
今日は、昨日のエントリー「メディアの利用実態とネットの可能性について」のコメント欄にて、opera様からいただいたコメントについて、私自身、もう少し書いておきたかったテーマでもありましたので、お返事をかねてエントリーされていただきます。
まず、くだんのコメントを次に引用します。
ネットの可能性や影響力を考える場合に、本来は異なる次元の問題が一緒に扱われているような気がします。opera様はこのコメントで大きく分けて2つの問題を御指摘しておられるように思います。それは何かというと、ネット情報の伝搬性・拡散性の問題と情報発信手段および信頼性の問題ですね。
一つは、情報の伝搬性や拡散性という側面で、これは国民のライフスタイルが相当に変化しない限り、当分は従来のマスコミの優勢が続くだろうと思います。
次に、第一次情報の発信手段の確保、あるいは情報の信頼性の保持という側面ですが、これは(国民には周知されていませんが)現時点でもネットの方が圧倒的に優勢だと言っていいのではないでしょうか。
安倍総裁の最近の動きは、本来の情報発信者である政治家が公式情報を発信するメディア(媒体)としてネットを選択するようになったと考えることもできます。
こうした動きは、自民党を中心に麻生政権時代からあったことで、当時は官公庁を巻き込んだもの(総理府・外務省がとくに積極的)でした。その後、谷垣前総裁時代の自民党HPで試行錯誤が繰り返され、今回の自民党の政策に対するマスコミのつまみ食い的ネガティブ報道に対しても、政策集のオリジナル全文が自民党のHPで誰でも読むことができる形で公表されていることが、一定の制約になっているのではないでしょうか。
個人的にはtwitterやfacebookは利用しておらず、その情報の拡散性についてはよく分かりませんが、公的な一次情報の発信手段としてのネット利用については、今後さらに広まり、対マスコミでも決定的な役割を果たすのではないかと期待しています。2012/11/26 16:48 opera様のコメントより引用
これらについて述べてみたいと思います。
1.情報も利益を生む
まず、発信手段の確保についてですが、これはopera様の指摘どおり、ネットが圧倒的に優勢であることは間違いないでしょう。なにせ回線とPC或いは携帯さえあれば、誰でも、何処でも情報が発信できるようになったのです。
ネットの無い昔であれば、自分の意見を世の中に発信したくても、新聞や雑誌の投書欄に投稿するのがせいぜいだったのですから、まるで違っています。
ネットの出現によって、市井の人々が自分の意見を公に、そして手軽に発表できるようになった。この意味において、ネットは"情報の民主化"を推し進めたといっていいかと思います。一部のマスコミが情報を独占できなくなった。「情報貴族」が消滅しつつあるのですね。"情報"も利権の一種とみるならば、これは「既得権益」の崩壊でもあるわけです。
さて、その情報が"利権"であるためには、その情報が何らかの利益をもたらさなければなりません。利益を生み出すところの情報を特定の誰かが独占することによって、はじめてそれが「利権」になるわけです。
では、利益を生み出す情報とは一体何か。
それは平たくいえば、「人に先んずることができる」ということです。その他大勢が知らない内に、その情報によって何かを得たり、囲い込んだり、また危機を回避したりすることができます。端的な例でいえば、あまりいい例ではありませんけれども、インサイダー取引などはそれに当たるでしょうし、或いは、不動産取引などで、お得意様に未公開物件を紹介するなんてのもそうかもしれません。
けれども、その情報が利益を生む為には、まず人に先んじて行動しなければならないという前提があります。つまり"先行投資"が必要になるということですね。
そうした場合、やはり、その情報の確度、すなわち信頼性が重要になってくるわけです。
先程も述べたように、ある情報が利益を生むためには、人に先んじて先行投資をする必要があります。ですから、先行投資する人は、ある意味、その情報を信じて「賭け」をしているわけです。もちろん、他の情報源にもあたって、十分検討した上で決断するのでしょうけれども、まだ表に知られていない段階で動くわけですから、客観的には投資行動になります。
その時、その情報が正しければ正しいほど、それに対する投資行動もぴたりと合致するわけで、投資効果は最大となります。あたかもルーレットで、"一点賭け"してズバリ当てるようなものですね。
一方、その情報が正しくない"ガセ"情報だったりした場合は、逆に損失を被ることになります。
2.情報の伝搬に潜む罠
何某かの情報について、それが間違ったものになる理由として大きく2つあります。ひとつは一次情報(ソース)から間違っている場合、もうひとつは情報を伝達する途中で欠落したり変容したりする場合です。
前者についていえば、ソースから間違ってしまっていたら、もうどうしようもありません。途中でそれを修正したりすることが去れない限り、その情報を信じて行動すると、かなりの確率で失敗することになります。無論、その場合、情報元の信頼度はその分落ちることになります。
次に後者についてですけれども、これは、ある情報ソースから出た情報が人を介して伝達されるうちに、まったく別の内容に変質してしまうケースです。これは、情報の伝搬性の問題でもあるのですね。
