
昨日のエントリーにて、政策コンテストにてどの政策を選ぶのかという行為自身がその政治家の資質を浮き彫りにするといったけれど、それについて、補足というか、もう少し・・・
1.国民がアクセスできる情報には限りがある
仮に、その政治家が自身の信条も理念もなく、ただポピュリズム的に世間受けが良いのを選ぶとなった場合どうなるか。
おそらく、それは基本的に、世間が、その判断の根拠となる情報をどれくらい深く、どれくらい広く捉えているかに拠ることになると思われる。
それは、どういうことかというと、世間が、政治家若しくは官僚並みにその政策に精通し、必要な情報も逐一得て、専門家並みの判断が下せるというのならいざ知らず、そうでない場合は、自分達が知り得、理解出来得た情報でもって判断をすることしか出来ないということ。
仮に、国民が全員ニートだったりしたら、彼らが求める政策は、金をばら撒いてくれる政策を支持するだろうし、また、国民が全員土木・建設関係者だったとしたら、公共事業を中心とした財政出動政策を支持するだろう。
もちろん、これは物凄く極端な例。実際は、こんな単純なものじゃなくて、もっと複雑であるのだけれど、基本は、国民の信条や立場、そして利害関係が複雑に絡んだ中で支持される政策が決まってゆくことに変わりはない。
だから、単純に国民のウケが良い政策といっても、それは、国民がどのレベルの情報にアクセスしているかによってその判断は大きく左右されてしまう。
ここで、国民がどのレベルの情報にアクセス出来得るかということについて、本ブログで何度が取り上げている、「縁起のレイヤー」理論で考えてみる。
縁起のレイヤーとは、人と人との関係を縁の種類によって層別する考え方で、詳しくは下記エントリーを参照されたい。
「縁起のレイヤー」
「縁起のレイヤーか結ぶ世界」
2.立場によってアクセス可能な情報は異なる
人は、その国の国民というだけではなくて、その中で更に、様々な組織や団体に所属したりしているものだけれど、国民各々及び各種団体組織が、それぞれどのレイヤーを中心に活動し、それらに所属する人が、それぞれ、どの縁起レイヤーにアクセスできるのかを模式的に図にしたのを下記に示してみる。
この図は、下から血縁レイヤー、地域共同体レイヤー、経済レイヤー、思想レイヤーと積層している縁起のレイヤー社会の中で、一般国民および各組織・団体がどのレイヤーに中心的に位置しているかを概念的に表したもの。
人間は、生きていく中で、様々な縁で結びついているけれど、日々の生活の中で、それぞれどの層の縁からの情報に、どれくらいの頻度で接しているかは人によって様々に違う。
たとえば、専業主婦で、あまり外に出歩かず、近所づきあいくらいしかしない人がいたとしら、その人は、血縁レイヤー、地域共同体レイヤーからの情報が主になるだろうし、24時間仕事人間なら、経済レイヤーからの情報が主になる。
この図では、一般国民は、総体的にみて、普通は家族と過ごす時間が一番長く、その次に近所・友人付き合いが来て、さらに、仕事や利害関係となり、最後に思想、政治関連となると仮定して、血縁レイヤーを底辺に置く三角形で表している。
同様に、地域共同組合は、地域共同体レイヤーに存在して、経団連や経済同友会は勿論経済レイヤーに位置してる。そして、有識者会議や政策調査会、および議員のブレーンなどは思想レイヤーに位置している。
ここで、議員および官僚はというと、地元から直接選挙にて選出されること、及び現実に政策を実行する立場であることから、思想レイヤーから血縁レイヤーまでを貫く長方形をして表してみた。
※各議員には、任意のレイヤーを中心に存在する支持母体がついているので、厳密にみれば、長方形にはならない筈なのだが、ここでは便宜上長方形とした。
各レイヤー平面で伝達される情報は、そのレイヤー独自の情報であり、そのレイヤーに存在しない限りアクセスできないものとする。
この図において、一般国民は血縁レイヤーを底辺に置く三角形状に分布しているため、当然思想レイヤーにアクセスしている人数は下位レイヤーと比較して相対的に少なくなっている。
これは実際、国民全体に対する議員の数や官僚の数からみても、そのとおりになっていて、必然的に最上位レイヤーに常にアクセスできる人は限られている。ましてや「国家機密」に属する情報などにアクセスできる人は、一般国民の中には、まずいないと言っていい。
