
昨日のエントリーの続きですけれども、今日は、ちょっと趣向を変えて…。

特定秘密保護法が可決した後も、マスコミが喧しい。朝日なんかは、緊急世論調査をしたら、「議論が十分でないが76%もあるとか、特亜3国が反発してるとか、お決まりのテンプレ批判に忙しい。そんなに悔しかったのか。
そんな中、中日新聞が、12月8日付の社説で、特定秘密保護法に関する記事を掲載した。次に引用する。
【社説】 特定秘密保護法 官僚制に“鎖”をつけよ 2013年12月8日とまぁ、官僚が悪で、自分達マスコミが正義だと言わんばかり。情報の流れという観点からみると、官僚とマスコミは、それぞれ「情報を出す側」とそれを「受け取る側」という関係にある。それが、今回の特定秘密保護法によって、国家機密にあたる一部の情報が受け取れないということが不満なのだろう。
「反対」の声を無視し、成立した特定秘密保護法は、官僚が情報支配する道具だ。国会議員は目を覚まし、官僚制にこそ“鎖”をつけるべきである。
<自らの支配者たらんとする人民は、知識が与える力で自らを武装しなければならない>
米国の第四代大統領のジェームズ・マディソンは、一八二二年に知人宛ての手紙にそう書いた。
日本の支配者は、主権者たる国民のはずである。その国民が情報を十分に得られなかったら…。マディソンはこうも書いている。
<人民が情報を持たず、または、それを獲得する手段を持たないような人民の政府は、喜劇への序幕か悲劇への序幕にすぎない>
善良でも「省益」に走る
政府には喜劇であり、国民には悲劇である。主権者たる国民は本来、支配者の自覚で、情報がもたらす知識の力で「武装」しなければならない。それゆえ、憲法は「表現の自由」を規定し、国民は「知る権利」を持っている。
だが、膨大な行政情報を握る官僚制は、もともと秘密主義をとりたがる。国民に過少な情報しか与えない仕組みになっている。
「『職務上の機密』という概念は、官僚制独自の発明物」と看破した社会学者マックス・ウェーバーは、こう述べている。
<官僚制的行政は、その傾向からいうと、つねに公開禁止を旨とする行政なのである。官僚制は、その知識や行動を、できることならどうしても、批判の眼(め)からおおいかくそうとする>
これは情報公開制度を使った経験のある人なら、容易に理解するはずだ。「非開示」の通告を受けたり、真っ黒に塗りつぶされた文書を“開示”されたりするからだ。新聞記事すら、黒く塗りつぶして、「公開」と称する。
個人として善良な官僚たちでも、組織となると独善に陥り、「省益」を守るべく奔走する。
無力な国会でいいのか
特定秘密保護法は、さらに官僚制に好都合な装置だ。行政機関の「長」の判断で、重要情報を国民の目から覆い隠せるからだ。「安全保障」のワッペンさえ貼れば、違法秘密でも秘匿できる。
先進国の中で、官僚制にこれほどフリーハンドを与えている国はあるまい。欠陥がぼろぼろと出てきたため、政府は改善と呼ぶ提案をトランプのカードのように次々と切ってきた。「保全監視委員会」を内閣官房に、「情報保全監察室」を内閣府に…。
だが、行政機関を身内の行政機関が客観的に監視できるはずがない。法律本体が欠陥なのだから、取り繕う手段がないのだ。それならば、いったん成立した法律を次の国会で廃棄するのが、最も適切な対応だと考える。
首相や与党幹部は、考え違いをしていないか。自民党の石破茂幹事長は「絶叫デモはテロ行為と変わらない」とブログに書いた。
同党の町村信孝氏も「知る権利が国家や国民の安全に優先するという考え方は、基本的に間違い」と述べた。憲法を否定し、「主権在民」ではなく、「主権在官」だと言っているのに等しい。国民あっての国家であることを忘れてはいないか。
安倍晋三首相が目指すのは「美しい国」だ。世界中の民主主義国家では、多種多様な意見がひしめき合うのを前提に成り立っている。安倍首相の頭には、整然とした統制国家があるのではないかと思える。
秘密保護法はまさに情報統制色を帯びている。だから、国民の代表者である国会議員をも処罰する規定を持たせている。特定秘密には国政調査権も及ばない。議員はまるで無力である。国会は政府の言いなりの存在になる。
