今日は死ぬのにもってこいの日だ

 
今日は、この話題です。但し後半はオカルト風味になっています。(笑)

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1.麻生副総理の終末医療発言

麻生副総理の高齢者の終末医療に関する発言が問題となっている。

これは、1月21日に行われた社会保障制度改革国民会議で、麻生副総理が、余命わずかな高齢者など終末期医療について、「残存生命期間が何カ月かと、それにかける金が月に一千何百万円だという現実を、厚労省も一番よく知っているはずだ」と、財政負担が重い現状を指摘した上で、次のように述べた。

「私は遺書を書いて『そういうこと(延命治療)はしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから』と渡してある。そういうことができないと、なかなか死ねない。…いいかげん死にてえなと思っても、とにかく生きられますから。しかもその金は政府のお金でやってもらってるなんて思うと、ますます目覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないと、これ一つの話だけじゃなくて総合的なことを考えないと、この種の話は解決することはないんだと…」

これは、いわゆる延命治療についての問題提起であり、ひとつの例えとして、麻生副総理が自分自身の例を挙げ、本人が自然に死にたいと思っていても、勝手に延命処置されてしまう現状について、総合的に考えるべきではないか、という趣旨の発言であると思われる。

メディアはこの発言を問題視して、「不適当発言」と叩き、麻生副総理は同日午後に「公の場で発言したことは、適当でない面もあった。当該部分は撤回する」とコメントしたのだけれど、実際、マスコミ各社が、この"不適当発言"をどのように報道したかについて、いくつか拾ってみると次のとおり。
麻生氏「さっさと死ねるように」 終末医療で発言、その後撤回 【共同通信】
麻生太郎副総理は21日午前の社会保障制度改革国民会議で、高齢者などの終末期医療に関し「いいかげん死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃかなわない。しかも政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と述べた。
 発言について、麻生氏は午後「公の場で発言したことは適当でない面もあったと考える。当該部分については撤回する」とのコメントを発表。「一般論ではなく、個人的なことを言った。終末医療のあるべき姿について意見したのではない」と記者団に釈明した。

延命治療「死にません、なかなか」=麻生副総理が発言、すぐに撤回 【時事通信】
 麻生太郎副総理兼財務相は21日、首相官邸で開かれた社会保障制度改革国民会議で、終末期医療に関連し「チューブの人間だって、私は遺書を書いて『そういう必要はない。さっさと死ぬから』と手渡しているが、そういうことができないと死にませんもんね、なかなか」と述べた。延命治療の否定とも受け取られかねない発言で、麻生氏はこの後コメントを発表し、「適当でない面もあった」と撤回した。
 麻生氏は、同会議のメンバーである有識者が年金や医療に関する考えを述べた後、発言したもので「いいかげんに死にたいと思っても生きられる。しかも、政府のお金で(終末期医療を)やってもらうのは、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしないと」とも語った。
 発言を受け、菅義偉官房長官は麻生氏から電話で真意を確認。記者会見で「個人の人生観を述べたということだ」と述べ、問題ないとの認識を示した。 
 これに対し、与野党からは問題視する声が上がった。自民党幹部は「まずい。TPO(時、場所、場合)というものがある」と苦言を呈し、公明党幹部は「不用意な発言だ。慎まなければならない」と指摘した。民主党の細野豪志幹事長は記者会見で「社会保障について本当に温かいまなざしで国民を見ているのか」と批判し、生活の党の森裕子代表も会見で「到底許されない」と断じた。(2013/01/21-19:49)

麻生副総理「さっさと死ねるように」 高齢者高額医療で発言 【産経新聞】
麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。また、「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。
と、これらの報道の見出しは「さっさと死ねるように」とか「死にません、なかなか」となっていて、これだけだと、誰が誰に対しての発言なのか分からないのだけれど、共同通信や産経新聞の記事は中身を読んでも、誰に対してのものなのか分からない。