つまり、一般国民がアクセスしている情報の殆どは、家族や身の回りの地域の話題と仕事の話。あとは「マスコミを介して」伝達される範囲の、政治・経済などの上位レイヤーの情報である、ということ。
3.一般国民がアクセスできる情報の質が、政策コンテストの可否を決める
一般国民がアクセス権を持っている情報源とその構成を考えると、よほど意識して生活しない限り、上位レイヤー、特に思想レイヤーの情報に疎くなる構造になっている。即ち、日々の生活に流されてばかりいると、必然的に下位レイヤー中心の情報の中でのみ生きていくことになってしまう。
国民の多数がそのような状態にあるとき、政策コンテストかなにかで、一般国民にウケのよい政策を選ぶとなるとどうなるか。
それは、もう言うまでもなく、下位レイヤーを基準とした政策が選ばれることになってしまう。それしか情報を持っていないから、そうならざるを得ない。
勿論、政治は国民の為のものだから、国民の望む政策をすれば、それでいいじゃないか、という考えも成り立つのだけれど、その場合は、上位レイヤーの情報は、軽んじられてしまうことになる。ひいては、長期的な国家戦略や、国際情勢および国家機密に絡んだ外交的取引をも考慮した政策が選択されにくくなってしまう。
仮に、国民の大多数が上位レイヤーに精通していて、誰を選んでも、政治家や官僚が務まるレベルにあるのなら兎も角、そうでない場合には、世間ウケだけで政策を決定し、予算を配分することを、あまりにもやり過ぎると、中・長期的な国益を損なう可能性がある。
だから、どうしてもやりたければ、一般国民に広く上位レイヤーの情報を開示して、適切に判断を下せる体制を作らなくちゃいけないし、国民の側も、それ相応の自覚を持って、政策コンテストというものに参加する必要がある。
今回の政策コンテストでは、1兆円をそれに当てるとされている。
この1兆円がやり過ぎなのかそうでないのか、筆者には何とも判断できないのだけれど、ポピュリズムによる政策決定にはそうした危険があることには、留意する必要があると思う。
「使い勝手のよさ(ユーザー・フレンドリー)は民主主義を駄目にするといっても過言ではない。自分のまわりの世界がどのように機能しているかを市民がすすんで発見しようと努力することこそ、民主主義には不可欠なのだ。」リチャード セネット著 「不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化」

自助精神なき「民意」に寄り添う政治家を疑え
7月11日投開票の参院選は、昨年日本に帰化した金美齢氏にとって初の選挙権行使となる。民主主義は「国民に不断の自省がなければ衆愚に陥る」と述べる金氏は、今の日本国民は選挙権をいかにも軽く考え、その行使に当たってもメディアの恣意(しい)的メッセージに流され、「自分の一票が自分の運命だけでなく国のかじ取りに直結するのだという想像力や畏れもない」と警鐘を鳴らす。
その結果、「国あっての個人、個人あっての国」という一体感が政治家、国民双方に失われ、「国と個人は対立するもの」という誤った意識が定着し、選挙は単なる人気投票か、政治家・政党による国民への迎合を競い合う場となってしまったという。
金氏は、民主党政権の危うさを市民運動的なアマチュアリズムとポピュリズムにあると指摘、国民の自助精神こそが民主主義に緊張感と責任感をもたらし、国と個人の関係を健全にすると訴える。そして参院選に一票を投ずる心構えは、どの政党であれ「自助精神なき『民意』に寄り添う者を疑う」という。(上島嘉郎)
URL:http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100629/stt1006290824001-n1.htm
この記事へのコメント
日比野
>与えられる情報と取りに行く情報の違い、及びそれらと各レイヤー、支持政党の相関関係などまとめてみたいものです。
なかなか、面白そう、かつ重いテーマですね。私も折に触れて少しづつ考えて見たいと思います。
やまさん
今回のエントリーは私が民主党政権に対して漠然と抱いていた不安、不満を見事に言い当てられております。
ただ国民のレベル、言い替えると国民に与える情報の取捨選択の権利を全てマスコミが握っているといる現状は不健全極まりないですね。
与えられる情報と取りに行く情報の違い、及びそれらと各レイヤー、支持政党の相関関係などまとめてみたいものです。