今日は都合により、過去記事の再掲(一部修正)です。すみません。
1.国民総生産と国民総幸福量
「自分で経験して知っている幸福、そうした幸福だけが、地に足の着いた本当の幸福でありましょうが、それには2種類あります。積極的幸福と消極的幸福です。」P・G・ハマトン
内閣府は、平成22年6月に閣議決定された「新成長戦略」に基づいて、2020年までに「幸福感を引き上げる」目標の元、経済学や社会学などの有識者らで構成する「幸福度に関する研究会」を設置し、これまで6回の会合が行われている。
これは、豊かさの代表的指標である国内総生産(GDP)だけではなくて、多様な統計から満足度、幸福感を抽出して政策立案に生かす試みで、研究会では、経済社会状況、心身の健康 、関係性の3つを柱として幸福感を指標化しようとしている。
幸福感を数量化する試みの中で有名なのがブータンで行われている「国民総幸福量(GNH)」。これは、ブータン政府が政策を実施した成果を判断するための基準として用いられていて、ある意味、GDPに似た用途として使われている。
ブータンでは、国民総幸福量を計るために、2年ごとに、1人あたり5時間もの面談を行って、72項目の回答を集め、数値化を行っている。
ブータンで実施している国民総幸福量の調査は、次の9つの構成要素から成る。
1.心理的幸福
2.健康
3.教育
4.文化
5.環境
6.コミュニティー
7.良い統治
8.生活水準
9.自分の時間の使い方
この中で個人の主観に依存する要素が大きく、数値化しにくいものとして、心理的幸福があるのだけれど、これに対しては、寛容や満足といったポジティブな感情と、怒りや不満といったネガティブな感情がそれぞれどのくらいの頻度で思い浮かべたかを調査するという。
今回、日本政府が試みようとしている「幸福感」の計測については、外国や国際機関での取り組みを地調査した上で、日本特有の家族観を考慮して測定方法を開発するとしているから、当然このブータンの取り組みも参考にするものと思われる。
ただ、ブータンと日本とでは、国情も人口もGNPの規模も異なるから、全く同じ指標を当てはめていいかどうかは分からない。
幸福というものをどう定義づけるかについては、色々な見方があると思うけれど、思想家のハマトンによれば、幸福には、積極的幸福と消極的幸福の2つの種類があるという。
積極的幸福とは、何かをしたり、愉しんでいたりするときに感じる幸福で、特に自分の気質に一番合ったことを行うときに味わう幸福のことで、消極的幸福とは、自分が厄介な面倒事に巻き込まれていない時に感じる幸福感だとハマトンは定義している。
この幸福の2つの種類について、前者は、何かを行うことで、新しい体験を得たり、好きなことに没頭したりできるという幸福感、すなわち、新たな自己体験や自己認識の拡大などの、成長する喜びといった、行動を伴うことで感じる幸福感(動的幸福感)であり、後者は、心に背負った重荷を降ろせたり、迷いから解放された状態、即ち、「苦しみ」から解放されることによって感じる幸福感(静的幸福感)であるとも言える。
この2種類の幸福感を国家が国民に提供しようとすると、具体的にどうすればよいか。
まず、積極的幸福(動的幸福)については、何らかの行動を伴うことで得られる幸福感だから、行動することで得られる何かを提供できなくてはいけない。それは、たとえば、レジャーであったり、スポーツであったり、文化芸術であったり、国民ひとりひとりの趣向や好みに合った、様々なものがあればあるほど、多くの人にニーズに応えることが可能になる。必然的に経済・文化などが充分発展している国がそれらを提供しやすいということになる。
それに対して、消極的幸福(静的幸福)は、苦しみから解放された状態を作りださなければならないから、それを国家が提供できるとするならば、それは、主にインフラ整備や社会保障といった制度となって反映されるだろうと思われる。
仏教では、「苦」の種類として次の8つの苦を挙げている。所謂、四苦八苦のこと。
生
老
病
死
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離する苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとっく) - 求める物が得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - あらゆる精神的な苦しみ
