4月25日、警察庁緊急災害警備本部のまとめによると、東日本大震災とその後の余震による死者は1万4358人、行方不明者は1万1889人に上ったことが分かった。避難所生活者も2518箇所の避難所で13万904人にのぼっているという。
特に、今回の東日本大震災では、地震そのものよりも津波の被害が大きかったと言われている。確かにネット動画などで、当時の津波の状況を見ていると恐ろしいばかりの海水が押し寄せて、あっという間にすべてを飲み込み、浚っていった様子がありありと映されている。
だけど、奇跡的に被害が軽く住んでいる地区も存在している。
たとえば、岩手県普代村や、釜石市唐丹町本郷、そして大船渡市三陸町吉浜などがそう。今回の津波でも岩手県普代村は死者ゼロで行方不明者1名。釜石市唐丹町本郷、と大船渡市三陸町吉浜はそれぞれ死者1名だった。
どうして被害を免れたのかといえば、なんといっても先人の智慧に従ったから。
普代村は、高さ15・5メートル、全長205メートルもの防潮堤と水門を築いていて、それが津波を食い止めた。この防潮堤は、昭和40年から50年代にかけて造られ、当時の村長を務めていた、故・和村幸得さんが周りの反対を押し切って完成させたもの。
15.5メートルと言えば、当時「万里の長城」と呼ばれた岩手県の宮古市田老地区の高さ10メートルの防潮堤をも大きく上回るもので、この普代村の防潮堤の計画は、「高さを抑えよう」などと批判を浴びた。
だけど、和村さんは、明治29年の大津波で302人、昭和8年の大津波でも137人の犠牲者を出した歴史を振り返り、「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、頭から離れず、防潮堤の高さを15メートル以上にすることに拘ったという。そして、1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成に漕ぎ着けた。
今回、普代村に押し寄せた津波は、この防潮堤の更に1メートルほど高かったとも、高さ20メートルを超えていたとも言われているのだけれど、津波は、水門に激突して乗り越えたものの勢いはそがれ、そこから普代川上流にさかのぼって、く止まったという。結果として、近くの小学校や集落には浸水被害はなかった。
一方、自慢の高さ10メートルの防潮堤を擁していた、宮古市田老地区は、津波がその防潮堤を超え、町を飲み込み、数百人の死者・不明者を出した。
正に、5メートルの差が明暗を分けたといえる。
そして、釜石市の唐丹町本郷地区は、明治三陸地震津波と昭和三陸地震津波で海岸部の家屋がほぼ全滅した経験から、住民たちは裏山を切り崩して海抜約25メートル以上の高台に団地を造成して、約100戸を移転させていた。
今回の津波でも、高さ20メートル以上に達したとみられ、唐丹湾の高さ10メートルの防潮堤では成す術なかったのだけれど、高台に移転した家屋はほぼ無傷。その一方、転入者らが近ごろ建てた低地の約50戸は津波に飲み込まれたという。
更に、大船渡市三陸町吉浜地区でも、明治三陸地震津波の後に約50戸が海抜20メートル以上の場所に移転していて、今回の津波で移転前の場所は水没したものの、移転した家屋の被害は全壊が1戸だけだった。
だから、高い堤防を作るか、高台に移転する、という選択が津波から命を救ったと言える。これも過去の歴史に学んだがゆえ。
また、宮城県東松島市野蒜地区には、津波に備えて個人で避難所を作った人がいる。この地区には、高さ30メートルほどの岩山が立ち並んでいるのだけれど、土地の所有者である佐藤善文さんは、津波に備えてここに避難所を造ろうと10年かけて自身の退職金をつぎ込み、岩山への階段と8畳の小屋、海を見渡せる展望台を作った。
造っている当時は、付近の住民から「津波なんてここまで来るわけがない」と笑われ、「佐藤山」と呼ばれていたという。
それでも佐藤さんは、避難所を造り上げ、「大きな津波は、建物ではダメ。高台に逃げるのが鉄則」と、佐藤山を市の避難所に指定するように役所に掛け合ったのだけれど、相手にされなかった。
市に訴えたこともあったが、「佐藤山」は指定されなかった。
だけど、この地区を襲った津波は、市の指定避難場所も襲い、多くの人の命を奪っていった。その一方、この「佐藤山」に逃げ込んだ、70人ほどの人は助かった。
これも、過去の歴史や言い伝えに学び、それを守ったことが結果として命を救う結果となっている。
震災から2日後の3月13日に、youtubeにアップされた、まんが日本昔話の「みちびき地蔵」が話題になっているそうだ。これは、津波で大きな被害を受けた宮城県の気仙沼湾にある離島、大島に伝わる民話だそうなのだけれど、本当に大島には、「みちびき地蔵」と呼ばれる地蔵が実在している。
この地域の民話に詳しい気仙沼市のリアス・アーク美術館副館長の川島秀一氏によれば、昔、大きな地震があったとき、逃げ惑う人々に指示を出した人がいて、この人の後を付いていって助かった人々が、お礼をしようと思って探したが、結局見つからず『あの人はお地蔵様だったんだ』と言われたという話もあるそうだ。
こんな話を聞くと、東松島市で佐藤山を作った佐藤さんなどは、後の時代には、「みちびき地蔵」として祭られるのではないかと思ってしまう。
そういう意味でいえば、岩手県普代村の高さ15.5メートルの堤防を作り上げた和村村長なども「おまもり地蔵」として、後世に語り伝えられてもいい。
