「ブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。・・・日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。」ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク ブータン国王 於:11/17 衆院本会議場
国賓として、今月15日から来日していたブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王とジェツン・ペマ王妃(21)が20日、帰国の途につかれた。
国王夫妻は、宮中晩餐会などの歓迎式典に出席したほか、国賓として初めて東日本大震災の被災地、福島県相馬市を訪れ、犠牲者を悼み、京都を訪問された。
また、17日には国会で演説し、復興に取り組む日本国民をたたえ、日本の国際社会での取り組みを引き続き支援したいと話していたけれど、国王陛下の発言といい佇まいといい、まさに王と呼ぶにふさわしい気品に溢れたもので、イケメンの容姿との相まって、結構評判になっていた。
ブータンは中国(チベット自治区)とインドに挟まれた南西アジアにある東西約300km、南北約140kmのヒマラヤの小国。国土面積は4.65万平方kmで九州の1.1倍にあたる。
ブータンの地形は大きく3つに分かれ、北は7000m級のヒマラヤの山々、南はインドに接する海抜高度100mほどの亜熱帯地域、それに中央部の海抜1500mから2500mの地域に分かれている。
ブータンの国土の大部分は山地でかつ、深い森林に覆われ谷も深く平坦な土地も少ない。そのため交通も不便で、農耕用の平坦地は川沿いの土地か棚田位。2003年時点では農地は国土面積の2.7%、牧草地8.8%で、国民の80%以上は農民。
南のインドとの国境付近は亜熱帯の低地で密林に覆われ、蛭が生息しマラリヤ蚊もいる人の居住し難い地域で、南北に走る谷は深く、チベットへの交易路も馬や驢馬がやっと通行できる程度。インドへの道路も同じく馬を用いていたほどで、自動車道が開通したのは1960年代に入ってからのことだというから、まさに陸の孤島と呼ぶに相応しい秘境。
その交通路についても、谷が深いために主要河川に架かる橋も非常に少なく、すれ違いの出来る橋の建設には技術面・資金面などから、日本のODAが重点的に利用されている。現地の人々は,日本からの無償資金協力によるこれらの橋を「日本橋」と呼んで親しんでいる。
ブータンの人口は約67万人(2007年世銀資料)で、国民の3分の2がチベット系、3分の1はネパール系で、チベット系の人々は主にチベット仏教徒で、南部に居住しているネパール系、インド系の人々は主にヒンドゥー教徒。
ブータンが過去1度も植民地にならず長らく鎖国状態であったのも、国の政策はもとより、地理的にも天然の要害に守られていた側面も大きい。
ブータンの首都ティンプー(Thimphu)は海抜2300mの高地にあり、日本の長野県の気候に近いという。ティンプーは山が近く地形的に空港が造れないため、国際空港はティンプーから西へ約65km離れたパロ(Paro)に造られている。
ブータンは20の県(ゾンカック)によって構成されており、大部分の県の交通の要衝の高台には、ゾン(Dzong)と呼ばれる城塞がある。ゾンは巨大な建造物で、行政・司法などの地方の役所(県庁)と僧院の機能を果たしていて、河川の合流点の道路には、今日でも遮断機や検問所があるそうだ。
1907年にワンチュク王朝によって王制に移行したブータンは、近年急速に近代化を進めており、1960年代には、インドへの縦貫国道と1975年に国の中央を東西に走る東西横断道路が建設され、1999年には、テレビ放送が始まり、さらにインターネットや携帯電話サービスなどの通信網の整備も進んでいるという。
そんなブータンで、外国人でただ一人、国王から「ダショー」というブータン最高の位を授かった日本人がいる。
その人は、1964年から28年間にわたってブータンの農業指導をした「ダショー・ニシオカ」こと、西岡京治氏。
西岡氏は、1933年生まれ。海外技術協力事業団に所属して活動した日本人農業専門家で、植物学者。ブータンの農業の発展に大きく貢献しブータン農業の父といわれている。
西岡氏は1964年、ブータンに海外技術協力事業団のコロンボ計画の農業指導者として派遣され、夫人とともに赴任。まず野菜づくりの指導に取り組み、村人が目を見張るような収穫をあげ、日本式野菜栽培法はたちまちブータン全土に広まった。
次に、とり組んだ稲作でも収穫を飛躍的に伸ばし、5年間で700ヘクタールの水田を開発し、5万3千人の焼畑農民が水田耕作に切り替えた。氏の農園は、全国に種子、苗木を供給する他、農機具の製作から土木機械の貸し出し、修理工の訓練まで引き受け、ブータンの農業センターとなった。
西岡氏の農業指導は、その土地にふさわしい援助であり、現地の農民が自力でやれることを主眼とし、それこそが、真の国際協力であるとした。
こうして、西岡氏はブータンの農業と人々の暮らしを変え、ブータンの国造りに大きく頁献し、1980年、ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王から「国の恩人」として、民間人に贈られる最高の爵位である「ダショー」を授かった。
西岡氏は、1992年3月21日、敗血症に罹り、ブータンにて死去されたのだけれど、氏は、ブータン王室およびブータン政府によって国葬され、遺体は夫人の意向に従って、パロ盆地が見渡せる丘にある葬儀場に埋葬されている。
11月17日、来日したブータン国王陛下が国会での演説の中で、「日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。」と発言されていたけれど、それも、西岡氏の功績を踏まえた上でのものでもあるかと思うと感慨深いものがある。
ブータンとの友好関係。大切にしたい。

この記事へのコメント
ちび・むぎ・みみ・はな
アンチャンにしか見えなかったが, 日本との
繋がりの事実から貴重な兄弟国と知る.
台湾とブータンという親日国があるのも先人のお蔭だ.
日本の軍隊は日本の国土を守れれば良い.
その間に心ある日本人が世界を改変する.
流刑者
が… たとえ小国とはいえ一国の王族のお方。
「国王陛下」「~された」と書かれたほうがすっきりします…
ほう