昨日のエントリーについて、ちび・むぎ・みみ・はな様から頂いたコメントのお返事を兼ねてちょっと補足を…
まず、頂戴したコメントは次のとおり。
漫画はあまり読まないのでコメントの資格はないのかも知れないが, 規制のプラスの面もあると思う.
例えば, 規制を通っている限りは批判を受ける理由はない,或は, 海外への販路が増えるなど. 海外では性描写はかなり制限されると聞きます.
江戸時代にもいろんな規制が庶民の娯楽にかけられたが,それを越えたものは世界的な価値を持つようになっている.心配はあるが, 人権法案が通らない限りは, それほど一般人の考えから離れた状況にはならないと思う.ちび・むぎ・みみ・はな様のコメントより
1.有害を回避する3つの方法
まず、私は何も規制は不要だとは思っていませんし、昨日の記事でもそう述べたわけでもないということは念のため、始めに申し添えて置きたいと思います。
その上での話になるのですけれども、今回の修正案は、やはり「架空の物語に現行法で規制する」という無理筋であることと、現行法でも有害図書の指定と取扱については、それなりに機能していたと思われることから、もっと慎重に対応しても良かったのではないかと思っています。
俗に、有害だとされる存在からの影響を回避する方法として何があるかといえば、大きくは次の3つの方法があると思います。
1.有害とされる存在を撲滅する
2.有害とされる存在を隔離する
3.有害とされる存在に対する抵抗力をつける
まぁ、いってみれば、風邪やウイルスに対する対処法と同じです。ウイルスに侵されない為には、ウイルスを駆除するか、ウイルスの感染者を一般から隔離するか、充分な栄養と休息そして適度な運動によって、ウイルスに感染しないだけの抵抗力をつけるか、といった方法になるということです。
ですから、有害図書からの悪影響なるものを回避するためには、このウイルスに対しての対処方法と同じではないかと思うのですね。
これまでの有害図書に対する出版社側、若しくは販売店側の対応は、自主規制又は、年齢分類(18禁指定など)したり、本の配置を本棚別に区分け(ゾーニング)したりするものですから、対応方法としては、主に2の「隔離」だったと思うのですね。
ただ、勿論、隔離といっても、実際の病院の様に隔離病棟ならぬ「隔離本棚」がある訳ではありませんから、100%の隔離は難しく、大体、なんとなく分けられている程度だとは思いますけれども、一応「隔離」扱いしようとはしているわけです。
今回、これらが問題になっているとするならば、恐らく、その「隔離」が甘くなって、子供向けの本が陳列されている「一般病棟」にまで浸食していっているのではないか、と認識されているからではないかと思うのですね。
それが本当なのかどうかは、私には判りかねますけれども、仮にそうだとすると、そもそもにして出版社側の自主規制が甘いのではないかとか、出版社側のモラルの問題だ、とかいう議論が起こるのは当然のことだと思います。
そして、今回の都の漫画規制条例のやり方というのは、丁度1のウイルスを「撲滅する」方法になると思うのです。
けれども、その撲滅方法というものが、繰り返しになりますけれども、時代や世界を自由に設定できる漫画やアニメの世界に対して、今の刑期法規に反するものを対象にする、という具合に指定してしまっているのが少々乱暴に過ぎるのではないかと思うのです。
2.改正案は規制ではなく完全殺菌
今回の条例改正案は、例えるならば、シャーレでも、試験管でも、何でもいいのですけれども、ある特定の場所に存在しているウイルスや細菌を、全て区別なく殺してしまうやり方に私には見えます。
そこにあるのが、ウイルスであれ、乳酸菌であれ、大腸菌であれ、容赦なく全滅させるということですね。けれども、これはもう、規制というよりは、「完全殺菌」というべきものであって、その中に、有益な細菌があったとしても一緒に殺してしまうやり方です。
まぁ、このやり方が全く駄目だとは言わないですけれども、この完全殺菌的な規制がどんどん拡大してゆくと、微生物が段々存在出来なくなっていきます。有害なものは勿論のこと、有益なものも含めて、です。
たとえば、コブラやウミヘビの毒は、人を死に至らしめることがありますけれども、生理作用としての鎮痛・鎮静、麻酔などは、薬品に使われたりします。ですから、一概に毒だといって全て殺菌してしまうと、その中の有益な部分まで一緒に無くしてしまう危険がある。
昨日のエントリーの中で「改正案が通過した場合、取り締まり対象となるであろう18歳未満の露骨な性表現が含まれる小説を紹介した」動画を貼り付けていますけれども、その中には都知事の本や、映画原作にもなった「ゲド戦記」や「1Q84」、そして「伊豆の踊子」や「潮騒」など、有名処が入っているのですね。
けれども、これらは、「名作」や「ベストセラー」として扱われています。では、その差は何処にあるのかといえば、作品全体としての質の高さや完成度にあるとしか思えません。過激な性表現はその中の一部に留まっている。そういう解釈がなされているのだと思います。
今、例として、取り上げたのは小説ですけれども、漫画に転じてみても、過激ではないですけれども、たとえば、「ドラえもん」などもそうかもしれません。
よく、のび太が「どこでもドア」を使ってしずかちゃんに会いにいくと、十中八九、しずかちゃんは、お風呂に入っていることになっていますけれども、あれとて、幼児や小学生には見せるべきではない性表現だ、と言おうと思えば言えるわけです。
