ミンス党の魂を覗く(外国人地方参政権法案について 後編)

 
「何らかの見解を示すものが必要かどうかや、やるとすればどんなものが(いいのか)私の頭の中に入っている。内閣官房で多少イメージはしている」
仙谷官房長官 於:7/16記者会見

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 7月15日に日本の韓国の政府関係者が明らかにしたところによると、日本政府は参院選後、「菅談話」談話の形式や内容の検討に本格的に着手したという。

その具体的な内容と形式については内部調整がさらに必要だと、韓国政府に伝えたらしいのだけれど、最大限の誠意を盛り込むものと見られている。

一部には「村山談話」を超えるのではないかと見る向きもある。

だけど、最大限の誠意といっても、賠償云々は「日韓基本条約」で解決しているし、「村山談話」を超えるといっても、何をどう超えるか明らかになってない以上なんとも判断できない。

村山談話については、以前「村山談話を解析する」のシリーズエントリーで検討したことがある。

件のエントリーでは、「村山談話とは、戦前の日本と戦後の日本は違う国なのだ、ということを対外的に認めた談話」と述べた。以下に引用する。

9.わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、平和の理念と民主主義とを押し広めていく。


9では、国として、"反省"をしたところ、"独善的なナショナリズム"がその原因であったから、独善的なナショナリズムは止めて、平和の理念と民主主義とを押し広めていくというのがその方策であるとしている。

これには重要な問題が含まれている。

まず、独善的なナショナリズムが国策を誤る原因なのであれば、二度とそういったナショナリズムを持ってはならないことになるという点。この場合、独善的ナショナリズムとは一体何を指しているのかが問題となる。

談話後の記者会見で、村山首相(当時)は「国策を誤り」の部分が、どの内閣のどの政策だったかというのは適切ではないと明言を避けたけれど、それが却って「独善的なナショナリズム」はいけないということを強調してしまうことになった。

ナショナリズムとは、ある国家や民族が自己の統一・発展および独立をめざす思想や運動のこと。

国家が自己の統一・発展および独立をめざすということを、国家意思レベルで発現すると、そのものずばり国益の追求になる。国益の追求はナショナリズムの発露の一部。世界各国はそれぞれのナショナリズムを発揮して、それぞれの国益を追求して、結果として妥協が生まれたり、外交的決着をしているもの。

国家を成立させるに当たって、バラバラな個々の地域共同体を束ねる為には、現政府の正当性を声高に宣伝したり、民族の歴史や神話を強調したり、外敵を作ったりしてなんとかして纏めようとする。これはナショナリズムそのもの。ただ、他国の価値観を認めない、あるいは認めるといった違いが独善的に見えたり見えなかったりするだけ。

だから、独善的という修飾語がつくにせよ、つかないにせよ、ナショナリズムを完全否定したところに国家が存立する余地は殆どない。それでは国の形が保てない。

ゆえに、「独善的なナショナリズムを排する」と言った場合、他国の価値観を認めず、自国の価値観を押し付けるという意味での「独善的な」ナショナリズムを排するという理解でいるならまだしも、世界からみてもユニークな価値観を持ち、その中に良いものもある独立した「ナショナリズム」をも排するという意味になってしまったら、その国を束ねるための根本の価値観を放棄することにもつながりかねない。

次に、「深い反省に立って独善的なナショナリズムを排し」に続いて、「平和の理念と民主主義」を推し進めるという文言が、そのまま、戦前の日本が、他国の価値観を認めないところの独善的なナショナリズム国家であって、かつ「平和の理念と民主主義」を持っていなかった、あるいは十分に理解していなかった国家であったと、自ら認めたと受け取られてしまう可能性がある点。

善意の第3国であったなら、この部分を、不幸にも、あの時はそうだったこともあったかもしれないが、戦後の日本は立派な平和国家なのだ、と善意の解釈をしてくれるかもしれない。だけど、悪意の国家からみれば、そらみたことか、やはり大日本帝国は悪の帝國だったのだ。ファシズム国家だったのだ、とプロパガンダの材料にされることは十分あり得る話。

日本の民主主義は、戦後から始まったわけじゃない。民主的考えの走りは、聖徳太子の十七条憲法からあったし、明治新政府の五カ条ののご誓文の第一条は、「広ク会議ヲ興(オコ)シ万機公論ニ決スベシ」。

そしてなにより、連合国が発した、ポツダム宣言の第10条は、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙(しょうがい)ヲ除去スヘシ」となっていて、連合国自身も日本に「民主主義的傾向」があったことを認めている。

