今日は、少しだけ、オカルト風味のエントリーです。
2013年3月25日、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのアンドリュー・ステップトゥ教授らによって、「孤独のもたらす健康リスク」についての調査結果が発表された。
これは、2004年から20055年にかけて、50歳以上のイギリス人6500人に、彼らの孤独度を測るアンケートを実施。そして、家族や友人との接触度や、地域の集まりへの参加具合を観察した上で、その後およそ8年もの間、各人の健康状態を追跡したというもの。
その結果、被験者のうち918人が死亡したのだけれど、これらの総合的なデータを分析したところ「死因と関係なく、社会からの隔絶は高い死亡率と関連がある」という結論となった。これは、持病や経済力、性別や年齢を考慮しても、最大で26%も高い死亡率が見られたのだという。
ステップトゥ教授は「隔絶は、友人、家族、組織との接触不足を意味しますが、孤独は交際や付き合いを避ける主観的な選択と言えます。両者は同じコインの裏表でしょう」と述べ、"孤独そのもの"ではなく、"社会からの隔絶"が重大なリスク要因だとしている。
こうした、社会的な関係と死のリスクに関する調査は、2010年にケンブリッジ大学でもおこなわれていて、そこでも、社会的に孤立していて孤独を感じていることは"1日に15本タバコを吸うのと同じくらい健康に悪い"と報告されているそうだ。
尤も、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの研究グループは、社会的なつながりのほとんどない高齢者が死に至りやすい理由を「必要なケアが受けられない。正しい食生活をして、薬を飲むようにいう人がいない上に、危機が迫っても助ける人がいない」とも指摘しているから、物理的ケアの有無も軽視はできない。
だけど、少なくとも、"社会からの隔絶"が心身に対するストレスになることは間違いなく、それが健康に影響してくるのだろうと思われる。
では、なぜ、"孤独であること"ではなくて、"社会からの隔絶" がストレスになるのか。"孤独"も"社会からの隔絶"も一見同じ様なものに思えるのだけれど、強いて違いを挙げるとするならば、主観と客観のウェートに若干の違いがあると思われる。
「孤独」を辞書で引くと、次のように記されている。
1 仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。また、そのさま。「―な生活」「天涯―」辞書では、仲間や身寄りがない状態を「孤独」と定義している。だけど「思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しい」状態というのは、本人だけが"主観的"にそう思っているだけなのかもしれないし、もしかしたら、将来、心を通わすことの出来る人との出会いもあるかもしれない。
2 みなしごと、年老いて子のない独り者。
「窮民―の飢ゑをたすくるにも非ず」〈太平記・三三〉「Goo辞書」より
つまり「孤独」というのは、本人が主観的にそう感じているだけでも"孤独状態"は発生しうるし、それが永続的にいつまでも続くと決まっている訳でもない。つまり、「孤独」には、それ自身に時間と共に変化する可能性を秘めている。
では、その孤独状態が変化する時には何があるかと言えば、例えば、「自分は孤独ではなかったのだ」と自らの主観を変えた時であるとか、外部からのアプローチ又は環境の変化によって、半ば強制的に"孤独状態"から退場させられてしまう時などが考えられる。
これらに共通するのは、本人に外部からの刺激が与えられているということ。たとえ、自分で自分の考えを変え、主観を改めることがあるにしても、その為には、考えを変えるだけの、何らかの切っ掛けがいる。それは、読書からかもしれないし、会いに来た人の何気ない一言かもしれない。或いは、パウロの回心の逸話の様に、見えなくなった目が突如見えるようになった、なんて奇跡かもしれない。
まぁ、奇跡は兎も角としても、「孤独」には、本人がそう思う思わないにも関わらず、何らかの形で外界と繋がっていて、それであるが故に「孤独」ではなくなる可能性を秘めた、変更可能な状態であると言える。
それに対して、「社会からの隔絶」というのは、文字通り"隔絶"。主観、客観関係なく、誰がどうみても社会から切り離された状態を意味する。この"社会から隔絶した"状態では、外部からの刺激およびアプローチが全くないがために、その孤独状態から脱却するのは極めて難しい。強いて言えば「社会からの隔絶」される前に、どれだけ自分の中に様々なインプットをしていたかが大切で、それらを種として考えを巡らすことで、"悟り"を開いて、その孤独から抜け出すことができる可能性はある。
釈尊とて、最初から洞窟や菩提樹の下で座禅をしていた訳じゃない。王族を捨て、出家した後も"悟り"を求めて、様々な師に教えを乞うた。
つまり、「孤独」と「社会からの隔絶」の違いは何かというと、仏教でいうところの"縁"があるかないか。「孤独」な人とて、親兄弟、友人・知人がいる筈。たとえ、普段の付き合いが無かったとしても、顔を知っているというレベルであっても"縁"はある。「袖振り合うも多生の縁」。