けれども、ドラえもんは有害図書にはなっていない。作品全体として評価されているからです。
3.表現の自由はロングテールに宿る
そうしたことを踏まえるとやはり、有害図書なるものは、第一には、出来る限り「隔離」を施し、同時に、読者の側も抵抗力を付けることも大事だと思うのです。
ここでいう抵抗力とは、昨日のエントリーの最期に触れた、分別や自制心のことで、普段から、みだりにそうしたものには近寄らないとか、仮にそうした本を読んだとしても、それに影響を受けて実際に真似をするような「分別のない」ことはしない、という意味です。
その為には、やはり普段のからの道徳観念、宗教教育など、きちんと分別をつけるよう教育することが大事だと思うのですね。
そうしたことが、社会に行き渡ると、恐らく、過激な性描写だけに頼るというような、その場限りの作品は、やがて飽きられて消えて行くか、又は、極々小規模な冊数しか売れないという具合に自然淘汰されてゆくはずです。
要するに、流行りの言葉でいえば、ロングテールですね。俗に有害とされるような漫画・アニメはそうしたロングテールの市場に追いやられて行くはずです。
けれども、同時にそのロングテールそのものが文化の厚みとなっている面もあるのですね。
もし、そのロングテールの中に、後世に名作とされるような作品があったとしたら、ロングテールをロングテールとして残しておきさえすれば、その作品を世に送り出すこともできるわけです。
今回の都の条例案はどちらかといえば、このロングテールをちょん切ってしまうやり方にも見え、下手をすれば焚書坑儒になりはしないかとさえ思ったりします。まぁ、気にし過ぎかもしれませんけども。
さて、ちび・むぎ・みみ・はな様からのコメントに戻りますけれども、仰るように、規制のプラスの面は確かにあるかと思います。とくに海外への販売についてはそうだと思います。
ただ、規制に対応する余り、本来の作品の味わいを消してしまうことがあるというのは、残念な部分になるかもしれません。
一例として、最後に、日本の大人気アニメ「OnePiece」を、アニメ規制が厳しいアメリカで放映されたものとオリジナル日本版とを比較した動画を転載しますけれども、相当に修正されていることが分かります。
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この記事へのコメント
ちび・むぎ・みみ・はな
主張されていることはもっともなことです.
しかし, 同時に, 文化をつまらないものにするとは
限らないとも思うのです. 特に制限のない中で作られた
ストーリーは負荷的な制限の下でつまらないものに
なるのは当然なので, 新しい制限の下では新しい表現が
考えられることになるでしょう. 江戸時代では
それこそ命をかけて表現と制限のせめぎ合いがあった.
しかし, 作る側に作る理由があれば, 必ずしも
新しい可能性がなくなることにはならないと思うのです.
条例について詳しく研究したわけではないので
ピントを外しているかも知れません.
いずれにしても, 丁寧な議論あり難く思います.
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もっとも、こちらとしては条例に対する議論が賛成・反対双方で余りにも感情むき出しの極論や暴論が飛び出ていたこともあり、正直、関わり合いたくない気分もあってコミットしてません。ですが、その中にあって冷静な議論を交わしていたところもあったので(下記のアドレス参照)、基本的にはそれをROMりつつ条文や都の質問回答集などを参照した結果、自分としては「騒がれているほどの事態にはなりえない」と結論付けております。
http://www.j-mp.net/archives/50382988.html
http://www.j-mp.net/archives/50383711.html
http://www.j-mp.net/archives/50375439.html
http://www.j-mp.net/archives/50380810.html
このほかにもとぅぎゃったーの方のまとめも
almanos
日比野
コメントありがとうございます。
>新しい制限の下では新しい表現が考えられることになるでしょう. 江戸時代ではそれこそ命をかけて表現と制限のせめぎ合いがあった.しかし, 作る側に作る理由があれば, 必ずしも新しい可能性がなくなることにはならないと思うのです
同意いたします。このコメントを読ませていただいて、江戸時代、山葵が御禁制だったとき、それでもなんとかしようと寿司職人が、ネタの下に山葵を入れるようになった、という話を思い出しました。そして、逆にそれが文化にもなっていったわけですよね。
要は、仰るように「作る側に作る理由」を無くさせないこと、萎縮させないことだと思うのです。
6月に一旦否決されてから、今回までの間に、都と出版社、作家側にどれだけの話し合いが持たれたのかわかりませんけれども、「萎縮させる」「創作意欲を削ぐ」ところまで追い詰めるのはどうかと思います。双方、もっと話合って納得の上での条例であれば、ここまで問題にはならなかったと思います。
その意味では「施行には慎重になること」という旨の付帯決議が救いではありますけども。