ひろびろ日本
今日は簡単に…
昨日のエントリーでは、日本には自身の世界観が薄いのではないかと言ったのだけれど、今度は世界から見える味方について考えてみたい。
普段、我々が世界を見ようとして、世界地図や地球儀を眺めることがあるけれど、そこにある地図は大体において、国土面積を基準にした地図になるかと思う。
次に代表的な世界地図を記す。
この図の右上端、即ち極東に位置する、ちっぽけな紫色で示された島が日本。隣の緑が韓国と中国。
中央上の薄紫・菫色でごちゃごちゃあるのが西ヨーロッパ。そして左端にある青色の国がアメリカ。
まぁ、これが見慣れた地図。
このイギリスを中央、正確に言えば、グリニッジをセンターにおいた世界地図においては、日本は正に東の極み、極東にある小島であって、その先には何もない、世界の端っこに位置する取るに足りない存在としか見えない。
また、ヨーロッパは国土面積からいえば、実はそれほど大きいわけではなくて、EU全体でも、約399万平方キロで、アメリカの963万平方キロ、中国の960万平方キロと比べると半分以下しかない。
だけど、日本の国土面積は38万平方キロで、そのEUの十分の一しかない。
因みに、中央にでんと構えるアフリカ大陸は約3000万平方キロ、左下の南アメリカ大陸はおよそ1800万平方キロある。
要は、国土面積だけで言えば、日本は間違いなく小国の部類に入ると言えるのだろうけれど、これが経済力基準となると話は違ってくる。
次に、2005年時点の各国のGDPを面積に置き換えて、世界地図に表したものを記す。
このように、経済力基準に置き換えた地図でみると、世界に影響力を持つ国が何処の国であるのかが良く分かる。
大きく、アメリカ、EU、日本の3つ。
時折、「日米欧三極委員会」なんて言葉を聞くことがあるけれど、これは、日本・北米・ヨーロッパなどからの参加者が会談する、非営利の私的な政策協議組織のこと。1973年にデイビッド・ロックフェラー、ズビグネフ・ブレジンスキーらの働きにより発足した。
その目的は、先進国共通の国内・国際問題等について共同研究及び討議を行い、政府及び民間の指導者に政策提言を行うこととされており、総会は、日本・北米・ヨーロッパに設けられた三つの委員会によって運営される。
なぜ、委員会が、日本・北米・ヨーロッパの3つなのか詳しい理由は知らないけれど、このGDP換算の世界地図を見るとさもありなんという気はする。
そして、国土において、圧倒的な面積を占めていた筈のアフリカ、南アメリカの両大陸は、何処にあるのか分からなくなるほど萎んでしまっている。
これが、経済からみた世界地図。
逆にいえば、これは、世界からみた日本が如何なる大国に見えているかを表しているともいえる。
このGDP換算地図は2005年のものだから、2010年時点では、中国のGDPが急伸して、日本のGDP面積を凌ぐくらいにまでなっているのだろうけれど、これを右下の方に点在する、黄色や白で表された、東南アジア諸国から見るとどのように見えるのか。
成長著しい中国が覇権主義を隠さなくなった今、それを牽制して抑える力が有る国は、アジアでは日本しかない。なんとかしてくれ、と思っていたとしても不思議じゃない。
ところが、先の尖閣諸島沖衝突事件によって、紫色の大国日本は、あっさりと中国に屈してしまった。その衝撃と落胆は想像するに余りある。
日本は国土面積こそ小さい(領海内の海洋面積を含めれば別)けれど、経済力ベースの国力でみると大国であるのは間違いない。
たまには、こうした地図を眺めて、世界から日本がどう見えるのかを考えてみるのも悪くない。
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この記事へのコメント
almanos
白なまず
唐突ですが、国際日付変更線はどうして太平洋の中央付近にあるのでしょうか?
この疑問に私なりの解釈を(与太話です)、、、
昔々、太平洋には大きな大陸が存在し、高度な科学文明を伴った超古代文明が有ったとさ、それで時間を決めるために天体観測を行い、一日の始まりを日中(南中点:正午)を基準に決めていたとさ、南中点を基準に夜の星々の位置を観測し座標を決めていたそうな。そのうち先進文明は世界中に文明を広がったそうな、その一つにシュメール文明の元の文明がメソポタミア付近に出来たそうな。その科学文明はやがてヨーロッパ文明へと受け継がれ、英国のグリニッジを中心とする地図を作りはじめた。大航海時代にマゼランの世界一周の航海のときに日付の矛盾が発覚したそうな。しかし、日付変更線をヨーロッパの近くに持ってくると生活全てに支障をきたすので、近くに住んでいる人々の日にちが違うのも変だし、太平洋にそのまま日付変更線を置いておくのが便利だと考え、今の様に成ったとさ、、、
つまり、超古代の今の文明の元を作り伝えてくれたムー大陸が太平洋に沈んでるのではないか。彼らは太陽神を
sdi
経済力という点でいうと、1970年の時点で国別では日本は二位でした。
ただ、1970年代の交通・通信事情を考えると3つに分けざる終えなかったのではないか、ともいえるのではないでしょうか。今みたいに気軽に国際線で出張したり、メールやテレビ電話会議でコンタクトしたりというわけにはいかなかった時代です。国際電話かテレックスさもなくば書簡でやり取り、羽田から欧州への中継空港としてアンカレジが繁盛していたころですから、「距離」という点で今の感覚よりはるかに遠い「異国」だったでしょう。
もつとも、最大の理由は各国の経済力(対米比)と米国への一極集中を避けた米国サイドの政治判断だと私も思います。当時の日本と欧州諸国を合計すれば、ほぼ米国の経済力に匹敵しましたから、そのあたりを配慮したのではないでしょうか。