時代が時代なら、本当に"まんが日本昔ばなし"になってしまいそうにさえ思える。
逃げるなら山。住むなら高台。守るなら高い堤防。
智者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。
科学が進んだ時代だからこそ、過去の経験と、現在のズレを真摯に検証する姿勢があってもいい。
実は、津波被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、東北大の平川新教授の調査で分かったという。
作成された地図をみても、旧街道は、どんぴしゃりで、浸水域を避けて通っている。先人たちの智慧はこんなところに今も生きている。
自然は、人間の予測を容易に超えるとはよく言われることだけれど、想定外という前に、過去の歴史と智慧を掘り起こせ。


過去の津波で多数の犠牲者を出した岩手県普代村は東日本大震災では死者ゼロ、行方不明者1人にとどまった。被害を食い止めたのは高さ15・5メートルもの水門と防潮堤。昭和40~50年代、当時の村長が反対の声を押し切り、建設にこぎつけたものだ。ただ、今回は水門脇ゲートの自動開閉装置が故障し、1人の消防士が水門へ向かい、手動でゲートを閉めた。危機を見越した過去の政治的英断、そして地震直後の献身的な行動が村を守った。(梶原紀尚)
もう少し低かったら…
久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)は「水門の高さがもう少し低かったら、村にはすごい被害が出ただろう。もちろん私の命もなかった」と振り返る。
3月11日の地震直後、自動開閉装置の故障を知った立臼さんは、村を流れる普代川の河口から約600メートル上流にある水門に向かって消防車を走らせた。故障したゲートを閉めるには水門上部の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。津波の危機感はあったが、「まさか、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。
機械室に駆け上がって手動スイッチに切り替えると鉄製ゲートが動き、ほっと一息ついた。消防車に乗って避難しようとしたとき、背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いた。普代川を逆流してきた津波が黒い塊になって防潮林をなぎ倒し、水門に押し寄せてくる音だった。アクセルを踏み込み、かろうじて難を逃れた。
津波は高さ20メートルを超えていた。水門に激突して乗り越えたが勢いはそがれた。水門から普代川上流にさかのぼってほどなく止まり、近くの小学校や集落には浸水被害はなかった。
立臼さんは「高い水門をつくってくれた和村さんのおかげ」と話した。
和村さんとは、昭和22年から10期40年にわたり普代村の村長を務めた故・和村幸得さんのことだ。昭和8年の三陸大津波を経験し、防災対策に力を入れた村長だった。
村では明治29年の大津波で302人、昭和8年の大津波でも137人の犠牲者を出した歴史があり、和村さんは「悲劇を繰り返してはならない」と防潮堤と水門の建設計画を進めた。昭和43年、漁港と集落の間に防潮堤を、59年には普代川に水門を完成させた。
2つの工事の総工費は約36億円。人口約3千人の村には巨額の出費で、建設前には「高さを抑えよう」という意見もあった。だが、和村さんは15・5メートルという高さにこだわった。
普代村住民課長の三船雄三さんは「明治の大津波の高さが15メートルだったと村で言い伝えられていた。高さ15メートルの波がくれば、根こそぎやられるという危機感があったのだろう」と話す。和村さんは反対する県や村議を粘り強く説得し、建設にこぎつけた。
村長退任時のあいさつで職員に対し「確信を持って始めた仕事は反対があっても説得してやり遂げてください」と語ったという和村さん。三船さんは「当時の判断が村民の命を守ってくれた、とみんな感謝している」と話している。
URL:http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110425/dst11042522170042-n1.htm

東日本大震災の大津波により壊滅的な被害を受けた岩手県沿岸部で、過去の津波被害の教訓から高地に移転し、今回は難を逃れた集落がある。釜石市唐丹(とうに)町本郷と、大船渡市三陸町吉浜の2集落。本郷地区は道路を挟んだ上下で「明暗」がはっきり分かれた。防災の専門家は「被災地の復興策として高地移転を進めるべきだ」と指摘する。
本郷地区は明治三陸地震津波(1896年)と昭和三陸地震津波(1933年)で海岸部の家屋がほぼ全滅した。住民たちは裏山を切り崩して海抜約25メートル以上の高台に団地を造成、約100戸を移転させた。今回の津波は唐丹湾の防潮堤(高さ約10メートル)を乗り越え、高さ20メートル以上に達したとみられるが、移転した家屋はほぼ無傷だった。一方、転入者らが近ごろ建てた低地の約50戸はのみ込まれた。
住民らによると、住民たちは高台に避難し、犠牲者は漁船を沖に出そうとして津波に襲われた1人だけだった。漁業の千葉賢治さん(79)は「堤防を越える津波が来るなんて思わなかったが、親たちの知恵が生きた」と話す。
