ネットにおけるコミュニケーションについて

 
今日は、少し雑談風に・・・

三橋貴明氏のブログにて、コミュニケーションと定義の話が取り上げられていたので、それについて・・・

当ブログでは、以前から、コミュニケーション関連の記事を幾つか上げたことがあるのだけれど、それらの引用を交えながら、エントリーする。

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1.コミュニケーションのための条件

他人とコミュニケーションが成立するためには前提となる条件がある。「コミュニケーションできる条件」のエントリーから引用する。

まず、コミニュケーションを行う意味について考える前に、そもそもコミュニケーションが成立する条件について整理してみると、おそらく次のようになるだろう。

1.外部との通信インターフェースがある
2.入出力された情報を認知または認識するための共通データベースがある
3.時間と空間を共有している

1.はコミュニケーションを行うための外部通信機能、人間であれば、五感を持っていて、それらが機能しているということ。

2.は文字どおりコミュニケートされた内容を理解するためのコンテクストを互いに持っているということ。

3.は、彼我の意志を互いに五感で検知できる状態にあること。但し、互いに同じ時間や場所にいなければならないということを必ずしも意味しない。

《中略》


人間同士のコミュニケーションであれば、1.の五感は共通だから基本的にクリアしている。だけど、2、3となると少々条件がつく。

2.のコンテクストでは、言語や動作の持つ意味であるとか、人種や言語圏、文明圏で少しづつ異なってくる。同一文化・言語圏であれば、これもクリアしているのだけど、他言語同士だと、最低限どちらか一方が相手の言語やそのコンテクストを知っていないとなかなかコミニュケーションは成立しない。

さらに3.の時間と空間を共有しているという条件は、ひらたく言えば相手と話ができる場が出来ていて、かつ双方が話を聞く体勢になっているかどうかということ。

日比野庵本館 2008.04.30「コミュニケーションできる条件


このように、相手とコミュニケーションが成立するためには、五感がちゃんと働いて、やりとりする情報などの意味を理解できる共通の基盤があって、更に、コミュニケーション出来る体勢がなくちゃならない。

通常、誰かと直接会って話したりなんかする場合のコミュニケーションでは、上記の3つの条件は大抵満たしているのだけれど、それと比較して、ネットにおいては、これらの条件を完全に満たしているというわけじゃない。




2.心を動かすコミュニケーション
「腰をグーッと、ガーッとパワーで持っていって、ピシッと手首を返す」
長島茂雄の打撃指導「原辰則の極意ノート」より

人と人とが直接会うコミュニケーションと比べて、ネットのそれがどのように違うかというと、大よそ次のとおり。

1.ネットでの情報伝達媒体は、主に、文字情報をその主体としているため、五感のうち、主に視覚に頼った情報伝達である。
2.ネットは双方向性があるとはいうものの、リアルタイムでの双方向機能(チャット等)を除けば、その場で、相手の言葉の定義や意味を問いただすことが非常に難しい。
3.ネット上でのコミュニケーションは基本的に時間と空間の制約を受けない。従って、対象者は、好きな時に好きな場所で、コミュニケーションを計ることができる反面。相手がその時、その時空間にいるとは限らない。


この中で、とりわけ差が出るのが1の「文字情報を主体とした情報伝達」の部分。

これらは、ネットの特性上どうしようもない事ではあるのだけれど、視覚、とりわけ文字情報に頼った情報伝達は、互いのコンテクストによって、意味の変容を受ける可能性は避けられない。

コンテクストについては、「『情』と『意』の翻訳と相互理解」のエントリーで少し説明を試みている。以下に引用する。
普通、多民族国家で、言語も複数ある国では、公用語をどれかに決めて、それを基準に横糸の伝達を図ろうとする。テレビ放送や教育なんかで公用語を広めて意思疎通のプラットフォームを作る。そこで大切なのは、認知している対象にズレがないかということ。

コンテクストという概念がある。

コンテクストとは、コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのもののこと。

例えば、ここに少し脚の高い「ちゃぶ台」があるとする。机のようにみえるし、箱か踏み台にもみえる「ちゃぶ台」だとする。

それを見てる2者がいるとして、一方が「ちゃぶ台の上の急須と湯呑み」と言ったとしても、もう一方がそれをちゃぶ台ではなくて机だとみていたとしたら、この2者間でのコミュニケーションはうまくいかなくなる。

このように相対的に定義が異なる言葉の場合、コミュニケーション者の間でその関係、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。

