ネットの知人とスタンド・アローン・コンプレックス

 
一昨日の「脳みそが証明した「旅の恥はかき捨て」」のエントリーで、mohariza様から戴いたコメントに関するお返事もかねて、補追エントリーします。

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まず戴いたコメントを下記に引用します。

私は、基本的に学者と称する人間の実験結果と云うものは信用していません。貴ブログのハーバード大学の実験結果は、脳内の一部の現象を少数の実験材料で示しただけ、と思っています。

また、私は、「友人」は、そんなに身近にいるとは思っていません。ネット上の「知人」は、昨年後半から益々増えていますが・・・。

ネット上の会話でも、「知人」は出来、その思考(考え)は分かるもので、昨年、あるブログ仲間と初めて会いましたが、赤の他人とは感じませんでした。

<ネットという「祭り」でのみ出会う相手を、いかに「リアルな知り合い」に変えて行くかが、実生活を具体的にかえてゆく力になる>との言は、至極当然で、今後の社会は、会社、近所の付き合い等の生身の人間関係より、ネットでの付き合いの方が、より深く、思考(嗜好)等で共通意識を持つと云う意味で、"リアルな知り合い”に成るように思われます。

脳みそが証明した「旅の恥はかき捨て」」のエントリーに対するmohariza様よりのコメント




1.ネットの知り合いは「赤の他人」か

ネット上の知り合いは「赤の他人」なのか、それとも「知人は知人」であるのか。

それを考える前に、WEB類語辞典で、友達の定義を確認すると次のようになっている。

友だち(ともだち)/友人(ゆうじん)/友(とも)

[関連語]   ペンフレンド ペンパル 朋友(ほうゆう) 友垣(ともがき) 酒徒(しゅと) 茶飲み友だち(ちゃのみともだち) ルームメイト 
[共通する意味] ★同じ考え方を持ったり、行動をともにしたり、いつも親しくつきあっている人。

この共通の意味にある「同じ考え方を持ったり、行動をともにしたり、いつも親しくつきあっている人」の定義に従えば、たとえネット上の知り合いであっても、いつも連絡を取り合って、互いの考えをよく知りあっているような相手であれば、十分「友達」の範疇に入れていいものと思われる。

その意味では、ネット上の知人は、昔でいえば、ペンフレンドのようなものだといってもいいだろう。

今回のハーバード大の実験が示したのは、あくまでも"架空の"人物と"リアルの友人"との間での脳反応の違いであって、たとえば、ネット上の知人であったとしても、それこそ長年のペンフレンドのように頻繁に交流する相手であれば、それはもう"架空の"存在ではなく、"リアルの友人"に入れるべきではないかと思われる。

では、ネット上の祭り、たとえば過去、麻生元総理の現職時代に、麻生さんの本を買って応援しよう、だとか、クリスマスカードを贈ろうとかいった運動が実際に起こったけれど、ネットでの全く知らない相手からの「呼びかけ」に賛同して、具体的な行動にまで結びつくことは、どう捉えるべきなのか。

ネットで、全く知らない相手からの呼びかけをたまたま目にした程度では、やはり所詮、「旅の恥はかき捨て」レベルのつながりしかないから、脳みそは真剣に考えるはずがない、だから、そんな呼びかけに応えることは、唯の物好きであって、単なる偶然の現象だ、と解釈すべきなのか。それとも、いやいや、ネット上の繋がりは、時にリアルの友人関係をも超えると考えるべきなのか。

これは、別の見方をすれば、ネット上の繋がりは社会的な力を持ちうるのかどうか。すなわち、ネット上での交流が、社会に対する具体的な行動にまで転換しうるのかどうかという命題でもある。



2.ネットの「祭り」が成立する条件

ネットの繋がりは「旅の恥はかき捨て」になるといったけれど、これはつまり、理性の箍が緩むといっては言い過ぎかもしれないけれど、ネット上では、各々が"素"になって振る舞う可能性が高いということを意味してる。