麻生副総理は、「私の個人的なことを申し上げた。別に終末医療のあるべき姿について意見を申し上げたものではない」と釈明し、菅官房長官も記者会見で「誤解されるということで、その発言を撤回した」と述べているけれど、報道した側の記事だって、主語がなく、誰が誰に対しての発言なのか分からない。だから、「誤解される」という意味では、記事を書いた側にも責任がある。

現に、民主党の細野豪志幹事長は、この麻生発言について、「とにかく生きようと頑張っている人の意思は尊重すべきだ」などと批判している。この麻生発言が"生きようと頑張っている人"に対して向けられたものだと、見事に「誤解」している。

麻生副総理は、会見の場で、共同通信の記事について「主語が抜けている。議事録でも『私は少なくとも』と主語を入れている」と指摘しているけれど、誤解を招いた責任の一端は、正確な報道も訂正もしないマスコミ自身にもある。こんなことをしているから、ネット界隈から「マスゴミ死ねよ」と言われてしまう。そのことを、よくよく自覚するべきだろう。




2.尊厳死の根本にあるもの

終末期医療と一言でいっても、何をもって「終末期」とするのかという明確な定義はないのが現状で、「いつまでが救命治療で、いつからが延命治療か」という線引きは難しいものとされている。

従って、「延命治療」に対する定義や治療についての基準もなく、実際は、死が避けられないような状態になった時には、薬物投与や化学療法、人工透析、人工呼吸器などで、延命治療が行われるのだけれど、厚労省の「平成19年度終末期医療に関する調査」によると、治る見込みがなく死期が迫っている場合の延命医療について、「延命医療を望む」と回答したのは、一般国民で11%、医師で7%しかなく、「(どちらかというと)延命医療は望まない」との回答は7割を超えている。

ただ、実際の延命治療において、本人の意思が反映されるかというと、そうとは限らない。日本療養病床協会の調査では、患者が治る見込みがない病気に罹患した場合、事実を最初に説明する相手は「家族」であると回答した医師が最も多く、57.6%と過半数を占めており、また、担当している患者が治る見込みのない病気になった場合、患者本人の意見を聞いて治療方針を決定すると回答した医師はわずかに5.5%で、「患者本人の状況をみて判断する」が53.7%、「家族の意見を聞く」という回答は39.7%と報告されている。

つまり、本人は、無理に延命してまで生きていたくないと思っていたとしても、その意思が聞き届けられるとは限らず、家族の意見に大きく左右されるのが現実。ところが麻生副総理のように、本人から直接延命治療は要らないと確認が取れている場合でもない限り、家族にしてみれば、やはり「長生きしたいだろう」とか、「長生きしてほしい」という思いが先に立ってしまいがちになるのではないかと思われる。したがって、本人の意志に関わらず、結果として延命治療が施されるケースは少なからずあるのだろうと思う。

だけど、尊厳死や安楽死の問題の根本は、やはり死生観というか死についての解釈や理解の問題に帰着するのだろうと筆者は思っている。

よく、魂だとか霊だとか、死後の世界だとかは、古くから言われていることだけれど、今の所、一般的には、そんなものはないということになっている。人命尊重の名のもとに、尊厳死が軽んじられることがあるとするならば、それは、「死者には人権がない」という考えの裏返しなのではないかと思う。だから、生きている限り、生かし続けようとしてしまうのだ、と。

だけど、もしも、肉体は滅んでも、本人は霊魂として生き続けるのだ、ということが証明されるようなことがあるとしたら、尊厳死に関する定義も考えも大きく変わってくると思う。

世の中には、霊魂が見えたり、話したりできる、いわゆる「霊能者」と呼ばれる人が存在するけれど、そういった特殊能力を持った人ではなくて、ごく普通の人がそうした霊魂とコミュニケーションを取れるようなことが出来たとしたら、随分と死についての捉え方は変わってくるに違いない。

だけど、そんなことが出来るのか。そんな時代がやってくることがあるのか。

ここから先はオカルト話になるから、話半分で読んでいただいて全然構わないのだけれど、「霊能者」でない普通の人が、幽霊と交信した例が記録されたことがある。「2ちゃんねる」に。