このように同じ言葉を使ったとしても、そこで意味する内容が、話す側と受け取る側で互いに違うものをイメージしていることがある。そうした場合、自分は自分で話が通じていると思っていても実際はそうではないことが多々起こりうる。

そうしたとき、コンテクストのズレを最小に押さえ、かつ『情』や『意』の部分をなるべく損失なしで伝える方法として有効なのは、視覚情報を使うこと。映像を使うやり方が最も効果がある。

テレビや動画などを中心とした視覚情報は発信側の映像イメージをストレートに相手に伝える。画像の見せ方やストーリーの組み立て方によっては、情感さえもたっぷり伝えることができる。

視覚情報をも使った情報の伝達損失は、言葉だけのやりとりとは比較にならないくらい損失が少ないけれど、それでもコンテクストのズレを完全にゼロにすることはできない。発信側のイメージを損失なしで伝えられたとしても、受け取る方がそのまま受け取ってくれるとは限らないから。

情報は、受信側のコンテクストによって、主観的な強弱をつけて受け取られる。

日比野庵本館 2008.01.27 「『情』と『意』の翻訳と相互理解

たとえば、選挙活動のように、相手に投票行動までを要求するほどの、情報伝達を行おうとすれば、やはり理屈といった『知』だけじゃなくて、相手の『情』を揺さぶり、『意思』を促すレベルの情報伝達がないとなかなか難しい。

要は、五感をフルに使って、相手に伝えるということ。

長島さんの打撃指導を、本かなにかで読んで理解しようとするのと、直接、ミスター本人から手取り足取り打撃指導して貰うのと、どちらが身につくかを考えれば、容易に想像がつかないだろうか。

「ピシっとして、パーンと打つ」とか、「ビューと来たらバーンだ」とかしか書いていない打撃教本を読んだところで、それで打撃が良くなる人はまずいないだろう。

だけど、ミスター直接の打撃指導を受けた選手は沢山いる。あの擬音だらけの打撃指導で効果があるのだとすれば、これはもう、視覚、触覚、聴覚と、ありとあらゆる感覚を使って指導したからだとしか説明の仕様がない。

だから、選挙において、今だに一軒一軒直接訪問してゆく、所謂「どぶ板」が有効な理由はここにあるのだと思う。

直接会って、相手の話に真摯に耳を傾ける。候補者の誠実さ、真剣さ、身に纏う雰囲気を含めた、ありとあらゆる情報を、五感全部に訴えて伝達する。そして、それらの総体として、心が動く。

人を動かす王道は、如何に相手の心を掴むかにある、というのは、今も昔も変わらない。


50秒あたりから


3分40秒あたりから



3.ネットコミュニケーションが持つ弱点とイメージ選挙

今のネットにおける情報伝達の殆どは文字情報。最近はニコ動やYOUTUBEなどのように映像情報なんかも増えてきてはいるけれど、やはりまだまだ文字情報が優勢。この傾向は今後も変わらないと思われる。なぜなら、映像情報と比べて、文字情報は読むのに時間が少なくて済むから。

たとえば、10分の動画とそれを書き起こしたテキストを読む場合を比べてみると、前者は情報を受け取るのに丸々10分かかるけれど、後者は、せいぜいその半分くらい。速読できる人なら1分もあれば充分読めるだろう。

だから、情報伝達に要する時間効率という意味において、動画などの映像情報と文字情報とでは格段の差がある。

その代わり、心を揺さぶるという面において、直接会うことに比べてハンデがある面は否めない。これは前章で触れたとおり。

この辺りが、今後ネット選挙が解禁されるとして、検討を要するところではあると思われる。

今回の参院選では、蓮舫氏が比例で170万票集め、柔ちゃんが35万票で早々に当選を決めた。一説には、イメージ選挙の結果だとも言われている。

現職の蓮舫氏は兎も角として、政治家としての資質に疑問が残る柔ちゃんに何故こんなにも票が集まったのか。

通常、イメージというのは、その「人となり」という部分が大きな要素を占めているもの。なぜなら、五感を使って、短時間でキャッチできる情報は、まず見た目で感じ取るその人の雰囲気が殆どであり、それ以上の情報の取得は困難であるから。

例えば、個人の思想とか信条とかいうものは、本とか論文とかいった、文字情報として変換して、それらを受信しないと伝達できない。街頭演説か何かで聴覚情報として伝達しようとしても、10分の演説なら、それを伝達完了するまで丸々10分必要になる。

