国民総生産と国民総幸福量 (国家と幸福感について 前編)


しばらくぶりの前後編の2回シリーズのエントリーです。

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「自分で経験して知っている幸福、そうした幸福だけが、地に足の着いた本当の幸福でありましょうが、それには2種類あります。積極的幸福と消極的幸福です。」
P・G・ハマトン

2020年までに「幸福感を引き上げる」目標の元、内閣府は、経済学や社会学などの有識者らで構成する研究会を設置し、22日に初会合を開いた。

これは、豊かさの代表的指標である国内総生産(GDP)だけではなくて、多様な統計から満足度、幸福感を抽出して政策立案に生かす試みだそうなのだけれど、これについて検討してみたい。

幸福感を数量化する試みの中で有名なのがブータンで行われている「国民総幸福量(GNH)」。これは、ブータン政府が政策を実施した成果を判断するための基準として用いられていて、ある意味、GDPに似た用途として使われている。

ブータンでは、国民総幸福量を計るために、2年ごとに、1人あたり5時間もの面談を行って、72項目の回答を集め、数値化を行っている。

ブータンで実施している国民総幸福量の調査は、次の9つの構成要素から成る。
1.心理的幸福
2.健康
3.教育
4.文化
5.環境
6.コミュニティー
7.良い統治
8.生活水準
9.自分の時間の使い方

この中で個人の主観に依存する要素が大きく、数値化しにくいものとして、心理的幸福があるのだけれど、これに対しては、寛容や満足といったポジティブな感情と、怒りや不満といったネガティブな感情がそれぞれどのくらいの頻度で思い浮かべたかを調査するという。

今回、日本政府が試みようとしている「幸福感」の計測については、外国や国際機関での取り組みを地調査した上で、日本特有の家族観を考慮して測定方法を開発するとしているから、当然このブータンの取り組みも参考にするものと思われる。

ただ、ブータンと日本とでは、国情も人口もGNPの規模も異なるから、全く同じ指標を当てはめていいかどうかは分からない。



幸福というものをどう定義づけるかについては、色々な見方があると思うけれど、思想家のハマトンによれば、幸福には、積極的幸福と消極的幸福の2つの種類があるという。

積極的幸福とは、何かをしたり、愉しんでいたりするときに感じる幸福で、特に自分の気質に一番合ったことを行うときに味わう幸福のことで、消極的幸福とは、自分が厄介な面倒事に巻き込まれていない時に感じる幸福感だとハマトンは定義している。

この幸福の2つの種類について、前者は、何かを行うことで、新しい体験を得たり、好きなことに没頭したりできるという幸福感、すなわち、新たな自己体験や自己認識の拡大などの、成長する喜びといった、行動を伴うことで感じる幸福感(動的幸福感)であり、後者は、心に背負った重荷を降ろせたり、迷いから解放された状態、即ち、「苦しみ」から解放されることによって感じる幸福感(静的幸福感)であるとも言える。

この2種類の幸福感を国家が国民に提供しようとすると、具体的にどうすればよいだろうか。

まず、積極的幸福(動的幸福)については、何らかの行動を伴うことで得られる幸福感だから、行動することで得られる何かを提供できなくてはいけない。それは、たとえば、レジャーであったり、スポーツであったり、文化芸術であったり、国民ひとりひとりの趣向や好みに合った、様々なものがあればあるほど、多くの人にニーズに応えることが可能になる。必然的に経済・文化などが充分発展している国がそれらを提供しやすいということになる。

それに対して、消極的幸福(静的幸福)は、苦しみから解放された状態を作りださなければならないから、それを国家が提供できるとするならば、それは、主にインフラ整備や社会保障といった制度となって反映されるだろうと思われる。

仏教では、「苦」の種類として次の8つの苦を挙げている。所謂、四苦八苦のこと。
生            



愛別離苦(あいべつりく)  - 愛する者と別離する苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく)  - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとっく)   - 求める物が得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - あらゆる精神的な苦しみ

