読みやすさと理解は相反するか

 
今日は雑文です。

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昨今は、電子書籍も大分普及してきた。アメリカのアマゾンドットコムでは、去年4月あたりから、ハードカバーよりも『Kindle』向け電子書籍の販売数の方が上回る結果を出してきている。

なんでも、4月から6月までの3ヶ月で見ると、ハードカバーの本100冊につきKindle電子書籍は143部とおよそ5割増の売り上げがあるという。

去年の1月末「電子書籍についての雑考」のエントリーで、2009年時点で、紙の本10冊に対して、Kindle電子書籍は6冊の売り上げがあると紹介していたから、わずか半年、1年で電子書籍の売り上げが倍以上伸びたことになる。

確かに、電子書籍は持ち運びに便利だし、紙の本のように長年経つと紙がボロボロになってしまったり、汚れたり、折れたりする心配もない。さらにはルーペなしで、活字を好きな大きさに拡大・縮小できてしまうから、電子書籍が普及するのも良くわかる。

このまま、本の電子化がどんどん進んで、画面もクリアになっていくと、文字認識や検索がどんどん楽になっていくだろうと思われる。

それどころか、今やkindleで漫画を読む、オープンソースの『Mangle』(MangaとKindleを合体させた言葉)さえ登場している。

だけど、この認識の"楽"さが、本にとっては、問題になるのではないかと考える人もいるようだ。つまり、「読みやすさ」と「内容の理解」は、両立しない場合があるのではないかということ。

元数学者で認知心理学・神経科学に転身した、パリの教育機関コレージュ・ド・フランスの神経科学者ドゥアンヌ・スタニスラス教授は、書かれた言葉を読む行為を、神経解剖学的な側面から研究し、読み書きできる人の脳は、言葉の意味を理解するのに2つの異なる経路を用いていると唱えている。

一般に、目の網膜から入った情報は、まず、後頭葉の第一視覚野と呼ばれる部分で止まっているか、動いているかといった情報やパターン認識などの初歩的な形状認識を行なうのだけれど、それらの情報は、その後、2つの異なる経路で処理される。

ひとつが、背側皮質視覚路と呼ばれる経路で、後頭葉の第一視覚野から頭頂葉へ向かう経路でで、もうひとつが、後頭葉から側頭葉の下方へ向かう経路で腹側皮質視覚路と呼ばれる。

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背側皮質視覚路では、後頭葉の第一視覚野で初期認識された視覚情報について、それらが、どのような空間配置を取り、どこへ行くか(Where回路)を認知し、腹側皮質視覚路では、捉えた視覚情報を自分の記憶と照らし合わせて、何を(what回路)視覚として認識したかといった情報処理を行なうとされる。

スタニスラス教授によると、読む行為の殆どは、腹側皮質視覚路と呼ばれる経路で言葉を理解するのだけれど、文章を読んでいるときに、意識的に注意を集中しなければならないようなときには、背側皮質視覚路を使うのだという。

つまり、腹側皮質視覚路は「定型化され、見慣れた」散文、すなわち、決まり文句が沢山あるような認識しやすい文章を読んだときに活性化する一方、読み書きに熟練した成人に対して、文字を回転させたり、間違った箇所に句読点を打った文章を読ませると、今度は、背側皮質視覚路が活性化するのだそうだ。

要するに、何がしかの情報に対して、自分の記憶からマッチする情報を検索して認知するお手軽回路(腹側皮質視覚路)と、一から物事を把握しなおす、新規構築回路(背側皮質視覚路)が、脳味噌の中にそれぞれ用意されているといえようか。

確かに、読み難い文章は、読むのに苦労した分、記憶に残ることあると思うし、逆に読みやすい文章は、読むことそのものに苦痛を伴わないために、あまり記憶に残らないというのも、経験則としては分かる。

たとえば「画面上では間違いが無いように見える文章も、実際にプリントアウトしてみると間違いを発見しやすい」とか、「『Kindle』のように読みやすい電子媒体で本を読むと眠ってしまう」とか言われると、そのとおり、とも思わないでもないけれど、これとて考えようによっては、随分贅沢な話ではないかと思う。