忙しい現代人に、そこまで時間を割いて貰うことは、正直難しいのが現実。

ごく短時間しか有権者に接触できない候補者にとって、有権者に伝達出来る情報は、まず「イメージ」が先行するのであって、政策や心情はその後の話。

パンフレットやチラシなどで政策を伝えようとしても、それ以前にこの人のならチラシくらい貰ってもいいかな、と受け取って貰わなくちゃならない。

従って、今の選挙において、イメージの持つ力は非常に大きく、かつ、その中身は、その人となりの部分が大部分を占める。

「あの人は真直ぐな人だ」とか「嘘はつけない人だね」とか、「あいつは腹黒そうだ」とかいった、何となくではあるのだれど、「いい人」か「悪い人」か、といった、非常に大雑把なイメージをまず受け取っている。

特に、タレント候補となると、いつもテレビに出ていたりして人目についているから、その立ち振る舞いはいつも多くの人に見られている。視聴者も五感を駆使して、主観的に「感じ取った」イメージをそのタレント候補者に与えている。




4.一門の力は誰に対してのものか

では、何故、イメージだけ良いタレント候補者に票を投じることが出来るのか。それで問題にならないのか。

その理由の一つとして、そのタレント候補を擁立する、政党そのものへの信頼感というか、バックの政党が、その候補者の質を保障しているだろうという、暗黙の了解(思い込み)が前提にあるのだと思われる。

この辺りについて、「一門の力」という記事をエントリーしたことがある。以下に引用する。
世の中には、当然政治家を養成する機関はある。松下政経塾なんかは有名どころだけれど、それ以外にも例えば党が運営する自由民主党中央政治大学院だとか、都連が設置するTOKYO自民党政経塾などがある。中には小林興起政治経済塾などのように個人議員が開いている政治経済塾なんてのもある。

さしずめ、これなんかは師匠が弟子に稽古をつけるように、政治家としての力をつける養成機関。他にも地方議員からスタートして知事、国会議員などに転進していくケースもある。こちらはストリートライブから有名になってメジャーになる道にあたるだろうか。

こうやって、実際に政治家になってゆく経路を見てみると、その背後には、弟子の面倒を見てくれる師匠であるとか、バックアップしてくれる一門であるとか、そういった縦の関係が強固に出来上がる傾向が見てとれる。それは、派閥形成要因のひとつでもある。

その反面、そうした縦の関係の中で育ち、党公認を受けたり師匠の応援を受けるような候補は、その政治手腕、所謂「芸」の力を一門が保証していることになって、有権者にはそれなりのプロであるとアピールできる。

勿論、最初からどでかい「看板」を背負っているタレント候補はその限りじゃない。だけどタレント候補であっても、一旦当選してからあと大過なく議員が勤まっているのであれば、それは誰かの操り人形と化しているか、師匠筋、一門の教育が行き届いていて、それなりの政治家として育っているということなのだろう。

日比野庵本館 2009.06.30 「一門の力

確かに、たとえ、どうみても「政治のプロ」とは思えない、タレント候補が当選したとしても、その後で政党がみっちりと教育して、一端の政治家として育て上げてくれるのであれば、これでも通用すると思われる。

たとえば、タレントといっていいのかどうか分からないけれど、元キャスターの小池百合子氏などは、もうキャスターというより政治家としてのイメージのほうが強いのではないか。

また、進次郎議員なんかになると、この間の選挙戦を見ても分かるように、まるでタレントかなにかのような扱いで、逆に政治家臭のほうが薄いくらい。

だから、一門がしっかりしていれば、タレントだろうが、世襲であろうが良いのだ、という理屈は成立する。

だけど、一点だけ注意する点がある。この一門方式が通用するのは、その政党が「国民や国益を守る」ための政党でなければならないということ。

いくら教育がしっかりしていたとしても、その教育が日本や日本国民のためじゃなくて、何処か他所の国のための教育だったとしたら本末転倒。

この部分だけは最低限抑えておかなくちゃいけない。

それを無視して、ただのイメージや政党任せの投票は、時に、亡国の淵に繋がる道であることは知っておかなくちゃいけない。

いくら力のある一門であったとしても、その力が誰に対して向けられているかについては、国民は最低限知っておく必要がある。



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参考エントリー
天使のコミュニケーション
考えること伝えること
政治家の世襲問題について考える

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