日本は曲りなりにも、戦前から民主国家だった。敗戦後その旧民主主義を修正されたと理解すべきなのだけれど、村山談話はこの理解を捻じ曲げてしまう危険を孕んでいる。

少なくとも、村山談話は、戦前の日本と戦後の日本は違う国なのだ、ということを対外的に認めた談話であると言える。

日比野庵本館 2008.12.22「独善的なナショナリズム (村山談話を解析する その3)




筆者は、先の大戦での補償を「日韓基本条約」で済ませ、「村山談話」によって、「戦前の日本と戦後の日本は違う国なのだ」として、過去を切り離し、対外的に落し前をつけたと解釈している。もはや、物質的な補償の面でも、政府見解の面でも完全に終了している。だから、村山談話を踏襲すると言っている限りは、これ以上のものは必要ないと考えている。

従って、この「村山談話」超える談話など、筆者には想像できない。

むしろ、談話などはただの形式的なものに過ぎず、ただ謝罪したいだけなのかもしれない。

ネットなんかでは、よく民主党のことを「ミンス党」などと呼んで揶揄することがあるけれど、その由来は「民主党に韓国・朝鮮を大事にしたがる議員が多いので、朝鮮名に良くある「ミンス」とひっかけて、そう呼んでいる」という説もある。

呼び名の是非は兎も角として、民主党が本当に、日本より韓国・朝鮮を大事にするような政党であったとしたら、そんな党が政権与党であることの危険性は言うまでもない。

空き菅@けものへん殿の発言にしても、仙谷官房長官の発言にしても、民主党には国家観念が希薄で、どことなく日本解体を目しているのではないかと思える節がある。

Voice7月号の「かくも“社会党的”害毒に満ちた菅政権」という記事に、仙谷官房長官が国家の解体思想を持っていると伺わせる件(くだり)がある。以下に引用する。
菅首相は平成4年、仙谷氏らとともに社会党、社民連、連合議員を集めた政策研究会「シリウス」を立ち上げている。第一回勉強会の講師に招いたのが、松下氏だった。

社会党からシリウスに加わっていた小林正元参院議員は、当時の仙谷氏とこんな議論をしたという。

「仙谷氏の考えは、国家は国際的には国際連合などに統合され、国内的には地域に主権が移っていくというもので、国家の解体思想だった。国家という責任の主体はなくなっていくが、しかしそこにもリーダーは必要だ。私たちは、それは結局、独裁になるのではないかと反論した」

菅首相の昔からの持論が、「民主主義とは、政権交代可能な独裁だ」というものであることと併せ考えると興味深い。



もしも、ミンス党に魂があるのなら、その中を覗けば、何が見えるのか。

相は自虐、思考は反日、望みは日本解体。


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画像最大限の誠意、「痛切な反省」(村山談話)を超える可能性も

積極的な岡田外相「韓国民に対する謝罪、総決算する姿勢で準備」

 日本による韓国併合100周年(8月29日)がおよそ1カ月後に迫る中、日本政府がこの時期に合わせ、内閣の承認を経た首相名義の談話の発表を積極的に検討していることが分かった。

 15日に韓国と日本の政府関係者が明らかにしたところによると、日本政府は11日の参議院選挙終了後、韓国国民に伝える談話の形式や内容の検討に本格的に着手したという。

 日本政府の関係者らは、最大限の誠意を盛り込む、具体的な内容と形式については内部調整がさらに必要との意向を、韓国政府に伝えたとのことだ。また日本政府は、23日にベトナムの首都ハノイで行われる東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)など、韓日の政府関係者が顔を合わせる場で、韓国側の意向を打診する計画だと思われる。

 この問題を主管する岡田克也外相も、このところかなり積極的な発言を行っている。同氏は最近、メディアのインタビューで、「今年は日韓関係にとって極めて重要な年。100年前に起こったことについて…国を奪われ、民族の自尊心を傷つけられた人々の心情をよく理解する」と語った。

 現在関心が集まっているのは、今回の談話に、1995年に発表されたいわゆる「村山談話」の内容をどれだけ上回るものが入るのか、という点だ。村山談話は、日本の敗戦50周年に当たる95年8月15日、当時の村山富市首相が、「戦後の総決算」という観点から発表した談話だ。

 「痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明いたします」という表現が入り、最も積極的な謝罪の意志を盛り込んだと評価されている。