国権の最高機関よりも、行政権が優位に立つ不思議な国の姿になろう。三権分立を崩す法律には、議員こそ反対すべきだった。その反省に立ち、議員らは官僚の暴走を食い止める“鎖”となる仕組みを構築するべきだ。
過去の情報漏えい事件は、ずさんな管理が原因のものばかりだ。むしろ、官僚に対して、命令形の用語を使った情報管理システムをつくったらどうか。「情報は国民のもの」という原則で、情報公開法を全面改正する。公文書管理法も改正し、行政に説明責任を果たさせる-。官僚制に“鎖”をつける方法はいくらでもある。
知識で武装するために
首相は「国益」というが、これまでの経験則では官僚が狙うのは「省益」だ。「国民の利益」はいつも置き去りとなる。
民主主義を機能させるには、国民は情報がもたらす知識で「武装」せねばならない。
少なくとも情報公開法と公文書管理法の抜本改正という、トランプのエースのカードを国民に与えるべきである。
だけど、情報を出す側と受ける側という関係は、官僚とマスコミの間だけにあるわけじゃない。マスコミと国民との関係だって同じ。国民からみれば、マスコミこそが「情報を出す側」であり、自分達はそれを「受け取る側」。マスコミは国民を相手にした瞬間から、「情報を受け取る側」から「情報を出す側」へと立場を代える。
そこで、この中日新聞の社説中の単語をいくつか置き換えて、マスコミと国民との関係について述べた記事に変えてみるとどうなるか。試しに、次のように単語を置き換えてみる。
特定秘密保護法、秘密保護法 → 放送法置き換えした単語は、なるべく同一若しくは似たような意味の単語とし、官僚とマスコミの関係がそのままマスコミと国民との関係に焼き直せるようにした積りなのだけれど、中日新聞の社説は、「国民の知る権利」を基にした論旨を展開している。
特定秘密 → 放送
国政調査権 → 苦情
議員 → 視聴者
官僚 → マスコミ
官 → マスコミ
行政機関 → テレビ局、新聞社
行政 → メディア
省 → 中韓
安全保障 → 人権
違法秘密 → 重大情報
廃棄 → 改正
情報公開制度 → インターネット
塗りつぶ → 捏造
つまり、マスコミは自分を国民の代弁者であるという立場に立って官僚を批判しているのだけれど、この社説をマスコミと国民の関係になるよう言葉を置き換えてみると、今度は、国民が国民の代弁者を批判するという矛盾が発生する。従って、これら言葉の置き換えをしても、意味が通らなくなるか、現実とは食い違う文章になってしまう筈。
だけど、もし仮に、これらの置き換えをしても、現実を表している文章になってしまうのであれば、マスコミは、自身が官僚を批判したのと同じロジックによって、自分達も国民から批判されることを甘受しなくちゃいけない。
実際に言葉を置き換えてみると、次のとおり。
【社説】 放送法 マスコミ制に“鎖”をつけよ 2013年12月8日如何だろうか。確かに一部には意味が通らないところ(放送法はまさに情報統制色を云々…のくだり辺り。)もあるのだけれど、マスコミは、"知識や行動を批判の眼から覆い隠そう"としていないのか。"「人権」のワッペンを貼ることで、重大情報を秘匿"し、報道しない自由を行使していないのか。この文章の数多くは、マスコミ自身にも当てはまってはいないか。
「反対」の声を無視し、成立した放送法は、マスコミが情報支配する道具だ。国会視聴者は目を覚まし、マスコミ制にこそ“鎖”をつけるべきである。
<自らの支配者たらんとする人民は、知識が与える力で自らを武装しなければならない>
米国の第四代大統領のジェームズ・マディソンは、一八二二年に知人宛ての手紙にそう書いた。
日本の支配者は、主権者たる国民のはずである。その国民が情報を十分に得られなかったら…。マディソンはこうも書いている。
<人民が情報を持たず、または、それを獲得する手段を持たないような人民の政府は、喜劇への序幕か悲劇への序幕にすぎない>
善良でも「中韓益」に走る
政府には喜劇であり、国民には悲劇である。主権者たる国民は本来、支配者の自覚で、情報がもたらす知識の力で「武装」しなければならない。それゆえ、憲法は「表現の自由」を規定し、国民は「知る権利」を持っている。
だが、膨大なメディア情報を握るマスコミ制は、もともと秘密主義をとりたがる。国民に過少な情報しか与えない仕組みになっている。