これら四苦八苦を国家が軽減しようと思えば、一番簡単なのは、社会保障を充実させ、さらに国民を豊かにすることで相当程度軽減できる。

たとえば、日本の国民皆保険制度などは、国民の殆どが、比較的安価に医療を受けることを可能にしているけれど、これなどは正に「病」の苦しみを軽減しているといえる。

また、経済的に国民が豊かで、モノに溢れていれば、欲しいものは割と簡単に手に入るから「求不得苦」も少ないだろうし、また職業選択の自由や雇用が確保されていれば、自分に合わない仕事だからという理由で転職することもできるから、これだってある意味、「怨憎会苦」を軽減している姿と言えるかもしれない。

だから、消極的幸福(静的幸福)を国家として実現するためには、まずは経済的繁栄と物質的豊かさがないと実現することは難しい。

その意味において、物質的豊かさを計る指標でもあるGNPは、国家として、どこまで、消極的幸福(静的幸福)を実現しているかを見る目安でもあるとも言える。


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画像第12話 国民総幸福量(Gross National Happiness):経済的に、精神的に豊かであるということ【レポート】上田 晶子

 国民総幸福量とはブータンの開発政策の根幹をなす概念で、ブータンの現国王によって1980年代に唱えられたといわれています。現国王は、国民総幸福量の増大は、経済成長よりも重要であるとはっきりと述べています。この概念は、特に最近ブータンの国内外で開発政策に新たな視点をもたらすものとして注目され始めており、2004年2月にティンプで開かれた第一回の国際会議につづき、2005年6月20日からは、カナダで国民総幸福量に関する第二回の国際会議が開かれました。今回は、このブータン独自の概念に基づいて、ブータンがどのような国づくりを目指しているのかを紹介します。

 国民総幸福量という概念を初めて聞いた人の多くが発する質問のひとつが、幸福という一見非常に主観的に聞こえる概念を国の政策に取り込むことの妥当性についてです。何が幸せかという問いに対する答えは、人によってまちまちで、それを政策に取り込むことは不可能に近いという考え方です。今年5月にブータンで初めて行われた国勢調査にあった「あなたは幸せですか」という質問にも、多少戸惑ったブータン人がいたようでした。私の周囲のブータン人からは、質問が漠然としすぎていて、家族との生活に幸せを感じているかとか、仕事に生きがいを感じているかといった、もう少し限定的な質問にして欲しかったという声が聞かれました。

 ブータンの政策の中では、国民総幸福量には4つの主要な柱があるとされています。それらは、持続可能で公平な社会経済開発、自然環境の保護、有形、無形文化財の保護、そして良い統治です。経済開発に一辺倒になって、自然環境が破壊されたり、ブータンの伝統文化が失われてしまっては、何の意味のないというのが、この政策の精神です。この国民総幸福量の増大の精神にのっとり、社会開発には特に篤い政策がとられています。例えば、医療費は無料ですし、教育費も制服代などの一部を除いて無料です。また、国土に占める森林面積は現在約72%で、今後も最低でも国土の60%以上の森林面積を保つ方針が打ち出されています。また、良い統治という面では、行政と意思決定の両面での地方分権化が進んでいます。人々は、自分達の住んでいる地域の開発プランについて、自分たちで優先順位を決め、中央政府に提案します。

 ブータン人は、物質的な豊かさだけでは人は幸せになれないのだと、よく口にします。経済成長に伴って、家族中心の社会生活から、より個人主義的な生活を送るようになったり、大気や水質が汚染されたり、過剰な森林伐採が行われたり、ブータンの伝統文化を忘れて、西洋的なものにはしったりすることについて、ブータン人の多くはとても慎重です。