折角、苦労なく読めるように工夫して本にしてくれているのに、頭に入らないから文句をいうのもどうなのか。幾ら記憶に残るからといって、たとえば、ある内容を分かりやすく書いた、ものの10分で読める本と、難解な表現ばっかりで10時間かけないと理解できない本があったとして、どちらも同じ内容だったとしたら、やっぱり10分で読める本を選んだ方が効率はいいし、1回読んだだけでは記憶に残らないというのなら、10回読めば流石に少しは内容は頭に入るはず。それでも10時間掛かる難解な本よりずっと時間が短く済む。

情報が氾濫して、知らなければならないことが飛躍的に増大し、しかもその知識が直ぐ更新されて役に立たなくなってゆく現代にあって、読みやすく、分かりやすい本というものは、求められこそすれ、敬遠されることはないだろうと思う。

今や日本の本屋には、「漫画で分かる××」とか、「萌えで覚える○○」とか、もうビジュアルに訴え、なんとか読みやすく理解しやすくさせようと工夫した本が沢山ある。これなんか、もう、わかり易さを突き詰めた本ではないかと思う。

わかり易いことは別に悪いことでもなんでもない。理解しているかどうかは本人の問題なのだから。

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画像題名
読みやすさと理解は相反?:電子書籍への提言

電子媒体で文章を読むことが増えているが、「視覚的に明瞭で読みやすいこと」と「理解」は相反するかもしれない。研究を紹介。

書籍の未来はデジタルにあることを、筆者は確信している。一部の本は残るだろうが、多くは、遠からずFMラジオのような存在になるだろう。

筆者は本の虫で、イギリスから米国の飛行機に乗ったときは、9ポンド(4キログラム)の衣類と45ポンド(20キログラム)の書籍が50ポンド(23キログラム)の荷物制限にひっかかったので、Tシャツを捨てたこともある。しかし、電子書籍が将来、従来の本に取ってかわることは確信している。本を買うことも、読むことも、内容の一部を見ることも、非常に簡単になるからだ。

ただし、画面と文章が融合することには問題も感じる。それは、消費者向け技術が、常に一方向にのみ進化していくことから来る。つまり、技術は常に、われわれがコンテンツを認識しやすくしようとする。テレビは高解像度になり、モニターは明るくクリアになる。これは良いことなのだが、本に関しては問題ではないかと思うのだ。「認知[読みやすさ]」と「内容の理解」は、実は両立しない場合があるのではないか、と。

説明しよう。パリにある高等教育機関コレージュ・ド・フランスの神経科学者Stanislas Dehaene氏は、書かれた言葉を読むという行為を、神経解剖学的な側面から研究している。その研究によると、読み書きできる人の脳は、言葉の意味を理解するのに2つの異なる経路を用いているという。

1つは腹側皮質視覚路と呼ばれる経路で、ほとんどの読む行為の意味理解を担っており、直接的かつ効率的に理解するという経路だ。そのプロセスは、われわれが1つの文字列を見ると、それらの文字を1つの単語に変換し、単語の意味を直接理解する、というものだ。Dehaene氏によると、この腹側皮質視覚路は、「定型化され、見慣れた」散文を読んだときに働きが活発になり、視覚性単語形状領野(VWFA)という大脳皮質の一領域に依存しているという。

つまり、認識しやすい文章、決まり文句がたくさんある段落などを読むときには、われわれは腹側皮質視覚路という高速道路に依存している。結果として、読む努力が不要で、簡単になる。ページにある単語そのものについて考える必要はない。

しかし、読むときのルートはもうひとつある。つまり、背側皮質視覚路と呼ばれるルートは、読んでいる文章に意識的に注意を向けなければならないとき、たとえば単語の意味が曖昧だとか、従属節がわかりづらい、筆跡が読みにくいといった場合に、働きが活発になる。

Dehaene氏の実験結果では、読み書きに熟練した成人であっても、時として文章の意味を理解するのに意識的に注意を集中させなければならない時があることが明らかになった。実験では、文字を回転させたり、間違った箇所に句読点を打ったりと、様々な方法を使ってこの経路を活性化させた。