吉浜地区も明治三陸地震津波の後に約50戸が海抜20メートル以上の場所に移転。今回、元々集落があった水田地帯は水没したが、家屋は全壊が1戸だけで、死者も1人だった。
牛山素行・静岡大防災総合センター准教授は「今回の大津波で明らかに有効だった対策は高地移転だけ。再建する集落に加え、近い将来大地震による津波被害が想定されている東海地方などでも高地移転を検討した方がいい」と話している。【福永方人】
URL:http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110405k0000e040071000c.html

「津波なんてここまで来るわけがない」。そう言われながら、約10年がかりで岩山に避難所を造った男性がいる。700人以上が死亡した宮城県東松島市で、この場所が約70人の命を救った。
東松島市の野蒜(のびる)地区。立ち並ぶ高さ30メートルほどの岩山の一つに階段が彫られ、登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板があった。お年寄りでも上れるように段差は低く、手すりもある。平らになった頂上には、8畳の小屋とあずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。
近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が10年ほど前から、退職金をつぎ込んで1人で造った。「避難場所は家からすぐの場所になくちゃってね」。住民には「佐藤山」と呼ばれていた。
地震があった11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、すでに40人ほどがここに避難していた。津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響いた。
いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた。「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性など4人も流れ着き、避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性陣はあずま屋でたき火をして夜を明かした。
夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、流失した家屋やがれきで埋め尽くされていた。避難した遠山秀一さん(59)は「『ここには大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、先見の明があった」と感謝する。
一方、周辺では指定避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった。佐藤さんはこれまで「大きな津波は、建物ではダメ。高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えたこともあったが、「佐藤山」は指定されなかった。
佐藤さんは「老後の道楽も兼ねて造った避難所で一人でも多く助かってよかった」と喜ぶ一方、「もっと多くの人に『ここに逃げて』と伝えられていれば」と悔しさもにじませる。
「佐藤山」には、もともとあった山桜のほか、しだれ桜や数々の山野草が植えられている。津波に襲われた登り口付近の梅の木は、地震後に白い花を満開にさせた。「早く平和な日常が戻るように」。佐藤さんは、様変わりした野蒜地区を見てそう祈っている。(木下こゆる)
URL:http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY201103290226.html

東日本大震災に伴う津波で大きな被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された。仙台平野は400~500年おきに大津波に見舞われており、街道は過去の浸水域を避けて整備された可能性が高いという。平川教授は「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と話し、今後の復旧計画にも教訓を生かすべきだと提言する。
国土地理院が作製した東日本大震災の浸水図に、平野を縦断する奥州街道と浜街道を重ねたところ、道筋の大部分と宿場町が浸水域の先端部からわずかに外れていたことが分かった。宿場町の整備後に仙台平野を襲った慶長津波(1611年)では、伊達領で1783人が死亡したとの記録が残る。平川教授は「慶長津波を受けて宿場町を今の位置に移したとも推察できるが、今回の浸水域と比べると見事なほどに被害を免れる場所を選んでいる。津波を想定して道を敷いた可能性は高い」と指摘する。
同平野は明治以降も繰り返し津波に見舞われた三陸海岸と比べ、津波被害の頻度が少ないとされる。慶長津波の浸水域は明らかになっていないが、内陸約4キロの山のふもとまで船が漂流したとの記録がある。東北大の別の研究チームによれば、今回の津波は海岸線から最大5キロ程度に達し、平安時代の貞観地震(869年)の浸水域をやや上回った。
平川教授は「残念ながら明治以降の開発において、津波の経験は失われた。復興のまちづくりは災害の歴史を重視して取り組んでほしい」と話している。【八田浩輔】
