつかない声を押し殺していた。地元新聞社社長の最後の言葉が忘れられない。
「こういう雰囲気は40年のマスコミ生活を通じて空前の出来事だ。これまでは被支配者の苦悩の歴史だった。総理本当にありがとう。どうか健康には留意してください、それがここにいる皆の願いです」。
鳩山政権における普天間問題の迷走をみて、今、私が何を言いたいか。これまで、くどくどと経緯を述べてきたのは自慢話をするためではない。
沖縄問題がこれまで解決できなかった理由は多々あるが、森政権以降、総理に「沖縄」の「お」の字も真剣に考えなかった人が続いたことが一番大きい。それに加えて、政治家や官僚にも、不幸なことに、足で生の情報を稼ぐ、県民の肉声に耳を傾ける、地を這ってでも説得、根回しをするという努力が足りなかった。
そういう人たちによる政治や行政が沖縄県民に受け入れられることもなく、積年の不信感をぬぐい去ることもできなかった。そして政権交代がなり、また「お」の字も真剣に考えてこなかった政治家による不用意な発言が続いている。
鳩山総理が「友愛」と言うなら、浮世離れした「宇宙人」的な感覚ではなく、人と人との肌のぬくもりが感じられる政治姿勢、政治手法というものを、安全保障という重要な職責を担うからこそ、強く求めたい。岡田外相には、今の窮地を招いたのは、自らの「嘉手納統合発言」だったということを強く認識してほしい。
しかし、私には、「覆水盆に返らず」、周到に積み上げられた「ガラス細工」は既に崩れ去り、この問題は「橋本政権以前」にリセットされてしまった、との諦感がある。この分野で最もやってはいけない政治的なパフォーマンス。それが「パンドラの箱」を開け、その代償は限りなく大きいものとなる(終わり)。
URL:http://www.eda-k.net/column/week/2009/11/20091116.html
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