ツイッターについての雑考をば・・・
筆者はツイッターを使い始めて、数ヶ月経ったところですが、少し感じたことをつらつらエントリーしたいと思います。
1.使ってみて変わったツイッターの印象
筆者は、ツイッターを使う前は、次のような印象を持っていました。
a) ツイッターは、漫才やコントのネタ作りに似ている。
b) ツイッターは集合知を集める反面、話の流れが散漫になり、情報の整理が大変そう。
c) ツイッターは、何かの問題解決や、独創的な考えを引っ張りだすツールに向いていそう。
この辺りのことは、「ツイッターは漫才のネタ作りに似ている」「ツイッターの使い方」としてエントリーしています。
で、実際に使ってみての感想なんですけれども、やや当初の印象とは違った感があります。どこが違うかというと、a)とc)の部分なのです。
まぁ、筆者はツイッターを使い始めたばかりですし、碌にコマンドも知りません。上に馬鹿がつく、「ど素人」もいいところです。その少ない経験の中からの印象ではあるのですけれども、やはり、ツイッター上で何かを解決したり、考えを引っ張り出すところまでは難しいのかな、というのが正直な感想です。
勿論、質問したり、意見を聞いたりする、という、所謂、「調べる」というレベルではツイッターは絶大な威力を発揮します。ちょっと質問を投げかけるだけで、あっという間に答えが返ってくるTLをいくつか目の当たりにしたことがあります。これは凄い。他にちょっと類をみないくらいです。
けれども、そこから先の部分である、思考を練るであるとか、アイデアを引っ張り出すとかになると、中々難しいものがあると感じています。
なぜかというと、考えを練ったり、アイデアを引っ張り出すには、当たり前のことですけれども、やはり一人の時間を取って考えるという作業が必要で、TLを追いかけながら想を練るのは、やはり難しいからです。中には出来る方もいらっしゃるかもしれませんけれども、筆者には無理です。
勿論、ツイッター上のTLで時折、「おっ、これは」という意見を見かけることがあります。けれども、惜しいかな、140字制限の中では、やはりそれを充分には説明しきれない。いい考えの断片ではあるけれど、断片のまま転がっているという印象が強い。やはり、纏まった考えを出すには、ある程度纏まった紙幅が必要なのですね。
言ってみれば、ツイッターの「つぶやき」というのは、KJ法でいうところのカードみたいなものだと思います。それがTL上にバラバラにある感じです。勿論、それらを纏めて、KJ法を使って、並べ直したりすることで、新たな発想を得ることはあるとは思います。
ただ、ツイッターの特性上、その良い考えの断片が、いつ、どこのTLに存在するのかは、本人には中々分からない、これが、とても惜しいところだと思いますね。
また、仮にそれがあったとしても、それを探し出すのに物凄い時間を必要とする。これが難しい部分だと思うのですね。
その意味では、b)の印象はある程度当たっていた、ということになるのかもしれません。
2.ツイッターの集合知は「量」の集合知
以前、「集合知という市場」のエントリーで集合知には、「量」の集合知と「質」の集合知の2つの性質があると述べたことがあります。
「量」の集合知は、何にも処理しない大量の生データであり、「質」の集合知とは、みんなが納得できる高い見識のことになるのですけれども、ツイッターはどちらかといえば、「量」の集合知の面が強いように思われます。多くの人の「つぶやき」はそれこそ膨大な「生声」であり「生データ」ですね。
この「量」の集合知という面では、ツイッターは、もの凄い力がある。あたかも、毎日毎日、全国から食材が届けられては、山のように積み上げられていくようなもので、これに関しては他の追随を許しません。
けれども、それらを統合して、より良い「知」を導き出す、「質」の集合知となると途端に苦しくなる。なぜなら、質を高める為には「議論」が必要になるからです。
ある「知」が、誰かから出されて、多くの人の目に触れていない段階では、それは出した本人にしか通用しない「知」であって、その「知」が、どれほどの高さや、どこまでの広がりがあるのかは、誰にも分かりません。それは市場に出して、多くの人の試練と評価を得なければ分からないのです。
これは、筆者の個人的な感想ですけれども、ツイッターはどちらかといえば、「議論」にはあまり向いていないのではないかと思います。なぜなら、ツイッターには、議論における司会役もいなければ、明確な議論相手もいないからです。
司会がいなければ、議論の筋道がそれたり、無茶苦茶になったとしても、それを修正してもくれませんし、そもそもつぶやく相手が不特定多数では、議論そのものが、ブレーンストーミング的になってしまって、纏めることさえ困難を極めます。
