今日はこの話題です。
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1.酷使された安楽投手
夏の甲子園。大会最注目右腕である安楽投手を擁する済美高校は、延長戦の末に花巻東高校に敗れ、3回戦で姿を消した。
安楽選手は186cm84kgの恵まれた体格から最速157kmのストレートを投げる本格派右腕。済美高校のエースとして2年次から注目を集めていた。
日ハムの大谷翔平選手や西武菊池雄星投手を育て、対戦相手であった花巻東の佐々木洋監督は、安楽選手について「安楽君は2年であれだけの速球が投げられて、勝ち方も知っている。正直、当時の大谷よりも上だと思います。私は大谷を勝てる投手にしてやれなかった」と、その才能を高く評価している。
尤も、佐々木監督は、「ただ、いまの3年生は練習で大谷の球も打っている。いくつか崩す策は持っている。真価を問われる相手」と述べ、実際の対戦でも、10回に集中打を浴びせて勝利を手にした。
その安楽選手だけれど、春の選抜から公式戦でたびたび連続で長いイニングを投げていて、酷使され過ぎなのではという声が上がっている。安楽選手は、準優勝を収めた春の選別で5試合に登板し、9日間で計772球を投げ、敗退した花巻東との夏の3回戦でも183球を投げている。こんなに投げて故障しないと思うほうがどうかしてる。
安楽選手は、春の選抜大会で、右手首に打球を受けても投げ続けたのだけれど、結局、負傷した右手首は「骨挫傷」と診断され、選抜後は1カ月間のノースローを余儀なくされた。
まぁ、考え様によっては、一カ月は肩を休めることが出来たといえなくもないのだけれど、復帰後は、急ピッチで投げ込みを増やしている。7月6日、済美球技場で行なわれた、鳴門渦潮との練習試合2試合はで、安楽選手はなんと2試合とも先発し、第1試合で130球、第2試合で68球の計198球を投げている。
普通、練習試合のダブルヘッダーだと、控えとエースの二人で投げ分けるのが常識だと思うのだけれど、済美の上甲正典監督の考えは違うようだ。
上甲監督は、マスコミの投げさせ過ぎなのではという質問に対して、次のように答えている。
──選手の健康を心配する声もある
「たとえばあなたが同じ2年生エースだったらどうですか? 3年生の思いを背負っている。ずっと目標にしてきた甲子園のマウンドに立っていて、またここに来られるかもわからない。それが決勝だったら? 春夏合わせて4000校ある内の4校しか立てないわけです。おそらく一生に一度でしょう。監督に投げたいと言いませんか」
──高校生の立場なら、投げさせてくださいと言うと思います。それでも…
「あの子たちには『いま』しかないんです。それを高いところから、冷静な判断で取り上げることは、私は高校野球の指導者じゃないと思います。止めたことで彼らに一生の悔いが残るかもしれない。もちろん2、3回戦なら投げさせません。でも決勝になれば、私は投げたいという本人の意思を尊重してやりたい」
──安楽君は米国からも注目された。球数制限のルールや、もっと余裕のある日程なら体への負担も軽減されるのでは
「球数の問題はプロでもよくいいますね。でもそれは日本の伝統ある高校野球にはそぐわない。肉体の限界を精神力で乗り越える。武士道精神のような厳しさもまた高校野球だと思います」
と、どこかで聞いたような精神論。上甲監督は「あの子たちには『いま』しかないんです」と言っているけれど、甲子園に出場し、そこでも注目されるくらい将来がある選手全てにそれが当てはまるとは、筆者には思えない。
先に述べた、花巻東の佐々木監督は、現日ハムの大谷選手について、「大谷が1年時には絶対に登板させませんでした。当時は骨が大きく成長する時期だったので、野手として下半身を作ることに専念させました。秋の東北大会でセンバツの出場が懸かった試合で負けたときは『なぜ大谷を投げさせない』と批判も受けましたが、あいつは野球で飯が食えると思っていたので、迷わなかった。」と述べている。佐々木監督は、選手の将来をちゃんと考えた上で、投げさせなかった。
2.チェスができない日本人
この「今しかない」と「将来がある」という二つの考え方は、軍事的には「兵站」或いは「大局観」に関わる問題だと思われる。今しかないという考えに凝り固まれば、兵站など無視して、その場の会戦だけを考え全力で勝ちにいくことになるけれど、その先もまだまだ戦いがあると考えるのなら、兵站をしっかりと確保して、兵も疲弊しないように慎重に戦略を練ることになる。
だから、投手起用ひとつとっても、監督の戦略観というか大局観がそこには表れている。では、果たして今の日本人は、大局観を持っているといえるのか。
元駐日大使を務めた日本専門家のアレクサンドル・パノフ氏は、日本外交の抱えるもっと厳しい問題は靖国ではないとし、「残念ながら日本の外交はあまりにプリミチブだ。日本はもし何かにつまづけば、強行に固執するだろう。これは戦略的な思考の無さを物語っている。日本人はチェスをすることも出来ない。日本人の思考はあまりに具体的で、広く物事を見渡すことはできないのだ。」と述べている。