一番分かり易い例でいえば、伝言ゲームなんかがそうでしょう。伝言ゲームでは何人かの人を介して、文章を伝えていきますけれども、最初にいった人の文と最後に聞いた人の文が全然違っていたりするなどよくありますよね。
これは、聞いた人が、次の人に伝える際に、文章の細かい部分などが少しづつ変わったり、抜け落ちたりする、いわゆる"エラー"がどんどん積み重なって、最終的にまったく違った文章になってしまうケースです。
けれども、それ以前に、この伝言ゲーム方式による情報の伝達には、注意すべき重要な点があります。それは、情報を中継する役目を負う途中にいる人は、受け取った情報をそのまま次の人に伝えなければならない、という決まり事を守らなければならないということです。
もしも、途中の人が、聞いた文章とまったく違った別の文章を伝えてしまったら、そこから先は100%間違った情報が伝達されてしまいます。そんなことを許してしまったら、ゲームそのものが成立しなくなりますよね。
けれども、最大の問題は、その間違った情報を伝達された人は、最後の答え合わせの瞬間まで、間違って伝えられていたことを認識できないということです。伝言を最後に聞く人は、ゲーム終了まで伝言を捻じ曲げた人に騙されたことに気づくことすらできないのです。
この伝言ゲームの構造は、実は、マスコミと視聴者との関係にも当てはまります。
仮に、現場、或いは、一次情報ソースを"伝言ゲームの最初の人"に、視聴者を"伝言ゲームの最後の人"に見立てたとすると、マスコミは丁度、伝言を伝える途中の人になります。このとき、途中の人(マスコミ)が伝言を全部つたえなかったり、一部だけしか伝えなかったりしたら、伝言は最後の人(視聴者)にまで正確には伝わらなくなります。
けれども、最後の人は、それが"正しくない情報"であると決して気づくことができません。なぜなら、伝言ゲームとは違って「答え合わせ」をする機会がないからです。
普通、市井の人は目の前で事件に遭遇でもしない限り、現場情報に接することはまずありません。遠くのどこかで起こったことは、マスコミを介した「加工済み」の報道でしか知ることはできません。けれども、視聴者はそれが、途中でどのように加工されたのかを知ることはできないのです。ここに罠があります。
マスコミのニュースなどで、国会で何々大臣がこう発言した、誰々首相はこう答弁したなどと報道しますけれども、あれなども、どこか一部を切り取った情報に過ぎません。最初から最後まで全部ノーカットで流せない場合は、どこかを切り取るしかないのですけれども、それが「伝言」全部のうち、どの部分を切り取ったのかについては、最後の人(視聴者)には窺い知ることはできないのです。
ですから、もしも、途中の人になんらかの意図があった場合、それに基づいて恣意的に伝言を歪めて伝えることができてしまいます。これが所謂「情報操作」にあたります。無論、この情報操作のなかには、情報を全く伝えない「報道しない自由」も含まれます。
ここで、この"最後の人が情報の歪みに気付けない問題"を解決するものとして登場したのがネットなんですね。
3.ネットの拡散性
先程述べたように、ネットによって、多くの人が手軽に自分の意見を世の中に表明できるようになった。つまり、伝言ゲームの"最初の人"と"最後の人"が直接、糸電話で話せるようになったわけです。
これによって何が起こったかというと、「答え合わせ」ができるようになったのですね。ネット動画などで、国会中継や記者会見のノーカット版がアップされ、ツイッターやFBなどで発言者本人とアクセスできるようになったお蔭で、最初の人の伝言は何だったのかということを最後の人も確認できるようになった。これによって、途中の人がズルをしていたり、ちゃんと伝言していなかったことが明らかになったわけです。
今のところ、まだまだ自分で「答え合わせ」までする奇特な人の数は多くはありませんけれども、「答え合わせ」ができる環境ができたのは大きなことで、これまで気づくことすらできなかった、情報の歪みや損失を、その気になりさえすれば"最後の人"が知ることができるようになったのです。この意味は決して軽いものではありません。
では、その"奇特な人"をどうやって増やしていけばいいのか。
一つは、「動機づけ」になるかと思います。つまり、「答え合わせ」をしなければ損をする場合がある、もしくは、間違った伝言を信じ込まされていると伝えて、本人に納得させることでしょう。知らぬ間に損をさせられていた、という自覚は、「答え合わせ」をするための動機づけの一つになると思います。
あと、もうひとつ考えられることは"奇特な人"にならなくても「答え合わせ」できるようにする、という方法があるかと思います。つまり右耳にはこれまでどおりの伝言ゲーム方式の伝達をする一方で、左耳に一次ソースからの直通糸電話を当てがって、動機づけしなくても「答え合わせ」ができてしまう環境をつくるということです。
どういうことかというと、テレビのようにただ見ているだけで情報が入ってくる「受動的」な情報提供をネット上で構築するということです。テレビが情報伝達において大きな力を持っている理由のひとつとして、意識しなくても向こうから勝手に情報がやってくるという「お手軽さ」にあります。見ているだけで、勝手に伝言ゲームしてくれる。知らず知らずのうちにその伝言を聞いている。そうした現実があります。
