今日は、この話題です。

1.絶叫戦術は民主主義の手法ではないとする石破氏
12月2日、自民党の石破幹事長は、ブログで特定秘密保護法案に反対する国会周辺のデモを「絶叫戦術はテロ行為とその本質であまり変わらない」などとした部分を撤回した。
事の発端は、石破幹事長のオフィシャルブログでの11月29日付の記事「沖縄など」での表現。石破氏はこの記事の中で次のように述べていた。
石破 茂 です。とこのように、絶叫戦術の本質はテロ行為のそれと殆ど変らないとしていた。
《前略》
今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。石破ブログ「沖縄など」より
この発言に対して、野党は一斉に反発。維新の会の松野頼久幹事長は「巨大与党の驕りだ。当然、法案審議にも影響が出るだろう」と述べ、みんなの党の浅尾慶一郎幹事長も「デモは、人を殺傷するテロとは本質的に違う」と強調。共産党の市田忠義書記局長は「国民の声をテロと断じており、許し難い発言だ」と批判している。
マスコミも「テロの定義が拡大する恐れがある」とか「表現の自由との兼ね合いから問題視される」とか、その多くは批判の論調を展開している。
批判を高まりを受けた為なのか、石破氏は、12月2日付のブログ記事「お詫びと訂正」で、絶叫戦術はテロ行為とした部分を訂正した。次に引用する。
石破 茂 です。と、テロの部分を撤回し、「本来あるべき民主主義の手法とは異なる」に差し替えた。
整然と行われるデモや集会は、いかなる主張であっても民主主義にとって望ましいものです。
一方で、一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います。
「一般市民に畏怖の念を与えるような手法」に民主主義とは相容れないテロとの共通性を感じて、「テロと本質的に変わらない」と記しましたが、この部分を撤回し、「本来あるべき民主主義の手法とは異なるように思います」と改めます。
自民党の責任者として、行き届かなかった点がありましたことをお詫び申し上げます。石破ブログ「お詫びと訂正」より
では、その「本来あるべき民主主義の手法」とは何かというと、石破氏は撤回表明した記事の前段部分で「一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れない」と述べている。
要するに、絶叫戦術は民主主義の手法ではないということ。石破氏は記者会見でも「一般の人に恐怖の念を与えたり、静穏を妨げたりすることはやっていいことだとは思わない」と述べていることからみても、そう認識しているものと思われる。
2.デモとテロは何が違うのか
ここで、デモとテロの定義について確認しておきたい。国語辞典(Web辞書)でデモとテロをそれぞれ引くと次のように定義されている。
デモンストレーション【demonstration】とこのように定義されているのだけれど、デモとテロをそれぞれ、目的と手段とに分けてみると、デモの目的は「抗議や要求の主張を通す」であり、テロのそれは「政治的目的の達成」になる。そして、デモの手段は「集団で威力を示す、示威運動」であり、テロの手段は「直接的な暴力やその脅威」になる。
1 抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すこと。示威運動。デモ。
2 宣伝のために実演すること。
3 競技大会で、正式の競技種目以外に公開される競技・演技。公開演技。
※【示威運動】 多数の者が意思・要求を通そうと、集団で威力を示すこと。また、その集会や行進。デモンストレーション。デモ。
テロリズム【terrorism】
政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。テロ。
ここで、双方の目的と手段を比較すると、デモもテロも、その目的が「自らの主義主張を達成する」ことにあるのに対して、手段において、示威運動にとどまるデモと、直接的暴力に訴えるテロという具合に「暴力的手段」を使うか使わないかという手段の違いがある。
だから、みんなの党の浅尾幹事長が「デモは、人を殺傷するテロとは本質的に違う」と述べているところの"本質"とは「人を殺傷する」という手段の部分を指しているものと思われる。
確かに、デモ行進中にデモ隊の中の誰かがいきなりロケット砲かなんかをぶっ放して、多くの人を殺傷させたとしたら、間違いなくテロ行為になるだろう。また、デモ隊がそれを見ている群集に暴力を振るったとしたら、それもテロ行為とみなされるかもしれない。
であるならば、デモもテロも、その目的においては、どちらも自らの主張を通そうとするものであるにも関わらず、暴力を使う、使わないで、くっきりと線引きされるということになる。
では、なぜ、自らの主張を通すために"暴力"が必要とする考えが出てくるのかというと、おそらく、暴力自身が持っている"他者に対する強要性"の強さにあると思われる。
誰だって、自分の命は惜しいし、財産は守りたい。それを強制的に奪う力とは何かというと、突き詰めれば「暴力」に行きつく。法の執行とて、その裏には警察力という"力"があってこそ、成立する。
