

今日は諸般の事情により、過去エントリーの再掲です。m(__)m
1.目にみえる世界、目に見えない世界
信じるという行為の持つ意味と理性の関係について考えてみたい。
信じるという行為は、信仰でも代表されるように目に見えないものを信じること。もちろん目に見えないだけでなく、五感で検知できないものはその対象となる。抽象概念なんかもそう。
分かっていること、当たり前の常識には信じる行為は入り込む余地はないようにみえるけれど、常識というもの自体、実に限定された世界で成り立つもの。なぜかといえば、五感で捉えられる領域が存在全体に比べて非常に限られたものであるから。
いくら五感で検知できたといっても、それが真実の全てである保証があるわけじゃない。それはあくまでも五感で検知できる対象によって構成されている世界というだけ。
たとえば人間の目が可視光線の波長ではなくて、ラジオ波のように曲がったり反射したりする波長しか捉えられなかったとしたら、目の前にみえる対象がそこにはいなくて、全然別の方角にいたり、ずっと遠くだと思っていた建物が目の前にあったりするなんてことが起こり得る。
だから人はより世界を知ろうとすると、様々な計測器を開発しては五感で捉えられないものを五感の領域に変換して知覚する。赤外線望遠鏡を使ったり、電子顕微鏡を使ったりして。
だけど、そうやって次々と世界を知覚すればするほど、ますます世界の広さが見えてくるようになった。天動説の昔であれば、世界は地球が全てであったのが、地動説になって、地球が太陽のまわりを回る一惑星に過ぎなくなった。天体望遠鏡ができると、その太陽すら広大な銀河の中の一恒星にすぎないことがわかった。
極微の世界も同じ。分子・原子・原子核・クォークと、どんどん微細な世界が広がっていることがわかってきた。
2.仮説と信じる力
最先端の科学の世界はわからないことだらけ。だからそれらを解明するために科学者達は様々な仮説を立てては、それを証明するための実験と観測を繰り返す。
やがて、仮説を証明するような現象や事実が観測されて、その仮説から「仮」の文字が取り除かれる。さらに時が流れてその「説」が世の中に広く浸透して、多くの人がそれを受けいれるようになって漸くその仮説であったものは一般常識に移行する。
だけど、その科学者が証明した仮説のプロセスや観測結果などを一般の人は見ているわけじゃないし、その内容を必ずしも理解しているわけでもない。だから常識だとなっていることも実は多くの人がその説を受け入れて「信じている」から成立している。直接に体験できないような事象なんかは特にそう。プロパガンダが成功してしまう理由もここにある。
一般の多くの人が信じたもの、信じているものっていうのは要は結論部分。その説の前提から結論に至る理論的説明はすっ飛ばして結論だけを受け入れている。最先端学問の難しい話なんて聞いたって分からない。
これまでの通説が新事実の発見によって覆されることなんてよくあること。信じたものが本当に真実なのかどうかは、時の流れという篩に掛けられないと明らかにならないもの。だけど、逆に時の流れによって真実であったものが流されて、間違った説が流布することもある。
真実を多くの人が手にすることは意外と難しい。それは信じるという行為そのものをどのように捉えているかによって、結果が全然変わってくるから。
信じるということは、結論を受け入れるということ。だから証明されていない予想だとか仮説の段階の話であっても信じるという行為によって、その結論を自己の知識にすることができる。それは、時間と空間を捻じ曲げる力。
たとえば、今現在では、まったく明らかになっていない仮説があって、それが100年後に証明されると想定してみた場合、その仮説を信じない人にとっては、その仮説はただのトンデモ話。100年たって始めて既知になる事柄。
だけどその仮説を信じた人にとっては、それはもはや仮説ではなくて真実。100年後にようやく証明されることを、信じることによって、今現在の「既知の知識」にしている。信じることによって、100年後の未来人と同じ認識に立つことができる。
また、地球上ではどうやっても観測できないような、たとえばブラックホール内での現象の仮説があったとする。ブラックホールは一旦入ったら最後、光さえも出て来られない(とされている)から、その仮説を信じない人にとっては永遠の謎。
だけどその仮説を信じた人にとっては既知の知識。これは信じることによって空間を捻じ曲げて、ブラックホール内に飛び込んでその姿を見たことと同じ。
3.予想と証明
「きみの意見では、いくつかの楕円方程式はモジュラー形式に関連づけられるというんだね。」
「いえ、そうではありません。いくつかの楕円方程式ではなく、すべての楕円方程式です。」
フェルマーの最終定理を証明する際に重要な鍵となった谷村=志村予想を発表した志村五郎とある高名な数学者とのやりとり。
谷村=志村予想とは、1955年に発表された理論で、無限の対称性を持つモジュラー形式とそれまで全く別の領域だと考えられていた楕円方程式は、実は同じものであるのだという理論。
