
更に更に、昨日の続きですけれども、今日でひとまず、このシリーズは終わりとさせていただきます。

シンガポールで先月25日まで開催されていた、12ヶ国によるTPP閣僚会合は、知的財産など難航分野で妥協点への方向性を示す「大筋合意」ができず閉幕した。
共同声明では、「前回の閣僚会合で特定した『着地点』の大部分で合意し、残った課題にも解決への道筋を示した」としているけれど、関税撤廃などの市場開放については、「残りの作業の重要な部分」と位置付け、高水準の自由化を目指して各国内の調整を本格化する、という方針を出すにとどまった。
アメリカ通商代表部(USTR)のフロマン代表は閉幕後の共同記者会見で、「まだ立場の隔たりはあるが、高水準の包括的な合意に向けて協議を続ける」と述べている。だけど、12ヶ国側は、次回の閣僚会合の開催は明示しなかった。
大筋合意ができなかったのは、日米間の関税撤廃の協議で折り合えなかったことが最大の理由で、日本は、コメ、麦、牛・豚肉など重要5項目の農産物関税の維持を求めていたのに対して、アメリカ側はほぼ全品目の市場開放を主張して譲らず、協議は平行線に終わった。
このため、日米両国は今後、事務協議を重ね、妥協点を模索する方針で、フロマン代表は4月に行われる日米首脳会談では「TPPが議題の一つになるだろう」としている。
これについて、安倍総理は、2月27日の衆院予算委員会で、TPPの日米交渉が4月のオバマ米大統領との首脳会談までに合意にするかどうかを問われ「あらかじめ期限を切るのは自らの手を縛り、逆に足元を見られる危険性がある。いつまでにと、期限を切ることはすべきではない」と答えている。
こうしたことから、通商交渉の現場からは、このままTPP交渉が漂流するのではないかという思惑が生まれ、それが通商交渉で受け身に回りがちだった中国の立場を強める効果をもたらしているという意見も出てきているという。
アメリカの通商代表部(USTR)は、2010年から毎年、知的所有権保護に違反し、アメリカ企業及び従業員に損害を与えている企業、マーケット、ウェブサイトを一覧にした「悪名高き市場」(notorious market)リストを公表して、世界各国における海賊版、模造品などの販売の幇助となっている市場を名指しで指摘している。
今年も2月12日に2014年版が更新され、中国からは広州駅の衣料品卸売り市場、百脳匯電脳城、深セン市羅湖商貿センターなど多数の市場がリストアップされたほか、DVDのコピーデータを配布しているウェブサイトなどが取り上げられた。
特に、中国に拠点を置くDVD販売のAiseesoft.comは「ユーザーが権限のないやりかたで技術的保護手段の裏をかくことを可能にしている」などと非難し、中国における市場を「法的な義務で、偽造商品の取り締まりに有効に取り組む考えではあったが、それらの政策と義務が実際に活発に強化されているようには見えない」と手厳しい。
TPP交渉には知的財産分野も入っているから、TPPは、こうした中国のパクリ製品に対する牽制の意味合いも含んでいる。
昨日のエントリーで、筆者は二極化する消費社会の中では、「楽」を与える商品が重視され、その為には、「物語」が必要だと述べたけれど、オリジナルとパクリとの間には、この「物語」の部分で大きな差がある。
パクリ商品には「物語」がない。上辺や形を似せることはできても、オリジナルではない以上、その商品に込められた「物語」がない。だから、共感を呼び起こせない。まぁ、物理的・肉体的な「楽」を与えるところの機能についてはパクリであっても、オリジナルと左程差がないものが作れるだろう。だけど、せいぜいそれ止まり。そこから先の、精神的な「楽」を与える部分には届かない。
ゆえに、日本のように、精神的な「楽」を与える商品が求められるような社会であればあるほど、パクリ商品は流行らない。
台湾の李登輝元総統は、先月、雑誌「Wedge」のインタビューに対し、これからの国家経済運営について次のように述べている。
《前略》李登輝元総統は、中国の国家資本主義的「北京コンセンサス」を外国の資本と技術を頼りに、国内のあり余った労働者を活用する手法だと述べているけれど、"パクリ"商品も外国の商品を頼りに国内労働者を活用する手法だといえなくもない。たとえパクリ商品が売れたとしても、「物語」はなく、イノベーションする力も生まれない。
経済成長の道は、国内消費、投資、輸出、そしてイノベーションの4つ。
日本は、台湾と同じく、資源を持たない。しかし、新しい製品をつくる技術と開発力がある。このような国にとっての柱は輸出であり、為替が重要だ。為替切り下げは近隣窮乏策だという人がいるが、そうならない。輸出が増えると輸入も増える。
《中略》