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3.キーボードを打った幽霊達

2ちゃんねるには「オカルト板」といって、その手の話題を集めた掲示板があるのだけれど、その中で、なんと死んで間もない、幽霊が自分で2ちゃんねるにスレッドを立て、他の人と書き込みを通してコミュニケーションをしたというスレッドがいくつかある。

該当スレッドは当然もう流れてしまって残ってないのだけれど、コピペや纏めブログ等でそれらを読むことはできる。いくつか紹介すると、以下のとおり。
1-A) 幽霊だけど何か質問ある? 前編 
1-B) 幽霊だけど何か質問ある? 後編   
2) 俺今、霊体なんだけど、どうしたらいい?
3) あの世って本当にあるんだね!!!
1-A、1-Bは、2007年6月に立ったスレッドで、幽霊氏本人の申告によると、「自分は、22才・男で交通事故で死亡した。今は岡山の駅前のパルコ付近にいて、2ちゃんねるのVIPによくいたのでスレッドを立てた」という。

2は、2004年2月のスレッドで、前半、後半で二人の幽霊氏が登場する。前半の幽霊氏は「サン・アントニオに旅行で行って、店からバイク借りて走っていた途中で事故って死亡」したと告白し、後半の幽霊氏は「札幌のアパートで多分凍死だと思う」と書き込んでいる。

3は、幽霊本人の書き込みではないけれど、妹を亡くした姉が、いわゆる"見える人"で、死んだはずの妹が、通夜の前に現れて、あの世の世界について聞いたことの伝聞。

まぁ、幽霊が、2ちゃんねるに書き込みをするなんて、出来の悪いマンガにもないような設定だと思うし、大概は、からかって遊ぶ、いわゆる「釣り」の類ではないかと思われる。

ただ、筆者は、別にオカルトは否定しないし、霊魂もあると思っているから、そういう前提を抜きにして、彼ら、幽霊氏達が語る内容を読んでいたのだけれど、そこに、いくつか共通項というか、興味深い点があることに気付いた。

まず、件の幽霊氏達の、他の人の質問やコメントに対する返答や、細かい言葉づかいなどを見る限り、明らかに個性があるということ。

例えば、2の前半の幽霊氏は、快活で活動的なタイプの人物であり、書き込み内容をみてもアウトドア派の人だな、と感じられ、幽霊になってから成仏?するまでの間、「俺は今、何もかもが新鮮なので、いろいろやってみたいのさ。霊なら霊でなんかの可能性をつかみたい」と、色んなことにチャレンジした旨を報告している。

一方、2の後半の幽霊氏は、幽霊になってからの自分の周りの状況や心境の変化などについて、事細かく、かつ冷静に報告していて、真摯で理性的、かつ思慮深いタイプだと感じさせる。

書き込みだけを読む限り、普通の人となんら変わることなく、本人が幽霊だといっても、信じないだろうな、と思わせるくらい、普通の反応というか、少しもおどろおどろしいところがない。

ただ、壁抜けができる、とか、お腹が空かないし、眠くもならない、という風に、普通の人間ではないと思われる書き込みを「普通(正直)」に書きこんでいるところに、不思議であると同時に妙な信憑性を感じさせる。

また、筆者が興味を覚えたのが、幽霊氏達の姿形で、よくいうお化けのように足がなくて"ひゅーどろどろ"なんてのではなくて、ちゃんと手足があるのだけれど、死亡したときの状態がそのまま幽霊になっても続くという書き込み。

バイク事故で死んだという、2の前半の幽霊氏は、「手とか足もちゃんとあるし。服だってちゃんと着てるんだよ。ただ・・バイク事故だったのでヘルメットかぶったまんまなんだよね。取れない。いまいち視界が悪くて困ってる。死んだときの服装がそのまま自分の皮膚になってるみたいだ。そのせいか、パジャマ姿の人とか、パンツ1枚の人とか、とても新宿の街を歩くかっこしてないよ。」と報告している。

