今日は少し趣向を変えて・・・
当ブログでは、時折、幸福実現党の話題を取り上げているけれど、近頃、その母体である幸福の科学の書籍が出版ラッシュのようだ。
少し大きめの本屋にいけば、大体、平積みで新刊が並んでいるのだけれど、毎週のように出版されているのは凄いとしか言い様がない。
その新刊書籍のひとつを目にする機会があったので、今日は、それについてエントリーしたい。
1.霊が語るというスタイルが持つ利点
まぁ、読む気になったのはタイトルに興味を覚えたからなのだけれど、「菅直人の原点を探る」という本がそれ。
これは、空き菅@けものへん殿の師匠?である、市川房江女史と、尊敬しているという高杉晋作の「霊」を呼び寄せて、語らせるという異例のスタイルを取っている。
内容をかいつまんでいえば、次のとおり。
1.市川女史は、マルクス主義があれば、宗教は要らないと考えており、当時、菅氏に対しては、「不平等社会は無くさなければいけないと強く言っていた」と語る。菅氏が首相になったことを喜んでいる。
2.高杉晋作は、菅政権を中身がなく、世界では終わっている共産主義革命をやろうとしていると見ている。特に、菅氏は、経済が全く分かっておらず、財務官僚の振り付けで動くだけだとも。更に、菅氏は、経済、軍事、外交みんな駄目で、本質的に素質がない、と強烈な駄目出しをしている。
と、まぁ、一冊の本の中で正反対の見解をそれぞれ述べている。
筆者的には、高杉晋作(霊?)の指摘は的を得ているとは思うけれど、意外に今の情報に非常に詳しいという印象を受けた。そして、その内容は、現代人と変わらないどころか、非常に高い見識を持っているようにも思われる。まぁ、松下村塾の双璧、とも称された人物なのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
そして、この霊に語らせるというスタイルの本は、ある種の特質というか利点みたいなものがあると思われる。
それは、その真偽を証明することが非常に難しいが故に、反論がしにくいという点。
ただの小説であれば、笑い飛ばせばいいだけのことかもしれないけれど、語り手は空き菅@けものへん殿の師匠や尊敬する幕末の志士。しかも、著者は小説家ではなくて、宗教家だから、もしかしたら本当かもしれないと思わせる微妙な立ち位置にある。
さらに、内容が全く荒唐無稽と言う訳でもなく、ある程度、いやそれ以上に正鵠をついていたりするのだとすると、なんとも判断がつけにくい。
一般的な読者の感覚としては、「鵜呑みにはしたくないけれど、言ってることはその通りっぽい」、とか、「信じたくはないけれど、気にはなる」、そういったところではないかと思われる。
2.「知っている」ということそのものに、大きな力が宿る
現実に、この類の本が毎週のように出版され、全国書店に平積みされている事実がある。だから、尊敬する高杉晋作にダメ出しされた、空き菅@けものへん殿も、意外と扱いには困っているかもしれない。
もしも、空き菅@けものへん殿が、「霊の言葉などデマだから信じないでください」とでも反論しようものなら、「あんたのほうが信じてるんじゃないか」と思われてしまう。かといって放置していれば、まごまごしている間に、次から次へと新刊が発行されては、店頭に並んでゆく。
だけど、その都度、まともに反論すれば、「なんだ、図星なのか」と、それだけ痛いところを突かれているのだと自ら白状することになる。
そして、この本以外に、空き菅@けものへん殿を扱った本には「国家社会主義とは何か」というのがあるようなのだけれど、そこに出てくる霊がまた強烈。
何でも、ヒトラーと菅直人守護霊と胡錦濤守護霊と仙谷由人守護霊が登場するらしい。しかも、表紙にその4者の名前がどん、と出ているから、なんともインパクトがある。
空き菅@けものへん殿や仙谷氏がヒトラーと同列に並んでいる。表紙だけしか見なかった人でも、それでどういう印象を持つかは大体想像がつく。
だから、この手の本は、表紙を見るだけでも十分にインパクトがあるし、先の高杉晋作ではないけれど、その本の中身が、更に超辛口の評論だったりするともなれば、一度でも読んだら、あまりの辛さに飛び上がる、まるで、「激辛の麻婆豆腐」のような本であるとも言える。痺れるくらいに、スパイスが効いているのだ、と。
先ほども少し触れたけれど、この種の本は、それを信じる信じないに関係なく、「書いてあること」そのものが広まることに意味がある、と筆者は考えている。
なぜなら、そういう考え方もあるな、という「概念」を、日本に「楔」として打ち込んでいるから。
特に、近隣諸国の指導者の霊(守護霊?)を呼んで語らせた本ともなれば、たとえ、それが嘘であったとしても、その内容が広まることを持って抑止力として働く可能性がある。
たとえば、先日、中国海軍が宮古海峡を通過したとの報道があったけれど、それについて中国国防部の報道担当官は、「日本政府が、わざわざ発表する必要はない」なんて、内政干渉紛いの発言をしている。
それだけ、中国は自分に都合の悪い情報の浸透を嫌がっている。日本人には、馬鹿でいて欲しいと思っている。
だから、そうした折に、その国の指導者の霊(守護霊?)が、本人の考えなり、本音なりを語っている、という設定の本がどんどん発売される状況は、随分と嫌なものだろう。