その証明は非常に困難だと思われたものの、予想自体はとても美しく、多くの数学者がそれは正しいと信じた。谷村=志村予想が発表されたあと、谷村=志村予想が正しいと仮定するとという言葉に続いて、これこれが成立するという膨大な論文が発表された。
谷村=志村予想が数学界に与えた影響は大きく、予想の段階から素粒子の研究や、暗号理論などに応用され、実際に貢献してきた。
信じたものが真実であった場合、信ずることによって捻じ曲げた時間と空間は大変な価値を生む。何十年、何百年の未来を先取りしたり、はるか無限の距離をも飛び越えることができるから。
万が一、谷村=志村予想が正しくなかったら、谷村=志村予想に依拠した膨大な研究はまったくの無駄になっていたのだけれど、一旦その予想が正しいと証明されたら、それを土台とした研究成果は、実効力を持つ素晴らしい成果となる。谷村=志村予想を信じた人は、予想が定理として証明されるまでの50年の時をジャンプして、2005年に生きる人として研究を行った。
信じた予想が真実であると証明されたとき、予想は定理となって、知識に転換する。それは「信」の世界にあった真実を「知」の世界へ引越しさせる姿。
だから、信じるということを単なる迷信であるとか、理性が働いていないとかいうのではなくて、その「信じたもの」が真実なのか、或いは、どこまで真実に近いかということが本当に大切なこと。
4.理性による検証
分からないことは、何がしかの仮説を立ててそれを証明する証拠を探していくことで明らかにする手法が科学の世界では良く使われるけれど、それとて、まず仮説そのものを信じることができなければ成り立たない。
一人の学者がいくら新しい仮説を立てたところで、周りが誰ひとり信じなければ、本人が証明できない限り仮説はそこで消える。谷村も志村も自分では谷村=志村予想を証明できなかった。
谷村=志村予想が証明されたのも、その予想が正しいと「信じた」数学者達がいたから。信じる行為がなければ、どんな仮説だっていつまでたっても証明されない。
もし人間が信じるという能力を一切持たなかったとしたら、おそらく人類はここまで進歩することはできなかった筈。
信じないということは、信じるという行為によって始めて認識できる抽象概念をも一切認めないということ。目に見えるもの、五感で検知できるものしか認めないという態度は物質しかない、いわゆる唯物論と同義。
それは100%物質に制約された世界。広大な「信」の世界のほんの一部に過ぎない金魚鉢のような「知覚できる物質」の世界に閉じ込められてしまうことを意味してる。
理性は前提と結論を繋ぐ論理を確認するために使われるもの。前提からスタートして論理ステップをひとつづつ踏んでいって、結論にたどり着くプロセス。それが正しく矛盾なく結びついているかを検証していくのが理性の力。
理性って物事を筋道立てて考える働きだから、その論理ステップはつまるところ因果関係・因果律に行き着く。
既存の知識や前提から出発して論理を繋いでいって、新しい発見に到達するのが演繹法だけど、仮説を信じて証拠を集める方法、いわゆる、あり得べき結論から論理を逆に辿って前提にまで戻るのが不明推測法。論理の方向は逆だけれど、因果律は不変。どちらにも理性の働きが介在してる。
もちろん、目に見えない、知覚できない世界にも因果律が成立するという大前提はあるのだけれど、これが成立しないということは、純粋に因果律だけで構成され、虚数だの、4次元だの知覚できない世界をも扱う数学の定理が成立しないことと同じ。無論数学は自己無矛盾の存在。
不明推測法による仮説の設定というのは、「信じる力」によって未来の世界や宇宙の果てから掴みとった結論に対して、その前提となる「知識」や「道筋」を想定してみるということ。
前提と結論を設定したならば、あとはそれらを結ぶ論理を理性によって検証して行けばいい。
だから、乱暴な言い方かもしれないけれど、理性は信じた結果を検証し、信じる力の確かさを証明するために存在している面があるともいえる。
5.ひらめきと感覚
「ハッキリいって、大山先生は盤面を見てない。読んでいないのだ。・・・脇でみていても読んでいないのがわかる。読んではいないが手がいいところにいく。自然に手が伸びている。それがもうピッタリといった感じだ。まさに名人芸そのものであった。」羽生善治
将棋界最強とも言われた大山康晴十五世名人を評した、羽生善治氏の言葉。
将棋の指し手を考えるプロセスは、信じた仮説に対して、理性で検証してゆくプロセスととても良く似ている。
棋士はただ漫然と指すべき手を全部読んでいるわけじゃない。そんなことをしていたら、あっという間に持ち時間が切れて負けてしまう。
羽生善治氏によると、実戦での差し手を考えるプロセスは、その場その場の局面で経験から考える必要のない大部分の手をまず捨てて、候補手を二つ三つに絞ることから始める。そして絞りこんだ候補手について、それぞれを読んでいくのだという。
この思考プロセスを、仮説と検証にあてはめると、候補手を絞り込むのが「仮説」で、手を読んでゆくのが「理性」による検証になるだろう。