これが本当であれば、延命治療で、体中にいろんな管や人工呼吸器をつけたまま死んだ人は、そのままの姿で幽霊になる。だから、その人は、幽霊になったあとの移動や他の幽霊?の人達とのコミュニケーションにおいて、相当不便なことになるのではないかと思われる。

ここまでくると、家族が良かれと思って延命治療したことが、却って、本人の成仏?を妨げてしまうことにもなりかねない。

ただ、彼ら幽霊氏達の報告によると、この世にも、目に見えないだけで、あちこちに幽霊はいるらしい。だから、仮に将来、幽霊が見えるメガネか何かが開発されたとしても、それを掛けたとたんに、そこら中の道端や部屋の中にまで幽霊がいる光景が目に飛び込んでくることは容易に予想される。

こんなことになってしまったら、肉体を持って生きている人は、流石にちょっとやってられないだろうと思う。プライバシーなんか当然なくなるだろうし、それどころか、生きている人の実生活に支障を来す恐れがある。幽霊を生きている人と勘違いして、ふらふらとついていったら、車に飛び込んでいた、なんてことになったら洒落にならない。

そう考えると、やはり、肉体を持って生きている人には、幽霊や霊魂は目に見えず、聞こえもしないというのが原則としてあり、ただ、お盆や、墓参り、或いは仏壇に手を合わせるといった、自分で意識したときだけ、コンタクトできるというくらいで止めておいたほうが無難であると思われる。

ただ、その一方で、死にあたっては、本人も、家族も、周りの人々も、尊厳をもって、それに臨むことが良いのだろうと思う。

だから、もしも、「死ぬのにもってこいの日」があるとすれば、それは、本人が、死出の旅に出る準備ができたときであり、肉親がそれを受け入れる準備ができたときなのだろう。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。

生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。

すべての声が、わたしの中で合唱している。

すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。

あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。

今日は死ぬのにもってこいの日だ。

わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。

わたしの畑は、もう耕されることはない。

わたしの家は、笑い声に満ちている。

子どもたちは、うちに帰ってきた。

そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

タオス・プエブロの古老の言葉より

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この記事へのコメント

  • 洗足池

    低能と思ってた麻生もたまにはまともな事をいうな。
    終末医療の最も悪い例を残したのが昭和天皇だ。管だらけの植物状態で数か月過ごして、国民に美しい死に際をみせてくれた。今の天皇は国民の負担を少なくする為に火葬にしてくれと遺言している。親父の無様な死にざまをみて尊厳死を決意していると思う。

    ところでゾンビ人間の延命には反対しているくせに、ゾンビ企業の延命に安陪や麻生が熱心なのはなぜだ。ゾンビ土建屋の延命に数十兆円の公共投資、ゾンビ電機メーカーの設備買い上げ等、ゾンビ企業の救済には熱心だな。
    2015年08月10日 15:23
  • ちび・むぎ・みみ・はな

    タイトルから尖閣防衛の話かと思った.
    自衛隊を配備して紛争で死なせるよりは
    年寄りが人柱になった方が良かろう.
    もし尖閣防衛で募集するなら,
    「今日は死ぬにはもってこいの日」
    と言って参加したいものだ.

    終末期医療 ― 管を付けずに死にたいものだ.

    被害者の名前はさっさと公表して,
    加害者の実名は公表しないメディアの
    非難なぞ何の意味もない.
    2015年08月10日 15:23
  • 白なまず

    人間必ず死ぬが、死に方を選べる人はほぼ居ないと思われる。絶望して自殺すれば、敗北感がついて回るかもしれないし、侍の様に自害が救いの場合もある。結局、個人の死に対する心の状態がどうであるかが、死ぬ時の自己評価であり、それを尊重できるのは、自分自身。

    世情の欲が薄れれば、死に方の理想を求める欲が出てくるレベルの違う人もいる。
    西行は歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。

    ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比
    2015年08月10日 15:23

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