だけど「社会からの隔絶」となるとその"縁"すら切れてしまう。何十年も部屋に閉じこもっていると、縁のあった人でも忘れてしまうかもしれないし、その人が亡くなってしまったら、今世の"縁"は切れてしまう。
縁がある「孤独」よりも、"縁"がない「社会からの隔絶」の方が、よりストレスになり、健康に対する重大なリスク要因になるとするならば、"縁"には、ストレスを緩和する働きがあるということになる。
何故、縁があれば、ストレスが緩和されるのか。それはおそらく、縁によって自身の存在を「認知」して貰えるからではないかと思う。
縁があって初めて、自分の存在は他者に認識してもらうことができる。縁もゆかりもない人は、その存在すら分からない。
人は他の誰かと、網の目の様に張りめぐらされた"縁の糸"によって繋がっている。その中で、縁の近い者同士が互いを認識し、影響を与え合っている。一人の動きや変化は、縁の糸を伝って、また他の誰かにキャッチされ連鎖してゆく。つまり、人は縁の糸の中で、自身の存在座標を知り、安定する。自分という存在が自分だけではなくて、縁を通じて他人ともつながっているのだ、と自覚した瞬間、その人は「孤独」ではなくなる。
だから、誰かと縁があり、それを自覚することは、そのまま「孤独」から脱出することを意味してる。だから、縁には孤独を緩和する効果があるのではないかと思う。
例えば、四方八方、どこをみても、まったく縁がなく、完全に外界と隔絶した状態に陥ったことを考えてみる。
ここからはオカルトになるから、読み飛ばしていただいて構わないのだけれど、ネットのオカルト系の板に、「異世界に行ってきた」話が書き込まれたことがある。くだんの書き込みのリンクはこちら。
宇宙人に幽霊くらいならまだしも、最近は、未来人だの、異世界だの、何かとオカルト話もバージョンアップしているようだ。流石に、ここまでぶっ飛んでくると、筆者も、ちょっとついていけない。
この異世界話は、そっち系では、結構話題になったらしいのだけれど、その書き込みは非常に描写が細かく、かつ真に迫っていて、作り話にしても、非常に良くできている印象はある。
筆者にとって、この異世界話が、本当なのか嘘なのかについては、あまり関心がない。ただ、筆者が注目したいのは、その"異世界"とやらが、日本そっくりであるにも関わらず、そこに生活している人が、こちらの日本語とは違う体系の日本語を使っていると描写されていること。
例えば、その異世界にも、花屋や、コンビニがあるそうなのだけれど、花屋の看板が「ヤ母イ」になっていたり、コンビニの看板が「イイ目だ」とかになっていると書き込まれている。
何かどこか夢の世界の話を聞かされているような気分になるのだけれど、もしも自分がこんな世界に迷い込んでしまったらと考えたら、背筋が寒くなった。
後になって、何故、そんな恐怖にも似た感情が浮かんだのかを考えてみたのだけれど、やはり、元の世界と縁が切れてしまった状態、即ち、元の世界から完全に「隔絶されてしまった自分」というのを想像して恐くなったのだと思う。
これは、冒頭の「孤独のもたらす健康リスク」についての調査が示した「社会からの隔絶」は重大な健康リスク要因になるのと、ある意味において、非常に近いのではないかと思う。少なくとも、それだけのストレスを受けそうではある。
こんな異世界に飛ばされるくらいであれば、まだ、同じ世界の"霊"の方がマシ。少なくとも、同じ世界体系の"住人?"ではあるだろうから。
だから、たとえ、「孤独」を感じていたとしても、周りとの縁がある限り、その縁の糸によって、その人の座標が定まり、存在が許されているのではないか。少なくとも、「孤独」だと感じている本人とて、心のどこかで、縁によって、"支えられている自分"というものを感じているのではないか、と。
であるならば、「縁がある」ということは、人の心の安心感において、とても重要な役割を果たしているといえる。
これが、異世界に行ってしまって、縁が無くなってしまったら、座標もなく、ただ彷徨うだけ。自分の存在さえもあやふやになってしまうと感じてしまうのではないか。
だから、たとえ自分が孤独な「裸単騎」であったとしても、それでも、誰かと縁があるということは、それだけで「ちょーうれしいよー」ということなのだと思う。
この記事へのコメント
白なまず
ちび・むぎ・みみ・はな
外との交渉がないと精神が不活性になり,
それが引いては身体の不活性化をもたらすのだろう.
ある程度の放射能で細胞が活性化するのと同じ.
損傷修復が困難な程の放射能は却って害になる.
外界との交渉でも, あまりあり過ぎるとストレスになる.
日比野
>孤独とは自らが閉ざす事が問題で、絶海の孤島で一人の場合でも孤独でない生活をおくることは可能ではないかと思います。だから生死は自ら孤独と決めつけた結果であり、孤独を否定しうる縁を発見できれば生きていけると言う事でしょうか
ポイントはここなんでしょうね。人は孤独と思っていたとしても、よくよくみれば、孤独ではあり得ない。親子の縁がなければ、この世に生を受けることもできないですしね。誰とでも縁で繋がっている、そこに気付けることが大事なことかと思います。