情報の性能

 
今日は、昔のメルマガ記事をリライトしてエントリーします。手抜きで済みません。

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1.情報の性能

情報というものについて考えてみたいと思います。以前、「情報の価値判断」のエントリーで、情報の受け手は、どこまでが「報」でどこからが「情」なのかをしっかりチェックしながら読んでゆくようなリテラシーが求められると述べたことがあります。

なぜなら、何某かが報道する「情」の部分、価値判断が間違っていて、それが広く社会に知らされてしまうと、個人はもとより社会全体にも大きく悪影響を与えることになります。ひらたくいえば、ミスリード、ですね。

今現在、参議院選挙が行われていますけれども、消費税の増税に触れた菅首相は、その批判の強さに、選挙の際に配るビラから「消費税」の文字を削除したそうです。

これもある種のミスリードとは言わないまでも、「消費税」の文字を隠すという価値判断が働いているというわけですね。

こうした報道のミスリードに関する懸念は、昨今でこそ、段々大きくなってきましたけれども、たとえ、その価値判断が正しいものであったとしても、それがどの程度正しいものであるのか、という点について考慮することが大切です。

要は、その価値判断にスペック、所謂「性能」がある、という観点なのです。情報には明らかに性能があります。

しかしながら、今の世の中は、情報には良い情報と悪い情報があるという程度の、いわゆる二分法の区別があるくらいで、どの程度の良さがあるか、悪さがあるか、という「情報の性能」という観点が、極めて希薄であるように思われるのです。




2.情報の性能を構成する3要素

情報の性能を構成するものには、次の3つの要素があると考えています。それは以下の3つです。
1.市場性
2.専門性
3.賞味期限

市場性というのは、その情報が、誰を対象とし、どの国、業界に影響を及ぼすかというものです。たとえば、ステルス戦闘機に使われる電波を吸収する性質を持つ塗料についての情報は、軍事機密であって、その世界では非常に高度で価値のある情報であることは間違いないのですが、たとえば畑を耕す農家の人が、その情報を得たとしても、それほどの価値は発揮しません。ステルス塗料で、南瓜が良く育つ訳ではないからです。

専門性というのは、どの情報が、どれくらいの研究された結果なのか、それを理解し、使いこなし、役立てることを可能にするか、という度合いです。たとえば簡単な足し算引き算くらいであれば、それを知ることで、買い物なんかでお釣りの間違いなんかをその場で確認することができますし、月々の家計が赤字か黒字なのかをチェックすることができます。

ところが、高度な最先端数学、なんとかゼータ関数であるとか、なんとかディオファントス方程式であるとか、そんな情報を市井の人々が知っていたとしても、そこに価値を見出す可能性は極端に低いと言わざるを得ません。普通の人々にとって、普段の生活では、そのような情報を駆使する必要がないからです。

最後の賞味期限についてですけれども、これは文字どおり、その情報が有効である期間がどれくらいあるか、という点です。特に、時事評論系統はそうなのですけれども、たとえば、経済評論かなにかで、今年の景気はうんたらかんたら、と言ってコメントしたりします。

けれども、その情報は今年が終わって来年になった途端に価値が無くなる類のものです。よく、ブックオフなどの古本屋で経済評論、時事評論系の本が100円均一で売られたりするのも、賞味期限が切れた情報の行く末をよく表しています。

こうした、市場性、専門性、賞味期限を、それぞれ、仮にX、Y、Z軸においてどれくらいあるだろうか、とプロットして互いの点を結ぶを3次元の立体が出来上がることになりますが、(もちろん2次元のレーダーチャートでもいいです。)その体積(面積)の大きさが、その情報の性能を表すことになります。

そういった観点で、世の中に溢れている書籍などの性能を見積もってみると、中々面白い発見があるのではないかと思います。




3.情報の性能が負うリスク

情報の性能を構成する3要素についてですけれども、これらの値は、国や場所、そして時代によって、大きく変化することがあります。

Yesの気持ちを動作で表すときに、首を縦に振る国もあれば、横に振る国もありますし、手のひらを下にして、指を曲げ伸ばしする動作は、日本では、「こっちおいで」の意ですが、海外だと「あっちいけ」になったりします。また「全然」という表現は昔であれば、全然~ない。と後に否定の言葉が続く使い方をしていましたが、今はそうとは限らない使い方も多く見られます。

また、価値判断についても同様に、植民地が是とされた時代があって、今では否定されています。要は、地域や、時代時代で何を善とし、何を悪とするか、という定義が変化するために、現時点では、これくらいあるだろうと見積もっていた情報の性能が、時や所を変えると途端に性能が変わってしまうことがある、ということなのです。

そうした、突如性能がゼロになってしまう、というリスクを負いつつも、物事を、1.市場性、2.専門性、3.賞味期限 の3つの軸でその性能を図る、という観点は、色々な応用可能性を秘めていると思います。

たとえば、文化についても同様の軸でその性能を見積もってみることも可能です。

ひとつの例として、日本のアニメで考えてみます。

今や日本のアニメは世界中に輸出され、ドラえもんや、ポケモンなどは、世界中の子供達が見ています。ドラえもんとポケモンについて、双方の「文化の性能」を比較してみたいと思います。

まず、「市場性」ですが、基本的にはどちらも小学生くらいまでの子供が対象です。どちらも世界が相手ですが、ドラえもんがその歴史が長い分、大人世代にも根強いファンが居ることから、ややドラえもんが優勢と見て良いかもしれません。

次に「専門性」ですが、子供向けアニメで、専門知識を要求する内容は中々難しいので、どちらも高ポイントにはなりにくいでしょう。しかしながら、基本的な科学知識レベルであれば、双方共抑えていると見てよいかと思います。ただ、ドラえもんの原作ともなりますと、相対性理論の説明やら出てきますので、意外と侮れないものがあります。

尤も、漫画の形式を取っていても「専門性」に富んだ作品というものはあって、昨今であれば、よくある「漫画で分かる何とかの歴史」であるとか、「図解・サルでも分かる××」とかいう類の本ですね。昔であれば、子供向けの学研まんがシリーズなどもそれにあたるでしょうか。

最後に「賞味期限」ですが、これは、現在ただ今も存在している作品でもあり、正直、見積もるのは難しいです。なぜなら作品の寿命を推測する、ということと殆ど同じであるからです。ただ作品の歴史という点では、ドラえもんは40年以上、ポケモンは10年そこそこですから、ドラえもんに一日の長があるとはいえるでしょう。

こうしてみると、文化的性能の高い作品は、往々にして、その対象範囲や賞味期限において、大きな性能を有するものですから、それに付随する形で経済効果も大きなものになります。

細かい数字までは、調べていませんが、ドラえもんやポケモンが日本にもたらした富には莫大なものがある筈です。
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