これは、旅先では、自分の顔も名前も知っている人はいないだろうから、多少、恥をかいたところで、自分の近所に言いふらされることもないだろうし、後々具合の悪いことも起こるまい、という気の緩みが起こるのと同じで、ネットでは、顔が見えず、また匿名性も高いがゆえに、旅先と同じような心理状態になりがちになってしまうというのは分からない話ではない。

この、「恥をかいても構わない」環境において、当人が思いのままに振る舞うということは、そのまま、その当人の"心根"が顕わになることでもある。その人の本性が明らかになる。

通常、個々人の"心根"が剥き出しになる環境において、多くの人が、何某かの統一された行動を取るのは非常に難しい。なぜなら、個々人の"心"はその本人のものであり、他の誰かと同じではないから。

人の"心"は互いに異なっているという大前提があって、なお、統一された行動が起こる条件を考えてみると、次の3つがあるのではないかと思う。

A.互いの意思疎通が可能なこと
B.共通の価値観や文化のベースがあること
C.心根が善良(素直)であること

Aについては説明の必要はないだろう。互いの意思疎通ができなければ、行動もへったくれもない。これが一番端的に現れるのは、おそらく言語になるだろうと思われる。片方が相手の言語を知らずに、意思疎通の段階で困難が発生するのであれば、その人は、共に行動する対象からは外れてしまう。

Bについては、Aの意思疎通の問題に絡むのだけれど、たとえ互いの言葉が通じたとしても、双方の価値観が余りにも違いすぎて、相手の話す内容に全く賛同できなかったり、相手の言っていることからして理解できなかったとしたら、これもまた共に行動するのは難しい。

そして、Cの心根が善良であるというのは意外と重要な点。なぜなら、情報の発信元はもとより、それを受け取る側にも善良さがないと、賛同そのものが集まらなくなるから。

これは、リアルの現実社会でも同じなのだけれど、たとえば、見ず知らずの相手に、街頭でアンケートを求められたときを考えてみた場合、アンケートをお願いするほうも、されたほうも、互いの善意を前提にそれが成立している。なぜなら、普通、街頭アンケートには何ら利害が発生することはないから。

答える側にしてみれば、アンケートに答えたとて、謝礼がもらえるわけでもないし、また無視して通り過ぎたって別にかまわない。それを時間を取ってわざわざ答えるなんて、善意以外の何者でもない。

それでも、まだ、街頭アンケートであれば、その主旨説明をよく聞いて、アンケート用紙を差し出す人の様子を見たりして、信用できそうかの判断ができる余地があるのだけれど、ネットになるともっと条件は厳しくなる。

先にも述べたように、ネットの世界では、互いの顔が見えず、匿名性も高い。情報として伝達されるのは、ほとんどが文字情報のみで、一部映像情報が加わるくらい。もちろん利害関係も発生しない。そうした限定された条件の中で「呼びかけ」に賛同して実際の行動にまで移すのは、相当、心根が善良でないとありえない。

もし、情報の受け手が疑り深くて、「呼びかけ」そのものを信用しなかったら、具体的行動には転嫁するはずもない。



3.タイガー運動にみる日本のS.A.C.

こうしてみると、いわゆる「祭り」と呼ばれるネット上の「呼びかけ」の中の一部には、もちろん「悪乗り」でやっているところもあるにせよ、「祭り」そのものが成立する条件は結構ハードルが高いことがわかる。

言語も民族も価値観もバラバラな多民族国家であれば、Aの条件からして整えるのは大変。もちろん、数十、数百といった少人数であればどうにかならないではないけれど、組織的運動レベルになるような、何万、何十万といった人数となると、大多数の人々にその意思を伝え、賛同を得ることなしには実現できない。

その意味では、今の日本が、これら3条件を当然のように満たしていることの凄さがわかるというもの。

ネット発ではないけれど、昨年末から、全国各地で「タイガー運動」という現象が起こっている。これは、プロレス漫画「タイガーマスク」の主人公「伊達直人」と名乗る人物から、各地の児童養護施設にランドセルなどの贈り物が届けられるというもので、最近はランドセルだけではなくて、おもちゃや現金などが届られる例もあるという。