URL:http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110419k0000e040095000c.html

津波で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市の昔話がネット上で話題だ。津波をテーマにした「みちびき地蔵」というもので、海外サイトでも紹介された。しかもこの地蔵は実在するという。
1975年から90年代中頃まで主にTBS系列で放送されたアニメ「まんが日本昔ばなし」の中に「みちびき地蔵」という話がある。気仙沼湾にある離島、大島に伝わる民話だという。
津波前日、大勢の村人の魂が地蔵にお祈り
昔、母親と幼い子どもが農作業の帰り、地蔵の近くを通りかかった。この地蔵は「みちびき地蔵」と呼ばれ、翌日亡くなる人の魂が天国に導いて貰うため、挨拶に来ると言われていた。この日は子どもから年寄りまで大勢の人々の魂がお祈りをしていた。
母親は、「一体なぜこんな大勢…」と怪訝に思うが、家に帰って夫に話しても「そんな馬鹿なことがあるものか」と相手にされない。しかし翌日、浜辺で何十年か振りに遠くまで潮が引き、普段なら潮が満ちてくる時間になっても、全く満ちなかった。すると突然津波がやってきて浜辺にいた村人達を飲み込んでしまう。親子は高いところに逃げ無事だったが、61人の村人が亡くなったという。話は
「今もこのお地蔵様はみちびき地蔵と呼ばれて、人々は花やお線香を絶やさないそうです」
と結ばれている。
テレビでは1977年に放送されたこの動画が、震災から2日後の2011年3月13日、YouTubeにアップされ、大きな反響を呼んだ。
今回の大津波で果たして無事だったか
4月27 日現在までに約28万回再生された。「昔も同じことがあったんだなあ」「いま改めて見ると怖い話ですね」といったコメントも多数寄せられている。また、このアニメでは津波発生前に地震の描写がないことから「震源地はチリとか外国か」といったものもあった。海外サイトでも「The guiding jizo」と紹介され、「この話が実話をベースにしているのは間違いありません。歴史は繰り返されます」などとブログでコメントされている。
この地域の民話に詳しいリアス・アーク美術館(気仙沼市)の川島秀一副館長によると、みちびき地蔵と呼ばれる地蔵が大島に実在する。いつごろから「みちびき地蔵」と呼ばれたかは不明だが、1770年代に祀られた記録があり、昭和の時代にお堂が建て替えられたという。
「その(日本昔ばなしの)話は知りませんでしたが、こんな話もあります。昔、大きな地震があったとき、逃げ惑う人々に指示を出した人がいました。この人の後を付いていって助かった人々が、お礼をしようと思って探しましたが、結局見つからず『あの人はお地蔵様だったんだ』と言われたそうです」
今回の津波でみちびき地蔵がどうなったかは不明だが、「丘の上にあるのできっと無事だと思うのですが…。今度見てこようと思います」と話していた。
市によると、大島にいる約3200人の島民のうち現在も約200人が避難生活を送っている。まだ多くの地域で断水が続くなど、ライフラインの復旧が急がれている。
URL:http://www.j-cast.com/2011/04/27094429.html?p=all
この記事へのコメント
ちび・むぎ・みみ・はな
> に沿って止まっていることが、
水はけの良い所に道を作ったら自然にそうなったの
だろう. 確かに「コンクリートから人」は間違った
キャンペーンであったが, コンクリートが全てでも
なかろう. 記憶が定かではないのだが, 木曽川か
長柄川で江戸時代からの堰を残すか残さないかと
いう議論があった気がする. その時, 残さない
方の主張は, 近代的なコンクリートの堤防があるから
不要と言うことだったと思う. 地形の高低, 地盤の
強弱, 地質など, 大域的な要素は生はんかな工事
では変えることができない. 土木工学でも,
地形を活かした町造りを考えていくべきだろう.
今回は凌いだところでも, 次に22メートルが来れば
同なるか分からんし, コンクリートが永久的に
持つわけでもない. 高々100年ほどのコンクリート
ベースの土木工学が万能ではないのではないか.
白なまず
例えば、オランダやフィンランドの水上住宅では水害が起きても家は失われない様な工夫が見受けられます。また、以前このブログで紹介があったと思いますが海上都市(清水建設)のGREEN FLOATが作れる技術があるのなら、津波被害があった都市をメガフロートで作ってしまえば、防波堤より良いと思います。また、ウォータフロントに立てる場合でも、海水が都市の下に流れ込み都市を浮上させても被害を少なくできる「津波、洪水に対する浮上避難設備」や「津波シェルター」なんて特許もすでに公開されています。
「津波、洪水に対する浮上避難設備」
http://patent.astamuse.com/ja/published/JP/No/2007177600
「津波シェルター」
http://patent.astamuse.com/ja/granted/JP/No/4084408
「GREEN FLOAT」
http://www.shimz.co.jp/theme/d