ましてや、その内容がまかり間違って、「本当」なのであれば、秘中の秘が公然とばらされていることになる。とんでもないこと。
だから、色んな「概念」が広く普及して、普段は意識しないまでも「知っている」ということそのものに、意外に大きな力があることは知っておいていいと思う。
そして、この種の本を出す側で、気をつけるべきことがあるとすれば、手前味噌にならないこと。自分のところだけが偉くて、他が駄目という論調ばかりだと、「また、これだからカルトは駄目なんだ。」と思われる。
冷静で客観的な目と、自己批判精神を持ち合わせていることを望みたい。
3.成仏する条件
最後に、この本を読んで、気づいたことがある。
勿論、この本の内容が正しいという前提での話ではあるのだけれど、それは、「魂を成仏させるには、まず本人に、自分が死んでいるという自覚を持って貰うことが最低限の条件なのではないか」ということ。
自分が死んでいると自覚して始めて、「生前の人生」が自分にとってどうだったのか、それが受け入れられるものなのかどうかの自己客観視が始まるのではないか。
確かに、生前の自分の人生に納得出来なければ、それが、「もう一度、人生をやり直したい」という思いに繋がり、更には執着となって、何時までも其処に留まり、成仏するのが妨げられる、ということになるように思えた。理屈としては充分あり得る話。
だけど、それ以前に、自分が死んだことにすら気づけないのであれば、納得もなにもない。人生を振り返る切っ掛けがない。
勿論、時折、過去を思い出しては、後悔することくらいはあるかもしれない。だけど、それは、生前の人生の全てを振り返って、それを受け入れられるか否かを見つめる機会になるかどうか、となると疑問が残る。なぜなら、本人はまだ生きている積りでいるから。
要するに、「自分が死んだ」という自覚は、自分の人生の区切りを意識するということであって、それが出来て始めて、自分の人生を振り返ることが出来るのではないか、ということ。
件の本の中の、市川房江女史の霊?は、明らかに自分が死んでいるという自覚がなかった。死んでいると、質問者に言われても、尚、それを受け入れられず困惑しているようだった。
この点において、高杉晋作の霊が、生まれ変わりが云々、とはっきり発言しているのとは対照的。
まぁ、あれを不成仏と呼んでいいのかどうかは分からないけれど、少なくとも、自分が「肉体を持つ身」としては死んでいるという自覚がなければ、自らの人生を「客観的に」振り返ることは、かなり困難な事ではないかと思われる。
いきおい、自らが生前残した執着すらも自覚できず、結局のところ、なかなか成仏できなくなってしまうのだろう。
その意味においては、「彼岸に渡る」ということ自体に、大きな意味があるのかもしれない。
幾千の朝を越え 新しい陽が
待ってる気がした
呼んでる気がしたんだ
震えてるこの魂が
見つけた気がした
幾億の夢のように消え去れる日を
見送った
手を振った
ありがとう
待ってる気がした
呼んでる気がしたんだ
震えてるこの魂が
見つけた気がした
幾億の夢のように消え去れる日を
見送った
手を振った
ありがとう
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この記事へのコメント
Chica
↑
本当にその通りですね。私も望んでいます。
ただ、他の書籍「吉田松陰の霊言」「維新の心」「勝海舟の一刀両断」を読む限り、幸福の科学(特に幹部)への痛烈な批判や指摘、お叱り(?)が随所に見受けられます。それを、どう受け止めておられるかまでは、わかりませんが。
sera
本当に、「そ、そこは書かない方が一般受けするのに…(汗)」
という霊人のお言葉がよくあります。
それは幸福の科学や実現党を批判するものも、
逆に(ご指摘のように)持ち上げすぎるものも両方です。
一般の方が読むものなんだから、それは書かない方がいいでしょ~(^^;)
誤解されるでしょ~(^^;)、反感持たれるでしょ~(^^;)、
カルトに見えるでしょ~(^^;)、揚げ足とられるでしょ~(^^;)
と汗が出る部分もけっこうあって心配になることもあります(笑)
でも、だからこその説得力があるのだと思います。
日比野庵さんのハッとする切り口の文章をいつも楽しませて頂いています。
今回も「なるほど!」と思うところがありました。
これからも頑張ってください。
ちび・むぎ・みみ・はな
綿密に組み立てられた文に妄想を刺激された
駄文でコメント欄を汚し申し訳なく思います.
「天使の鼓動 ~Angel Beats!~」を再読して
早速の妄想.
成仏にも色々.
法華経だと生死を離れて時空間を超越して悟りを伝
える存在になり, 浄土宗だと浄土で心安らかに
過ごす存在になる. 禪宗は基本的に法華経だが,
肉体的死の後の世界が解決されていないようだ.
基本的にはクヨクヨするなということだろうが,
出典は忘れたが, ある禪師は死後は阿弥陀仏の下
(浄土)へ行くと言ったとか. (法華宗については
考えたことがないので良く分からない.)
古代では人間界を離れて魂となる. それだけ.
単純で良い. 今は元気だから思うのかも知れないが,
浄土で心安らかに過ごすよりは, 国を守る和魂なり
荒魂になるのは名誉なことだと思う.
国を守る魂として靖國に祭られた肉親を外すように
いまだに裁判を起こす方々がいるのは残念だ.
かめを愛する者