4月10日、衆院予算委員会で、みんなの党の山内康一議員が質問に立ち、教育問題について触れた。
山内議員は、まるで道徳教育が不要と言わんばかりの質問をしたのだけれど、質問自体が雑で説得力に乏しく、あ正直実のある質問ではなかったように思う。
ざっくり、その質問と答弁を纏めると次のとおり。
山内議員 「道徳によって、いじめはなくなるか?」とまぁ、こんな感じ。反論されて、言い返せないと見るや、誰それがそういう理屈をいうから使ったまでだ、とか、将来的にそうなることを危惧しているのだ、とか、一体何を聞きたかったのか。
下村文科相「ゼロにはならないが、減らすことはできるのではないか?」
山内議員 「イジメ自殺の大津の中学校は道徳モデル校だった筈だ。」
下村文科相「大津の自殺の中学校の件は、ちゃんと道徳教育がされていなかったと聞いている。」
山内議員 「道徳意識が下がっているという認識はあるのか」
下村文科相「道徳意識が下がっているのは大方の見方だ」
山内議員 「教育再生を訴える人は少年の凶悪犯罪の増加を例に挙げる。しかし、凶悪犯少年の検挙人数は年を経るごとに少なくなっている。」
安倍総理 「犯罪発生には時代背景がある。昔は貧しかったが、その時代の犯罪の多くは、経済的な理由による強盗だった。明治に修身教育をした理由は、当時、伊藤博文がヨーロッパを回って、教育に果たす教会の役目の大きさに気付いた。そこで日本にそれに代わるものはないかと考えた末に、陛下からの教育勅語が出され、修身教育が始まった。道徳教育をやることは悪いことなのか。」
山内議員 「道徳教育は国が一律にやらずとも、地方がそれぞれやればいいじゃないか。教育再生をいう人は、少年犯罪が増えているから教育再生が必要だというが、それは事実に基づいていない。」
安倍総理 「誰がそんなことを言ったのか?教育再生実行会議でそんな発言はしていない。」
山内議員 「国は道徳教育を一律にやろうとしている。道徳教材を国は一方的に押し付けるのか」
下村議員 「教材の何処に特定の価値観や国家意識が書いているのか。一体何を心配しているのか。押し付けるなんて積りは毛頭ない」
単に、道徳の内容を国が勝手に決めて、それを押し付けるのは止めろ、勝手にやらせろ、と言いたかっただけように聞こえたのだけれど、であるならば、国が定める教材の何が駄目で、なぜ、全国一律で行うのが駄目なのかを論証しないと説得力がない。
山内議員は、少年犯罪が増えているから教育再生だというのは間違いだ、と誇らしげに出してみせた、少年犯罪の検挙数にしても、その内訳をみると、昔は、強盗・強姦が多かった。ただ、もっと昔、戦後直後は強盗が多かったから、安倍総理の指摘するように経済的問題というのは、無視できないパラメータのように見える。
また、山内議員は、少年の凶悪犯罪の検挙件数を挙げていたけれど、少年犯罪は凶悪犯罪だけじゃない。傷害とか窃盗とか、恐喝とか、そういった犯罪もある。少年犯罪で一番多いのは窃盗で、年間数万から十数万件レベル起きている。
また、こうした統計に出ているのは、あくまでも検挙された件数であって、その水面下には、検挙されなかった事件もあれば、その年々で、警察の頑張り具合や、量刑のハードルの高さが微妙に変化したりもするから、これら数字そのものにも変動というか、質的違いがある。
実際、強盗件数についていえば、1940年代から減少傾向にあったのが、1997年から急に増えているのだけれど、これは、1997年6月に、関口警察庁長官が「悪質な非行には厳正に対処、補導を含む強い姿勢で挑む」とし、警察がより厳罰で臨むようになった影響だと言われている。
例えば、万引きをした犯人が逃げようとする際に、店員を突き飛ばして軽傷を負わせるような事例で、1997年以前では、窃盗に分類されていたのだけれど、1997年を境に、少しでも軽傷を負わせれば、それだけで、もう「強盗」としてカウントするように変わっている。
だから、一口に少年犯罪といっても、その動機において、経済問題であったり、家庭問題であったり、その他、道徳以外の原因だって考えられるし、その犯罪の程度においても、万引きレベルから殺人まで色々ある。
犯罪の"入口(動機)"にも"出口(検挙)"にも色んなバリエーションがある上に、統計として上がっている数字も、その質が異なる場合すらある。しかもその数字は氷山の一角なのか、全部なのか、それさえも分からないときてる。