 経済成長一辺倒にならないこのような政策には、仏教の教えの影響を見て取ることができます。ブータン人の多くが信奉しているチベット仏教は、金銭や物質的なものに対する欲望を克服するように説いています。これは、ブータン人全員が物質的な豊かさを否定しているということではありませんが、物質的な豊かさに執着することがマイナスの価値をもつ社会文化的背景があることも事実です。さらに、ブータン人は進歩とは、精神的な成長を伴うものでなくてはならないと言います。ブータン人は心の状態をよく見ている人々であると先のレポートでも書きましたが、精神的により成長した人になることは、チベット仏教の教えとあいまって、多くの人々が日常生活のなかで意識していることであると言えます。

 では、ブータン人にとって幸せとは何なのでしょうか。職場の同僚と昼食をしているときに、この国民総幸福量がよく話題にのぼります。「どんなに貧しい状況にあっても、自分の置かれている境遇に満足することが国民総幸福量に貢献することなのか。」「いやいや、そんなはずはない。運命論者になって、自分の置かれている状況に満足することだけが、国民総幸福量の精神であるはずはない。経済的にも文化的にも、バランスをとりながら、より高いところを目指そうとする精神がなければならない」などなど、議論は昼休みを越えても続きます。確かに、何が幸せかという質問は個人のレベルでも答えを出すのが難しい問いで、まして国レベルでの議論になるとある程度の最大公約数に到達するのがやっとかもしれません。

 国民総幸福量という概念の大きな貢献は、人々に、特に政策にかかわる人々に、「幸福」について考えさせ、議論させるところにあるように思われます。そして、そこから出て来る政策は、国民総生産量の増大だけを目指した政策とは、必ず違うものになってくるはずなのです。ジクメ・ティンレイ内務大臣はあるスピーチの中で以下のように語っています。「国民総幸福量の概念は開発に対するバランスの取れた、最も包括的なアプローチを提示しています。幸福の追求は人類に共通のものであり、全ての人々にとってこれ以上の願いはないでしょう。ブータンと他の国々との間の唯一の違いは、他の国々ではそれが理想郷を追い求めることのように受け取られ、幸福の追求が見捨てられてしまっていることです。私たちはこれからも、人生には物質的な富よりももっと重要なものがあることを心に留めておきたいと思います」。人々の幸福の追求に最も適した環境作りを国家の政策の根本として位置づけ、手探りながらも邁進している国、ブータン。カナダ人の友人はブータンを「教養のあふれる発展途上国」と評しましたが、「教養のない先進国」もあるかなと、ふと考えてしまいます。

URL:http://eco.goo.ne.jp/life/world/bhutan/report12/01.html

この記事へのコメント

  • 白なまず

    御魂が無い状態で幸福度を上げようとしても感じる心が無ければ幸福度は上がりません。内に動く力(自我:理性)、外に動く力(唯物:環境)と御魂(神我:心)の3つは軸が直交している基本軸で、これ等が精神向上の為の道場を形成する空間であり天与の自由空間です。自由に活動出来るエリアを広げていく事で人間を理解したり、宇宙の真理を追求できるし、目標を達成したときの幸福感を得られるのです。多くの人々は神我の自由度が小さいので、この自由度を広げる事が御魂を得る事、御魂をみがくことになるのです。

    ひふみ神示 第03巻  富士の巻 第三帖(八三)
    、、、玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。、、、

    第五帖 (八五)
     喰うものがないと申して臣民不足申してゐるが、まだまだ少なく
    2015年08月10日 16:47
  • ちび・むぎ・みみ・はな

    > 2020年までに「幸福感を引き上げる」目標の元、
    > 内閣府は、経済学や社会学などの有識者らで構成する
    > 研究会を設置し、22日に初会合を開いた。

    日本国民の最大の望みは解散総選挙です.

    日比野庵殿は真面目にフォローされたが, 菅・仙谷組が
    何を考えよう, 日本を幸福にするとはまともに受けとる
    気がおきませんね. こんな不真面目無政権はないのだから.
    2015年08月10日 16:47

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