 日本政府は、村山談話が侵略されたアジア諸国に対する謝罪だとするなら、今回の併合100周年談話は韓日関係に限定したものとなるだけに、韓国人に対する謝罪の総決算という姿勢で準備しているものと思われる。

 強制徴用者に対する個人補償問題と関連する日本側の微妙な変化も、注目に値する。仙谷由人官房長官は今月7日、東京で日本外国特派員協会(FCCJ)が主催した会見で、「“法的に終わった”と言っても、関係が悪化すれば、政治的に改善可能な方針を作って判断しなければいけない問題もある」と、これまでとは極めて異なる発言を行った。

 これと直接関連があるかどうかは確認されていないが、三菱重工業は最近、強制労役に動員した女性に対し、「補償交渉に応じる」という内容の文書を送っている。

 こうした内容が談話文にまで盛り込まれる可能性は高くないが、最近の日本政府内での対韓感情をうかがわせる部分だ。

 また最近、日本政府内で「韓国との安全保障協力を強化しなければならない」という声が高まるなど、韓日関係の戦略的重要性に対する認識が高まっていることも、談話の内容に影響を及ぼす可能性がある。

 しかし、民主党政権が7月11日の参議院選挙で惨敗したことに伴う政治的負担が、談話文の内容を後退させる可能性も排除できない。

URL:http://ameblo.jp/dol-souraku/entry-10592395175.html



画像【日韓】韓国併合100周年:仙谷氏「談話の文面、頭の中にある」[07/17]

 日本の仙谷由人官房長官は、日本政府が韓国強制併合100年(8月29日)に合わせ、首相名義の談話の発表を検討しているという本紙報道(16日付)に関し、16日の記者会見で「何らかの見解を示すものが必要かどうかや、やるとすればどんなものが(いいのか)私の頭の中に入っている。 内閣官房で多少イメージはしている」と述べた。

 日本の官房長官は、内閣で第2位という位置づけにあるため、仙谷官房長官のこの発言は、談話発表を前提に文面を調整しているという意味として受け止められている。

 仙谷官房長官は人権関連の弁護士出身で、旧・日本社会党にも所属していたことがあるなど、過去の清算問題に非常に前向きな姿勢を持っていることで知られる。

東京=辛貞録(シン・ジョンロク)特派員

ソース:朝鮮日報日本語版 記事入力 : 2010/07/17 08:44:03

URL:http://www.chosunonline.com/news/20100717000006
URL:http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1279327725/l50

この記事へのコメント

  • 日比野

    rieさん。こんばんは。
    >憲法十七条や五箇条の誓文は民主主義(的)でも民主主義の走りでもありません。
    何故なんでしょうか?ちょっと教えていただけませんか?

    > 民主党が本当に、日本より韓国・朝鮮を大事・・・

    自国より他国を優先するということは、国益を追及しないどころか、下手をすれば国家主権の破棄にも繋がりかねません。

    というより、民主党のHPには「憲法提言中間報告」として”国家主権の移譲や主権の共有へ”なんて書いてあるんですよ。
    http://www.dpj.or.jp/news/?num=602
    どう思われますか?
    2015年08月10日 16:48
  • rie

    五箇条の誓文についてのコメントの文章がおかしかったので、追加のコメントを。内容は重なりますがご容赦を願います。
     誓文ですから、天皇・貴族・大名ら百官が天神地神に新政府の統治-天皇独裁を-誓ったわけです。その第一に重要国務は大名の意見を聞いて行うのだと天神地神に誓ったわけです。民主主義とは無関係ですし、民主的な内容でもありません。
    2015年08月10日 16:48
  • almanos

    国家観念が希薄というより、無いのではないかと。国家というシステムが管首相のような手合いでも国民である限り諸権利を守っているからこそ、ああいう言動ができるということをきれいに失念したままではないかと。要約するなら「寄生虫」でしょうね。偉そうな事を言うなら国家の保護の外で言ってみろといったら「国家には我々も保護する義務がある! 」と顔色変えて叫んですり替えと誤魔化しを延々と喋くりまくるでしょうが。主に突っ込む間を与えない為に。ま、風を読む程度の頭はあるみたいですし、今やると墓穴掘ると思ってとりあえず自粛するでしょうが。
     ああいう方達を見ていると、20世紀って腐儒者が進歩的知識人に名前と使用するお題目を変えて跋扈した世紀じゃないかと思えてきます。焚書はいけないけど、坑儒はこいつら限定でやって良いのではないかと文明人らしくない考えがつい浮かんでしまいますね。
    2015年08月10日 16:48

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