これら四苦八苦を国家が軽減しようと思えば、一番簡単なのは、社会保障を充実させ、さらに国民を豊かにすることで相当程度軽減できる。
たとえば、日本の国民皆保険制度などは、国民の殆どが、比較的安価に医療を受けることを可能にしているけれど、これなどは正に「病」の苦しみを軽減しているといえる。
また、経済的に国民が豊かで、モノに溢れていれば、欲しいものは割と簡単に手に入るから「求不得苦」も少ないだろうし、また職業選択の自由や雇用が確保されていれば、自分に合わない仕事だからという理由で転職することもできるから、これだってある意味、「怨憎会苦」を軽減している姿と言えるかもしれない。
だから、消極的幸福(静的幸福)を国家として実現するためには、まずは経済的繁栄と物質的豊かさがないと実現することは難しい。
その意味において、物質的豊かさを計る指標でもあるGDPは、国家として、どこまで、消極的幸福(静的幸福)を実現しているかを見る目安でもあるとも言える。
2.幸福度は国家の発展に連動する
「幸福という言葉は、広い意味を持つことを考慮する必要があります。自分の人生を全体として見たとき、うまく行っていると評価できるという意味での『幸福』がある一方で、今この瞬間の心理状態はどうか、日々の生活で心の満足を得られているかという意味での『幸福』も存在します。」プリンストン大学 アンガス・ディートン教授
プリンストン大学のダニエル・カーネマン教授と、アンガス・ディートン教授は、「心の幸福感」は、年収7万5000ドル(約630万円) あたりまでは、収入に比例して増大するのに対して、7万5000ドルを超えると幸福度は上がらなくなるという研究結果を発表している。
これは、アメリカ世論調査企業ギャラップが2008~09年に実施した米国民の財産と福祉に関する調査の回答45万人分を分析して、世帯収入や調査前日の感情の状態、人生や生活に対する自己評価を調査した結果から得られたもの。
ここで注目すべきなのは、「いまこの瞬間の幸福感」と「自分の人生全体を幸福と思うかどうか」という幸福観に関する2つの側面を切り離して分析したという点。
この「いまこの瞬間の幸福感」と「自分の人生全体を幸福と思うかどうか」を積極的幸福(動的幸福)と消極的幸福(静的幸福)の観点でみると、どうなるか。
「いまこの瞬間の幸福感」というのは、文字通り”瞬間”であるから、何かの動きを伴っている訳じゃない。任意の時間を切り取って、取り出した時でも幸福を感じるということは、そのままでも幸福であるということだから、これは、消極的幸福(静的幸福)に近いと見ていいだろう。
それに対して、「自分の人生全体を幸福と思うかどうか」というのは、ある程度の時間を遡って見たときに、確かに幸福であると感じるに足る実績なり、足跡を必要とする。だから、これは、言葉を変えれば成長の喜びであり、自己の拡大を意味するもの。従って、どちらかと言えば、積極的幸福(動的幸福)に近いと思われる。
今回のプリンストン大学の研究結果では、年収7万5000ドル(約630万円) までは、幸福感は増大し、それ以上になると、幸福度は上がらなくなるとしているけれど、これはあくまでも、「日々感じる生活に対する満足感や幸福感」の話であって、自分の人生全体を自己評価したときには、年収がより多いほど「人生に満足している」との結果が得られたという。
これは即ち、苦しみから解放されるという意味での消極的幸福(静的幸福)は、年収7万5000ドルで頭打ちになるのに対して、自己拡大を伴う積極的幸福(動的幸福)は年収が多いほどより強く感じるということを示している。
年収7万5000ドルというのがどの程度の収入なのかと言えば、アメリカの2008年の年収平均が7万1500ドルで、中央値が5万2000ドルであることと、俗に「貧困層」と呼ばれる層の年収は、中央値の半分未満とされることを考え合わせると、年収7万5000ドルというのは、まぁ、普段の生活に困らない程度の収入だと見てよいと思われる。