だけど、候補手を絞り込んで、手を読んでいったとしても最後の詰みの局面まで読めるわけじゃない。たとえば、3つの手に対して、相手の手を読んだ結果それぞれに3つの手があるとしたら、実際は3手指すだけの局面で3×3=9通りを読まなければいけない。十手先・二十手先なんか読もうとしたら、何百通り、何千通りの手を読まなくちゃいけない。
だから、棋士はその場その場の局面で、限られた時間の中で、最善だと思う手を決断して指すことになる。それは、ある意味選択した手を”詰み”というゴールに繋がる手であると「信じる」行為に他ならない。
となると、どうやってその手が最善であると信じることができたのか、手を読む数には限界があるから、理性が届かない先にある「信」の世界の結論を選びとる精度の高さが「信じたもの」がどこまで真実なのか、真実に近いかを決める分かれ目になる。
大山十五世名人は、理性による検証なしに正解に近い手を選びとることができた。閃きと感覚の差だといってしまえばそれまでだけど、そのための土台となる要素がある。基礎力と経験がそれ。
6.基礎力と経験
物事を考え見極める基礎となる知識や思考能力は、信じる力を有効なものとするためには重要な力。
将棋の指し手を考える思考プロセスと同じように、基礎力があれば、信じる行為に移る前に、考える必要のないものをあらかじめ捨ててしまえる。
もちろん今までの常識に囚われるあまり、真実として将来証明される事柄を切り捨ててしまうこともあるのだけれど、だいたいにおいては切り捨ててしまってもたいして問題にはならない。
信じる対象である結論と前提を結ぶ論理に矛盾がないかを理性で検証するとき、理性が届く範囲でその論理に矛盾があれば、前提が正しい限りにおいて、その結論は誤りになる。それはずっと昔に、誰かが緻密に検証して、あり得ないと断定されていたりするもの。
基礎力がある人にとっては、既に検証されてしまったような道は、既知の知識として知っていること。だからあり得ない論理は瞬時に見抜けるし、最初から考える必要がないと分かる。
だから、信じる対象についてのある程度以上の基礎力がある人はそれだけで、信じる対象への論理の道を最初から絞りこめる。
絞り込んだ論理について、理性によって検証するとき、それらに関するまたはその論理に似た論理を検証した経験があると、論理検証の精度はうんとあがる。
以前体験した論理検証の結果を経験しているから、今検証している論理の流れを同じように類推することが容易になる。あの時はうまくいったから、今度も同じようにうまくいくんじゃないかとか、あの時とはこの部分だけ違っているようだから、この部分だけ集中して考えようといった具合に、検証中の論理の枝分かれの先がどうなっているか予測できるようになる。
7.真理の大海
分からないものがあるとか、信じるしかないものがあるというのは人類の限界を示しているようにも見えるけれど、分からないものであるとか、目に見えないけれどあるものというのは人間の好奇心・探究心を刺激する。
分からないものがあれば、なんとかして分かりたい、知りたいと思う気持ち。その心が人類を進歩させる。
もしも、この世もあの世も全てが分かったとしたら、人間はやることが無くなる。食べて、寝て、子孫を残して、といった種の保存という行為自体は行われるだろうけれど、知性・理性・悟性といった高度な精神活動の行き場はなくなる。
全てを説明する唯一絶対の理論が発見されて、分からないものは一切ないと分かった時点で人類の進歩は止まる。
これまでの歴史で人類が知り得たことというのは、世界全体の中のほんの一部に過ぎないのかもしれない。だけど、信ずるべき世界、目に見えない世界が目に見える世界より膨大であるのは、人類にとってありがたいこと。
いくらでも探求すべき世界がひろがっているということは、それだけ人類の進化の可能性を保障しているから。
様々な発見をした偉大な科学者達がその発見を称えられても、広大な真実のほんの一部を見つけたに過ぎないと語っているのも、おそらく五感を超えた世界の膨大さを知っていたが故。
真理の大海をたゆとう人類は、信じる翼で大空に飛立って目的地を定め、理性の櫂(オール)で漕ぎ渡ってゆくことでそこに到達する。人類の発見や進歩はそうやって行われてきた。
信じる翼と理性の櫂。どちらも大切な力。
『私は砂浜を散歩する子供のようなものである。 私は時々美しい石ころや貝殻を見つけて喜んでいるけれど、真理の大海は私の前に未だ探検されることなく広がっている』アイザック・ニュートン

この記事へのコメント
ちび・むぎ・みみ・はな
「超常現象の科学: なぜ人は幽霊がみえるのか」
を読むと, 五感でさえも本当か分からない.
要は, 全ては処理能力に限界のある頭脳が
自らの生存のために再構成したものに過ぎない.
自らの正当化のために人は多くの物を作り出し,
有用と「認められた」ものは受け継がれる.
それが本当でも嘘でもだ.
それ等を作り出す大元は何か, それは頭脳が
「かくあるべし」と希望するものだろう.
厄介なことに, 組織は自らの保存のために
嘘も有用と認め, 組織の人間はそれを信じようと
することがある.
現在の秋期卒業騒動を見るにつけ, 大学という
組織も同じだと思う. ならば, そこを出たエリートも.