この「2つのルート」に関して思うことのひとつは、筆者の経験では、画面上では間違いが無いように見える文章も、実際にプリントアウトしてみると間違いを発見しやすいということだ。画面は常に見慣れているが、紙の上では、慣れていないことから少し緊張が与えられるため、読むことに意識化するのかもしれない。

もうひとつは、『Kindle』で読む経験だ。手に持って軽く、美しいフォントで読める楽しさがあるが、筆者の場合は非常に眠りに誘われやすく、睡眠に入るための習慣のひとつとなっている。Kindleでの「読みやすさ」が、眠りに入りやすさを説明するのかもしれない。

そこで電子書籍に希望することなのだが、読むことを「難しく」する機能が欲しいと思う。例えば、フォントをわざと変えたり、画面のコントラストを下げたり、白黒を反転させたりといった機能だ。

視覚的に読みづらくすれば、読むスピードは確実に遅くなるだろう。しかし、それこそが重要なのだ。そうすれば、われわれは腹側皮質視覚路への依存度を弱め、文章を無意識に読み飛ばしにくくなるだろう。

またそれ以上に懸念されるのは、技術の影響が拡大することだ。媒体というものは、どんなものであれ、やがて内容自体に影響を及ぼすようになる。遠くない将来、われわれが電子インクの無機質なまでの明瞭さ、表示機能を高め続けるスクリーンに慣れてしまい、そうした技術の便利さが文章の内容にまで影響して、人々が難解な文章を読みたがらなくなることを、筆者は懸念する。

われわれはやがて、背側皮質視覚路を働かせること、すなわち意識的に文章を読み解くことを忘れてしまうのではないだろうか。そうなったら悲劇だ。すべての文章が読みやすくあるべきではないのだから。

[日本語版:ガリレオ-高橋朋子/合原弘子]

URL:http://wired.jp/wv/2010/09/15/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%95%E3%81%A8%E7%90%86%E8%A7%A3%E3%81%AF%E7%9B%B8%E5%8F%8D%EF%BC%9F%EF%BC%9A%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%8F%90%E8%A8%80/

この記事へのコメント

  • ちび・むぎ・みみ・はな

    電子書籍の問題は検索だと思う.
    通常書籍の場合には色や厚み等, 感覚を用いて
    場所を特定したりするが, 電子書籍の場合には
    人間の感覚ではなく解析能力に過度に依存する
    ことになる. 読めれば良いとする欧米人と
    本のカバーにまで気を使う日本人とでは同じ
    様には考えられないだろう.

    解る量子力学? 漫画で読む電気回路?
    絵美チャンの電磁気学?

    残念ながら, この類を読んで利益になるのは
    知識を実際に使う必要の無い人だけだろう.
    酒を飲みながら量子力学の蘊蓄を語るなら
    役に立つだろう. しかし, 量子力学にしても
    電磁気学にしても, 現象の全ては絵では表せない.
    見えるのは結果であったり, 想像であったり.
    何故なら, 基本的な物理現象は言葉ではなく
    数理的な関係にあるのだから, 単純な式から
    多くの局面を空想できる訓練が本質.
    2015年08月10日 15:27
  • 美月

    日比野さま、お久し振りです。「本を読む」というのは、考えてみると不思議な行為ではありますね。難しい文章と分かりやすい文章というのも、個人差があるみたいですし…でも、筋が通っていれば、文章の難度は余り問題にならないかも…(笑)
    技術や成績などのブレークスルーは、多方面のジャンルで大量の経験や知識を身につけて、その蓄積が自分の中で体系化され、自由に引き出せるようになった段階で生じる…という説があります。蓋しブレークスルーとは、総じて「知識経験の再構築⇒レベル急上昇」のプロセスである…と申せましょうか?とにかく大量の本をこなす事が、大量の知識を身につける事に繋がるという事で。
    多方面において分かりやすい本が数多く出る事は、基礎知識のレベルを底上げすると言う点で、メリットの方が多いように思いました。入り口の段階では、とにかく「詰め込み量&演習量」が勝負ですし。

    ※ネット情報の海の泳ぎ方も、案外そうなのかも知れません…^^;
    2015年08月10日 15:27

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