だから、暴力はそれ自身、最大といってもいい強要性を持っている。それに対抗するためには、その暴力と同程度又はそれ以上の暴力を用意するしかない。
テロリストとて、正面から正規軍と戦ってもまず勝てない。それは、正規の軍隊の武力が、テロリストのそれを上回っているのが普通だから。ゆえに、テロリストは、相対的に自分達より武力の劣る一般市民に対して暴力を行使して、その主張を通そうとする。
目的の為には手段を選ばないのがテロ。
では、暴力を使わない(ことになっている)デモには、果たして強要性があるのか。
3.デモの要は説得力にある
民主国家において、個人が自身の主張を通したいと思ったとき、それを実現するためには、一定数以上の"数"を揃えなくてはいけない。
その為には、自身の主張を多くの人に伝えて賛同を得るか、又は、既に多くの人の信認を受けた代議士に伝えて、その主張を代弁して貰うことになる。
だけど、メディアも後援会も持たない一国民がその主張を多くの人に知らしめるなんて簡単なことではないし、よしんば、地元の代議士に代弁して貰うことができたとしても、せいぜい、一人か二人くらいのものであり、その代議士が他の代議士を次々と説得してくれない限り、その主張は、国会の中の一票か二票にしかならない。主張を叶えるためには途方もない時間と労力を必要とする。
その意味において、デモは、そうした個人の主張を多くの人に知らしめるための恰好の手段だといえる。デモに一定以上の数が集まれば、それだけ国民の賛意を集めているということだから、メディアが公平であるかぎり、取り上げざるを得ない。
その時、その主張はデモを通して、多くの人に知られ、また、各地域の代表たる代議士への圧力になる。これがデモの意義。
だから、デモはその主旨からいって、自発的なものであり、強要性は低いと見做すのが基本。その気もないのに、わざわざデモ行進するほど暇な人はそうはいない。基本的に、デモの参加者はその主旨に対して"自発的に"賛同しているという前提にある。
※まぁ、現実には、付合いとかしがらみとかなんかでデモに"動員"されることもあるだろうけれど、ここでは触れない。
だけど、デモといっても、10人、20人といった少人数のものであったり、一回こっきりで終わるような一過性のものだと、世間に訴える力はあまりない。その程度では、支持されていると世間は見てくれない。
やはり、デモを繰り返す度にどんどん人数が増えてくるのが望ましい。それでこそ圧力になる。
だけど、そんな甘い話はそうそう転がっていない。
多くの人々の賛同を得るためには、その主張に共感し、納得して貰わなくちゃいけない。つまり、その主張には、一定以上の説得力が必要とされるということ。"強要性"を伴わないデモにおいては、この"説得力"こそが、支持を得るための大切な要素となる。
価値観が多様化した現代社会において、多くの人々の共感を得るほどの"説得力"を持たせるのは中々大変。あれほどマスコミが反原発を煽っても、選挙では逆の結果となった。
何度デモをやっても、世間が支持してくれないと、デモの中の人は段々とイライラしてくるもの。勢いデモの声は大きくなり、強圧的になることがあったとしても分からないことはない。
だけど、それは、単に、貴方達に説得力がないだけであって、世間が悪いわけでも何でもない。
日本国憲法において、「表現の自由」は認められている。だけど、その「表現の自由」は、確かに主義主張をする人に認められてはいるけれど、それを"拒否する"と表現する人にも、同じように認められている。
表現の自由とは、言葉を変えれば、互いの主義主張がぶつかり合うことであり、その中で、個々人が自分自身で判断していくことを意味してる。だから、たとえ、相手が自分の言うことを聞かないからといって、大声で威嚇したり、何らかの手段で"強要"するのは筋が違う。おそらく石破氏は、絶叫戦術の中に何らかの"強要性"を感じたのではないかと思う。
政府は、他人を殺傷するものをテロと定義している。もしも、人を殺傷する"絶叫"というものが存在するのなら、デモもテロに成り得るけれど、平衡感覚の喪失や偏頭痛を引き起こすができるという音響兵器LRAD以外でそんなものがあるとは寡聞にして知らない。だから、特別なものを持ち出さない限り、通常のデモはテロにはならないだろうと思われる。
だけど、そのデモの中に他人に対して強要する要素が増えてくればくるほど、本来のデモから離れていくことには注意しないといけないし、殺傷という一線を超えてしまうと、その瞬間、デモはテロになる。
説得と強要は違うもの。これをはき違えてはいけない。
この記事へのコメント
八目山人
右翼はそれをきちんと守っています。つかまらないために。
太鼓を叩いたデモでは、きちんと法律は守られているのでしょうか?
オーバーしていればテロに近い。
白なまず
お天気
右翼の街宣車も軍歌ならして走ってるんだから聞きたくない人に取ったらテロ!
選挙の名前連呼も洗脳されそうで不快なのでテロ!
これが通ったら国会議員なんて調査権が無くなるから不必要になり
裁判所も裁判できなくなりますよねぇ!
極端って?
まさか現実ですよ!
油断するなよ日本国民!
とおる
ほとんど「テロ」を都合によって「デモ」といいくるめるマスコミ。