だから、単純に少年の凶悪犯罪件数が減っているからといって、即道徳が云々というのは、かなり乱暴な話。よほどデータを分析整理した上でないと、議論は難しい。
山内議員は、国会でそうしたことを答弁で指摘されたにも関わらず、指摘されたことには殆ど触れず、自身のブログで「単なる思い込みや印象論で政策判断をするのではなく、専門的知見や客観データに基づき判断すべきです。」などと語っている。
専門的知見や客観データに基づきなんていうのであれば、先程述べた、少年犯罪データの詳細分析は勿論のこと、宗教教育と道徳教育の違いから、「思想・信条・良心の自由」は、何を根源として生まれ、是とされたのかから始めないといけない。
昨日のエントリーでも触れたように、勝つ為ならば、相手を妨害したって構わないとか、食べ物に麻薬を入れて販売しても平気でいるという人だって、残念ながら世の中にはいる。そうした人が同じ町や村にいたとして、彼らが「思想・信条の自由だ、お前らの考えを押し付けるな」と、やりたい放題したらどうするのか。
だから、「思想・信条・良心の自由」といっても、もっと掘り下げたところから始めないと、道徳教育が云々という議論は、本当はできないと思う。
安倍総理は、山内議員に、「道徳教育をやることは悪いことなのか」と問うた。だけど山内議員はそれに答えられなかった。そして、その後の質問はぐだぐだになった。下村文科相もキレ気味で答弁していたように見えた。
そこへいくと、同じ4月10日でも、維新の会の中山成彬氏の質問は実に明快。事実を挙げた上で、教科書には事実を書くべきだと、「ど直球」の質問をしていた。まぁ、議員個人の差といえばそれまでだけれど、同じ野党でもこれほど質問の質に差があると、段々と党としての信用に差がついてくるように思われる。
この記事へのコメント
ほびっと
貴方の論を押し付ける場合は(根拠が無いので)カルト行為になると書きましたが、押し付けているとは書いていません。
まあでも私と貴方の主張は近いのかもしれません。
私は「自分がどうやって自分の思想を作っていくのかを知る事ができるように」と書きましたがこれは、「相手の不可解な論に聞く耳を持たない」ことをなるべく避ける事ができるようになるということです。伝わっていないみたいですけどね。
sdi
ただし道徳を教えるなら、教える側がまずはっきりした価値基準をもっているのが前提になりますね。そして、その価値基準が一般社会から容認されているレベルでなくはなりませんよね。
しょうちゃんのつぶやき
原発廃止を政策にするまで党員だった人間より。。。
白なまず
ここで道と徳をセットで考える道徳から少し離れて、個別の道と徳について考えてみると、
道から連想されるもので、剣道、柔道、王道、覇道、常道、外道、政道、神道、、、と道を極めるものから、政治、神様まであらゆる事に道をつけて表現している事に気がつきます。
これらは、競争や物事のルールを決めて論理を展開し、構築、分析、優劣の判断などを通して哲学や数学、物理学などの学問に留まらず、音楽や自然の摂理を説明しようとする試みとも思える。
つまり、道とは目標とする何かを得ようとする行動の過程です。その結果「叡智」が得られるのですが、ここで問題なのが、「他人からの叡智」を受け入れない限り、己一人が生み出す叡智のみでは、道を極めても到達できない極みが
洗足池
とおる
55
性犯罪が増えてるからポルノ規制
データを見れば減ってるはずなんですがなぜこうなるのか・・・
クマのプータロー
ただ、所変われば品変わるの例え通り、道徳は国によって、あるいは信じる教えによって多少の差異を見せるのも事実です。日本に道徳を取り戻させると不都合な国々または主義主張は数多あることを知っておいた方が良いと思います。
道徳教育は日本を取り戻すには不可欠の作業です。
ちび・むぎ・みみ・はな
多くの人が勘違いをしているし, この議員もそう.
道徳的規律は社会生活の規律の基礎であり,
学校における勉強に始まり, 社会における
経済活動, 産業活動の基礎になるものだ.
トヨタなどがISOをやかましく言っているが,
これこそ「押しつけの道徳規範」に他ならない.
欧米でキリスト教の伝統が失われた結果
ISOが出てきた訳だ. 道徳のない国は
長続きはしない. 例えば支那や南朝鮮のように.