つまり、これに似た受動的な環境をネットに構築することができれば、テレビに近い影響力を持つ可能性があるのですね。ではそんなものがネットにあるのかといえば、おそらくツイッターがそれに最も近いと思います。
ツイッターは自分で呟くことができる反面、フォローした人の呟きがタイムライン上に"垂れ流し"状態で入ってきます。フォローボタンをクリックするだけで実現可能ですから、お手軽さという意味ではテレビのリモコンでチャンネルを合わせるくらいのお手軽さに匹敵します。
ですから、例えば、ツイッターで、「答え合わせ」に相当する一次情報ソースを延々と流すタイムラインがあったとすれば、そこをフォローするだけで、次々と答えあわせ先の情報がやってくることになります。これは自分でいちいちグーグルなどで調べるという手間もなく、「受動的」な情報提供環境といっていいように思います。
更に、ツイッターの利用者数の多さ、リツイートによる拡散スピード等など、部分的には既存マスコミを上回っている部分すらあります。ですから、今後、ツイッターを利用した「答え合わせ」環境の充実が進めば進むほど、情報の歪みが正され、気づく人が増えていくのではないかと思います。
4.ソースの問題
最後に、もういちど元に戻って、誤った情報が伝達される問題のひとつであるソースから間違っている場合について考えてみたいと思います。
これまで述べて来たように、将来的に、情報伝達中の歪みを無くす、或るいは正すことが出来るようになったとしても、ソースから間違っている場合にはどうしようもありません。
このソースから間違っている場合にはどう対処すればいいのか。つまりソースの信頼性をどう見極めるのか、という問題ですね。
これまで述べてきたように、信頼性の高い情報とは、すなわち、正しい情報ということになるのですけれども、なぜ、「正しく」なければならないのかというと、結局、責任が取れなくなるからなのですね。
正しい情報には当然、ウソがあるわけではありませんから、その情報を生かすも殺すもその情報を受け取った人次第ということになります。畢竟、たとえその情報によって損失を被ったとしても、その責任はリスクを負って行動したその人にあります。
逆に情報が正しくなかった場合は、それによる損失の程度にもよりますけれども、間違った情報を流した側の責任を問われることもあります。よく週刊誌などがガセネタを流して相手側から訴えられて敗訴するケースがありますけれども、あれなども間違った情報の責任を問われたケースに当たります。
この情報に伴う責任という観点から考えると、情報ソース側の社会的影響力が大きくなれば大きくなる程、情報の公開には慎重にならざるを得ません。
よく、会社の公式見解であるとか、官公庁のHPに記載される情報があたり障りのないつまらないものになりがちであるのも、情報に伴う責任を考慮すればこそです。ですから、逆にいえば、社会的影響力の大きいところの公式見解などは、一般的に情報の信頼性が高いともいえ、社会的責任の重さゆえに正しい情報が多いだろうと推測することができます。
では、社会的影響力がそれほどでもない情報、例えば中小サイトや個人ブログなどの信頼性をどうやって判定するのかとなると、これは過去の実績または多くの人の目による判定の集積を見ていくしかないように思います。
過去の実績をみれば、そのサイトの情報がどれだけ正しかったかは大体わかりますし、多くの人々から、これはよいと噂されるサイトはやはり一定以上の信頼度はあるように思います。これなどは、そのまんま口コミですし、グーグルのペイジランクの付け方もこの方式ですね。
この、社会的影響力が小さいところのネット情報については、おそらくは、情報の民主化による口コミによる自然淘汰によって選別されていくのではないかと思います。
この記事へのコメント
白なまず
ネットを使えない団塊の世代の人の洗脳を覚ますには、
テレビのチャンネルにニコニコ動画等のネットとリンクした放送が出来れば、変わる可能性はあると思います。
でも、問題は、、、
TVのリモコンボタンで一発でネット放送に繋がるTVは既に存在するかもしれませんが、
ネット使えない人は、リモコンもちゃんと使えないでしょうから。
やはり、ニコニコ動画がチャンネルを確保して、正しい、面白、速い情報を普通に流せば、
まともな知性があれば、直ぐに洗脳から覚めると思います。
opera
個人的に漠然とイメージしていたのは、政治を中心とした公的言論空間だけであり、それが質的に変化する可能性についてでした。
もともと18・19世紀的な「表現の自由」は、演説や講演で聴衆と対峙する双方向的なもの、あるいは出版を通じて公に意見を発表することを前提としていたと言われ、情報の媒介者は存在していませんでした。しかし、20世紀に新聞・ラジオ・テレビといったマスメディアが発達して強大な影響力を持ち、情報空間が極端に変質したのは周知の通りです。いわゆる「国民の知る権利」とは、もともとは独占的な権限を持つようになったマスメディアに対抗するために考え出されたものです。たとえば取材・報道の自由は、無条件に表現の自由に含まれるわけではなく、国民の知る権利に資する限りにおいて認められるということは、最高裁も明言しているところです。
ところが、現代日本のマスコミ関係者にはこうした自覚が無く、出鱈目な行為を繰り返