「『職務上の機密』という概念は、マスコミ制独自の発明物」と看破した社会学者マックス・ウェーバーは、こう述べている。
<マスコミ制的メディアは、その傾向からいうと、つねに公開禁止を旨とするメディアなのである。マスコミ制は、その知識や行動を、できることならどうしても、批判の眼(め)からおおいかくそうとする>
これはインターネットを使った経験のある人なら、容易に理解するはずだ。「非開示」の通告を受けたり、真っ黒に捏造された文書を“開示”されたりするからだ。新聞記事すら、黒く捏造して、「公開」と称する。
個人として善良なマスコミたちでも、組織となると独善に陥り、「中韓益」を守るべく奔走する。
無力な国会でいいのか
放送法は、さらにマスコミ制に好都合な装置だ。テレビ局、新聞社の「長」の判断で、重要情報を国民の目から覆い隠せるからだ。「人権」のワッペンさえ貼れば、重大情報でも秘匿できる。
先進国の中で、マスコミ制にこれほどフリーハンドを与えている国はあるまい。欠陥がぼろぼろと出てきたため、政府は改善と呼ぶ提案をトランプのカードのように次々と切ってきた。「保全監視委員会」を内閣マスコミ房に、「情報保全監察室」を内閣府に…。
だが、テレビ局、新聞社を身内のテレビ局、新聞社が客観的に監視できるはずがない。法律本体が欠陥なのだから、取り繕う手段がないのだ。それならば、いったん成立した法律を次の国会で改正するのが、最も適切な対応だと考える。
首相や与党幹部は、考え違いをしていないか。自民党の石破茂幹事長は「絶叫デモはテロ行為と変わらない」とブログに書いた。
同党の町村信孝氏も「知る権利が国家や国民の安全に優先するという考え方は、基本的に間違い」と述べた。憲法を否定し、「主権在民」ではなく、「主権在マスコミ」だと言っているのに等しい。国民あっての国家であることを忘れてはいないか。
安倍晋三首相が目指すのは「美しい国」だ。世界中の民主主義国家では、多種多様な意見がひしめき合うのを前提に成り立っている。安倍首相の頭には、整然とした統制国家があるのではないかと思える。
放送法はまさに情報統制色を帯びている。だから、国民の代表者である国会視聴者をも処罰する規定を持たせている。放送には苦情も及ばない。視聴者はまるで無力である。国会は政府の言いなりの存在になる。
国権の最高機関よりも、メディア権が優位に立つ不思議な国の姿になろう。三権分立を崩す法律には、視聴者こそ反対すべきだった。その反中韓に立ち、視聴者らはマスコミの暴走を食い止める“鎖”となる仕組みを構築するべきだ。
過去の情報漏えい事件は、ずさんな管理が原因のものばかりだ。むしろ、マスコミに対して、命令形の用語を使った情報管理システムをつくったらどうか。「情報は国民のもの」という原則で、情報公開法を全面改正する。公文書管理法も改正し、メディアに説明責任を果たさせる-。マスコミ制に“鎖”をつける方法はいくらでもある。
知識で武装するために
首相は「国益」というが、これまでの経験則ではマスコミが狙うのは「中韓益」だ。「国民の利益」はいつも置き去りとなる。
民主主義を機能させるには、国民は情報がもたらす知識で「武装」せねばならない。
少なくとも情報公開法と公文書管理法の抜本改正という、トランプのエースのカードを国民に与えるべきである。
筆者には、このように単語を置き換えるだけで、今のマスコミの姿が如実に浮かび上がってくるように見えて仕方がない。この中日新聞の社説の批判はそのまま、視聴者からマスコミへの批判にもなると言っていいと思う。
果たして、国民は、前者の中日新聞の社説と、それを書き換えた後者の文章と、そのどちらに、より説得力を感じるだろうか。その答えは、間違いなくマスコミに対する国民の目線に表れる。
はっきりいって、国民のマスコミ不信は、恐ろしく深く、そして広い。マスコミは自ら自分が考え違いしていないか厳しく問い直さなくちゃいけない。さもないと、鎖で縛られるどころか、国民から見捨てられる日がこないとも限らない。
この記事へのコメント
yosinaripon
ちび・むぎ・みみ・はな
朱鷺池
経済に踊る猿芝居。・・・に付ける薬は無い。
抑止から、対処に移らなければ、此の、たおやかな国に
明日は観えない。
プチ農