届けられたランドセルには、「伊達直人」の署名が入ったメッセージが添えられているのだけど、各地に届けられたそれぞれのメッセージの筆跡は明らかに異なっており、複数の人物によるものとみて間違いないだろうと思われる。

漫画のキャラクターとはいえ、「伊達直人」という架空名による寄付が、模倣的に次々と行われる現象は、ネットでの「呼びかけ」に賛同した人々による匿名の行動と質的には同じものだと言っていい。

そこには、「児童養護施設にランドセルを贈る」という意思があり、「その行為を良いものだとする共通の価値観および、漫画のタイガーマスクの内容を知っている」という共通理解があり、そして「自分も贈り物をしようという善良な人々」がいる事実がある。それらが揃って、初めて成立するのが、この「タイガー運動」現象。

日本は、スタンド・アローン・コンプレックス(S.A.C.)に一番近い国なのかもしれない。




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この記事へのコメント

  • almanos

    もう一つとしてはリアルで始めて会う人物が危険である度合いが、他国に比べて低い事もあるのではないでしょうか? 安全に対するコンセンサスが高い社会だからこそ成立するのかもしれません。そのコンセンサスが日本を出たら通用しない事への認識が欠けている事が、海外での日本人がトラブルに遭う理由でもあるのですけど。
     後は、祭りでは祭りの由来になる故事を再現する為に演じられる。祭りが多い日本では祭りでそういう役柄を演じる事への抵抗も躊躇も低い。リアルの自分だと財布の中身とか考えるけど「伊達直人」ならそうではない。そして、「伊達直人」として演じた後なら財布の中身についても肯定的に受け入れられる。日本古来の祭りの伝統も、スタンドアローンコンプレックスを起こしやすい条件として作用しているのかもしれません。
    2015年08月10日 16:47
  • mohariza

    <スタンドアローンコンプレックス>と云う言葉は、初めて聞き、ネットで調べ、一応、理解はしましたが、

    書物類(小説、詩、物語等)を通じても、(作者が個人が特定されずとも)過去の言葉(意味)が、現代の人間を突き動かすことがあります。
    個々の言葉に込められたものは、人を動かす力になるので、疎かにすべきでは無い、と思います。
    一つの言葉で、多くの人々を動かすのは、なかなか、難しいと思いますが、
    そこに真実が含まれば、意味の無い言葉を並べ立てる 既成マスメディアを使わずとも、
    何らかな動き(胎動)が生まれる、と信じています。

    最近、<ブック・フェース>と云うものを使い、個人を明らかにして、意志伝達をするネット手段が走りと聞きましたが、私は、個人を特定し、コミュニケーションを取ろうするのは、<売名行為>のようにも感じられ、「言葉自身」を伝えるブログ・ネットとは、異質のように思っています。

    「言葉」を通じ、語り合い、共感しあい、そこから生まれるものから、<真実>(に近いもの)が、生まれるように思っています…。
    2015年08月10日 16:47
  • 白なまず

    攻殻機動隊でネット社会の未来予想の世界を覗いた時、私には別のイメージが感じられる。物語ではリアル3次元の人間世界に擬体を持ち込む事で人間の体と精神を分けて考える事が出来るかどうかの命題が根底に流れており、それは、おそらくこのまま科学技術が進めば実現すると思われる。しかし、別の見方(私のイメージ)では人間の本質は精神で体は無くなっても精神は不滅で輪廻転生を繰り返す、転生の機会を得て様々なお陰様でこの世に生まれてくると信じるのであれば、この攻殻機動隊のネット社会のあり方は死ぬ前に黄泉の国(ネット社会)へ常時接続するテレパシーを使ったネットワーク社会で極楽浄土にある3000世界と重なって感じられた。物語で世の中を良くする活動を革命家がネットを使い試みて、自らがハブ電脳になり他の人々の接続を受け入れて相互理解を行うあたりは、数多くの菩薩が合体し如来になるイメージに重なる。そして、これらの内容を理解出来る日本人の素養や日本のネット社会の素養は岩戸開けの後の弥勒の世の予行演習(シミュレーション)を行うには丁度良い。日本人のお役目が見えてくる。
    2015年08月10日 16:47

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