その意味では、不特定多数同士というよりは、1対1の対談形式のほうが、まだ、議論が成立するように思われます。
たぶん、ツイッターを、イメージ的に例えるとするならば、不特定多数同士が、好きな時間に、好きなように自分の「つぶやき」を黒板に書き付けていく、そういう井戸端会議的なものと言ってもいいのかもしれません。
ですから、ツイッターで多人数での議論をしようと思えば、時間と場所と、司会進行役を含めた参加者をきちんと決めて、それ以外の方にはROMに専念して頂くくらいでないと難しいのではないかと思うのですね。
けれども、これはもう「ツイッター」と呼べるものではないように思います。
3.リツイート数が多ければ質が高いとは限らない
あえて、ツイッターに「質」の集合知に近いものを求めるとするならば、それは、リツイートが一杯ついた「つぶやき」がそれに近いのかもしれません。
たとえば、ある「つぶやき」に1000個ものリツイートがついたとしましょう。少なくとも、その呟きは、それだけ多くの人の「興味」を引いたということを意味しますから、少なくとも、インパクトという意味において、質が高かったといえるでしょう。
けれども、リツイートが沢山ついた「つぶやき」であったとしても、そのリツイート数が示すのは、多くの人から集めた「興味」であって、「賛同」でもなければ「反論」でもないことには留意する必要があります。そのリツイートの中身が如何なるものなのかは、やはりいちいちリツイートの中身まで読まなければならないのです。
どんな優れたアイデアであっても、それがそのままの形で世に出ることは滅多にあることではありません。そのアイデアが世の中に通用するようになるまでには、多くの人の目で吟味され、時には叩かれ、揉まれる中で修正され、磨き上げられていくものです。
要するに、議論を伴わない「つぶやき」は、練られた意見には成りにくいということです。
ですから、何がしかの「つぶやき」が質の集合知のレベルにまで達しているかどうかは、それらに対するリツイートを含めて、その過程をきちんと追わなければ、中々判断できるものではありません。単にリツイート数があるからといって質が高いとは限らないのです。
それに、一口にリツイートといっても、なぜ、その「つぶやき」をリツイートしたか、という理由は、その本人にしかわかりません。
その「つぶやき」に共感したからリツイートしたかもしれませんし、拡散のお手伝いでリツイートしたかもしれません。または、それは違うだろう、と後で反論しようと思って、「とりあえず」リツイートする場合だってあるでしょうし、特に何とも思わないけれど、参考程度に、いわばメモ的にリツイートしているだけかもしれません。
けれども、リツイートだけでは、「RT@何々さん、」としか表示されないのです。どういう理由でリツイートしたかまでは見えないのですね。
このことは、ひとつの大事な点を示唆しているように思います。
それは、誰かの「つぶやき」に対して、大量のリツイートがついたとして、それらが、あらゆるTLに散見されるようになると、あたかもそれが、質の集合知であり、多くの人の賛同を受けた意見であるかように錯覚することがありうる、ということです。
ましてや、その大量のリツイートが、同一人物の複数のIDによる故意の偽リツイートだったとしたら、それを見破ることは極めて困難です。
これについては、以前「ツイッター内の閉鎖空間」で、閉鎖空間の如き違和感として述べたことがあります。
これが、ツイッターの怖いところでもあり、近いうちに、ネットリテラシーとはまた違った意味での、「ツイッターリテラシー」とでも呼ぶべきものが必要になるのかもしれないと思うのです。
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この記事へのコメント
美月
〝どういう理由でリツイートしたかまでは見えない〟という事に加えて〝誰のどの発言に返信したものなのか分からない〟というのも、Twitterの属性のように感じています(TLが見えると、そうでも無いのでしょうか?情報蓄積&改良に向いた道具では無いという感じがありますが…^^;)
以前、スピリチュアル精神世界ジャンルで、疑惑のあるセクトの布教ツイート(洗脳的な内容)が盛んに行なわれていたのを拝見して背筋が寒くなったものですが、そういうリスクも考慮しないと、ますます断片化する情報の海を適切に渡ってゆくのは、とても難しいように思われました。
実社会、ネット社会、如何なる情報環境であれ、自