このパノフ氏の意見について、ネットでは「日本の専門家の癖に将棋も知らないのか」とか「囲碁将棋があるからチェスなんて流行ってないだけど」とかいう声も上がっているのだけれど、その将棋界で、日本人には調和観が欠けていると指摘する人物がいた。実力制第4代名人升田幸三がその人。
升田幸三は、日本人の将棋について「僕もたまに外国のひとと碁を打ったり、将棋を指したりする機会がある。そのやってみた感じでは、どうも外国人は部分観で損をしても、総合力を出す力を持っているように思う。同じくらいの技量の日本人だと、部分部分にすばらしい力を出すことはあっても、調和観で負けている。いいかえれば、外国人のうつ手はギコチないようでもバランスがとれている」と述べている。
まぁ、だからといって、パノフ氏がいうように、日本は中国に譲るべきだと筆者は思わないけれど、升田幸三のいう、日本人が部分では素晴らしくても、全体では負ける部分はあるという指摘は気に留めておいてよいように思う。
では、尖閣は日本にとって、どういう意味があるのか。無論、漁場としての尖閣海域や、石油と初めとする埋蔵地下資源の価値はいうに及ばす、安全保障の面でも、尖閣はシーレーンの確保という面からみても、日本にとって急所になる。それ以外にも、軍事的に尖閣の位置はとても重要だという指摘をネットでされているので少し紹介したい。
次の図は、東シナ海域と沖縄、岩国を中心としたオスプレイの作戦行動範囲を示したものなのだけれど、沖縄の普天間から台湾(台北)を直線で結ぶと、丁度尖閣上空を通過するルートになることが分かる。これは、台湾(台北)有事の際に、沖縄からオスプレイを出すときには、尖閣上空を通過しないと最短時間で到達しないことを意味してる。有事の際の時間は重要なファクターだから、尖閣を中国に獲られることは、そのまま台湾防衛に大きく影響する。
先の升田幸三は、将棋にも民族性が出るという。中国人に将棋をやらせると、はっきり負け将棋になっても、持ち駒を次から次から自陣に打ち込んで徹底抗戦すると述べている。其の段から類推すれば、もしも中国が尖閣を日本から奪ったとしたら、二度と取り返されてなるものかと、兵士やらミサイルやら何やらを次々と配備して、尖閣を要塞化することだって十分考えられる。特に尖閣に地対空ミサイルでも配備されてしまったら、尖閣上空はおろか周辺空域すら近づけなくなってしまう。そうなったら台湾防衛も非常に危うくなる。
そして、台湾が獲られてしまったら、シーレーンも容易に封鎖されてしまう。石油の90%を中東からの石油に頼り、原発再稼働もままならない今の日本では、簡単に息の根が止まる。日本国民はそこまで読めなくちゃいけない。
日本国憲法の前文には「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と謳っているけれど、日本自身が"専制と隷従、圧迫と偏狭"という脅威にさらされているのに、それを"除去しよう"とさえしないのであれば、"国際社会において、名誉ある地位を占める"なんて到底無理な話。
世界という盤上を眺めるならば、今の日本が置かれている状況は決して安穏とできるものじゃない。日本人は今一度、自身の世界観、大局観を点検する必要があるように思う。
この記事へのコメント
mony
「将来が」というのは大抵の場合周囲の大人たちの
思惑ではないでしょうか。
アメリカの批判なんかは「目玉商品」を潰されたくない
という思いをヒシヒシと感じます。
あとは当人の意思ですか。当人たちにしてみれば甲子園は
日本シリーズやワールドシリーズよりも上の存在なのかも
しれません。その思いへの配慮なく球数や将来を言っても
どことなく大人の「皮算用」に聞こえるのです。
精神論がダメとは思いません。本人の意思と覚悟だと
思います。同じくらい投げてた松坂投手や田中投手も
活躍してますし。(何度書き直しても上手く言えませんが・・・)
「ど」の字
日本人の国家共同体に大局観や戦略視点が欠けている場合があるという意見には、大いに同意します。
しかし、それを指摘するパノフ氏の祖国をはじめとする欧米に、それはあるのでしょうか?
現在の欧米を動かす指導者層の知力と意志力の減退は、目を覆わんばかりです。
例えばアメリカに大局観(いや戦術レベルでの危機意識)があるのなら、共和党・民主党とも大統領選挙には何が何でも力量のある人間を候補に立て激闘を展開していたでしょうし。
ドイツに大局観があるのなら、アメリカの二の轍(実際はオランダとイギリスという先例もあるのですから四の轍。自国におけるワイマール共和制時代の致命的失敗も含めれば五の轍)を踏んでの経済制度金融化を許しはしなかったでしょう。
上記四カ国は何処かの他国との経済的競争に敗北して覇権を奪われた(ドイツは取り損ねた)のではなく、いずれも自らの失策に因って放棄する形で覇権を落とす羽目に陥った諸国です。
(アメリカは現在まだ覇権を完全には失っていませんが、その製造業の衰退とそれを取り返す意志の欠如を見るに、もはや決勝点どころか帰還不能
ちび・むぎ・みみ・はな
最近, 自分の行動を正当化するために
利益をしきりと強調することが多いが,
結局は国を守ることは一所懸命の結果.
欧米人は彼らの理屈で自分達の行動を
正当化しているだけ.
要は, 強い国民の意志があってこそ
強くなれるのが国民国家たる日本である.