この生活に困らない程度の収入があるというのは、勿論、病気になったら医者にかかれて、三度の食事が出来て、寝るところにも困らないということを意味するから、普段の生活にまつわる苦しみから、ある程度解放されている状態と見ても差し支えない。
つまり、年収7万5000ドルは、消極的幸福(静的幸福)を達成するための、一種のボーダーラインでもあるということ。
その意味からいえば、年収7万5000ドルを超えると「日々感じる生活に対する満足感や幸福感」が上がらないというのは、当然の話であるとも言える。
国家の経済的発展や、文化的成熟と国民の幸福感は密接に関係している。
国家が貧しい段階においては、国は国民が普段の生活に困らないような政策、即ち、社会保障制度やインフラを整備することで、消極的幸福(静的幸福)を提供することが中心になるけれど、各種産業の発達と共に文化・芸術が成熟して、国が豊かになってくると、今度は積極的幸福(動的幸福)を国民の多くに提供できるようになるということ。
つまり、個人の幸福度は国家の発展に連動するという観点は外しちゃいけない。
その観点から日本を見渡してみると、各種インフラや社会保障制度の充実ぶりを見る限り、消極的幸福(静的幸福)は充分に達成されていて、更に積極的幸福(動的幸福)を各々が求め得る状態にある。
要するに、「苦」から離れることが「最小不幸」と呼ぶのなら、どこかの元首相様が唱えていた「最小不幸社会」なんか、日本はとうに達成している。
もしも、今の日本で暮らしていて、消極的幸福(静的幸福)を感じることが少ないとするならば、それは、インフラや社会保障の不備によるものではなくて、もっと心の内面、たとえば、仕事のストレスであったり、個人的な悩みごとがあったり、という具合に心が乱れることによって、消極的幸福(静的幸福)が失われている状態ではないかと思う。
だけど、これは、国家がどうこうというよりは、悩みの相談に乗ってくれる家族や友人、あるいは智慧や教養、又は、宗教的な安らぎによって解決を図る問題ではないかと思われる。
ともあれ、今の日本をトータルで見る限り、国民に消極的幸福(静的幸福)は充分提供できていることは間違いなく、ただ、昨今の不況で、皆あまりお金を使わなくなって、積極的幸福(動的幸福)への志向を、我慢している状態であると見る。
2012年7月26日、参院社会保障と税の一体改革に関する特別委員会で、安住財務相は「2-5改正では所得課税、資産課税では、富裕層の方にぜひご負担をお願いするような税制をまとめてまいりたい」と、資産に対する課税に前向きな発言をしているけれど、この"富裕税"なるものなんか、苦から遠く離れた、富裕層から税金という形で富を吸収・再分配して富の平均化をしようしている。つまり、社会保障という名の消極的幸福の確保にその主眼が置かれている。
日本国民の幸福感を上げようと思ったら、やるべきことは決まっている。インフラや社会保障制度の不備を改善・整備することで、消極的幸福(静的幸福)を担保して、更に経済発展をすることで、国民みんながそれぞれ自分の積極的幸福(動的幸福)を志向できるようにすればいい。
だけど、政府の考えは消極的幸福の確保ばかりで、しかもそれを税負担を重くすることで実現しようとしている。だけど、その消極的幸福とて、その大前提である、経済的繁栄と物質的豊かさが失われてしまったら、それさえも実現困難になる。
もしも、政府が、「格差がなくなったから幸福なんだ」とか、「経済発展なんかしなくても幸福なんだ」とか、安易に宣伝するとしたら、それは単なる誤魔化しであり、すり替えの論理になっている可能性があることは注意しなくちゃいけない。
「幸福度に関する研究会」の議論とて、単に幸福度を指標化(数値化)しましょうというだけのことで、その中身は、国民総幸福量をどうやって計測するかの議論と大差ない。
政府は、経済発展できないことの言い訳に「国民総幸福量」を使うべきではない。
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この記事へのコメント
ちび・むぎ・みみ・はな
国民の幸せを考えてくれるという確信
によって生まれるものだ.
イデオロギーしかない嘘付政府では
国民は幸せになれないのは明らかだ.
自民党も無用なイデオロギーを捨て,
皇室と共に国民に相対すれば支持率は
幾らでも上がるだろうに.