私はこれからの国家経済運営において、中国の国家資本主義的「北京コンセンサス」も、米国の新自由主義的「ワシントンコンセンサス」もうまくいかないと見ている。
北京コンセンサスは、外国の資本と技術を頼りに、国内のあり余った労働者を活用する手法だ。成長率は高くても、中産階級は生まれず、格差に国民の不満が渦巻いている。
「小さな政府」を志向し、国境を越えた資本の自由な移動を推進するワシントンコンセンサスも問題が多い。グローバル資本主義はこれまで世界経済をダイナミックに拡大させてきたが、金融市場の不安定性、所得格差拡大と社会の二極化、地球環境汚染の加速や食品汚染の連鎖といった本質的欠陥を解決できていない。
《中略》
経済発展は、元手となる初期資本をどこから生み出すかにかかっている。西欧は植民地から奪うことができたが、アジアの国々は地租を基礎にするしかない。日本の戦後の傾斜生産方式はその代表例だった。
今後も、グローバル資本主義にただ任せておけば国内の経済が良くなるという可能性はあまりない。個別国家の役割は依然として重要で、とりわけ指導者の責任は重い。その意味で、安倍総理が打ち出している「3本の矢」を高く評価している。
《後略》
また、その一方で、李登輝元総統は、グローバル資本主義にただ任せておけば国内の経済が良くなるという可能性はあまりないと述べている。李登輝元総統は、グローバル資本主義は、金融市場の不安定性、所得格差拡大と社会の二極化、地球環境汚染の加速や食品汚染の連鎖といった本質的欠陥を解決できていないと指摘しているけれど、確かに効率を重視して、儲けだけを考えた経済活動が行き過ぎる、それ以外のものは放置され、問題として残ってしまう。
李登輝元相当は、経済成長の道は、国内消費、投資、輸出、そしてイノベーションの4つとしているけれど、これらには、インフラの整備が大きく影響を及ぼす。
これまで一連のエントリーで述べてきたように、充実したインフラは国内の物流や交流を活発化させ、消費、投資を促すのみならず、イノベーションの種ともなる。趣味が高じて素晴らしい商品を生み出す可能性がある。また、それらの結果として、輸出競争力の高い製品が生まれてくる。
以前、科学技術は、時間と空間を短縮すると述べたけれど、インフラはそれらの社会へのインストールだといえる。インフラが充実してこそ、多くの人が科学技術を利用することができるようになる。
つまり、人はインフラを通じて、自らの時間と空間を節約する恩恵を得ているのだけれど、その意味では、インフラには人に課された「時間と空間」という制約を"緩和"する効果がある。
そして、人は、インフラによって得た「時間と空間」を別の「価値」に"変換"することで社会に富を齎している。だけど、その変換工程において、幾ばくかの抵抗とノイズが存在する。それが規制と批判。
規制は、人或いは企業体が、新しい考えや商品を生み出す際の「抵抗」として立ちはだかる。今では当たり前になっている民間業者の「宅配」だって、最初は規制によってそれが許されなかった。今でも、手紙や請求書など書類の多くは「信書」とされ、配達できる業者が法律で厳しく制限されている。
この「抵抗」を司っているのが役人で、"許認可制度"や"各種規制"を駆使して、その抵抗値を調節している。
また、新しい何かをやろうとしても、マスコミの社説や世論という名の「ノイズ」がそれを混乱させることもある。例えば、新しくはないけれど、NHKの籾井新会長が放送法に基づいたNHKにするといっただけで、他のマスコミは大騒ぎして叩いている。なんとか籾井会長を引きずり降ろそうと躍起になっている。
このように、折角インフラの恩恵によって手にした「時間と空間」を使って、新しい富に変換しようとしても、「規制」が多ければ多いほど、「ノイズ」が酷ければ酷いほど、その変換効率はどんどん落ちることになる。
この時、変換効率を極大にしようとしたら、抵抗をゼロにして、ノイズも抑えるようにすればいいのだけれど、こを究極にまで進めると、その行きつくところは「新自由主義」となる。
確かに新自由主義は、変換効率は最大になるのだけれど、「グローバル資本主義」という配線は、世界中に張り巡らされている。ゆえに、この配線と繋げてしまうと、折角変換した"富"という電流の何割かは、配線を伝って国外に流れていってしまう。ここが「グローバル資本主義」が問題視される原因のひとつ。
グローバル資本主義は、その資本の力によって、国内産業を破壊することがある。それをさせないために「関税」という減圧回路を入れたりしているのだけれど、国内産業を破壊するということは、それに付随した伝統や「物語」までも破壊しかねないことを意味してる。
御当地アニメが「御当地」でいられるのは、その土地にしかない独特の文化や建造物を描けるからで、どの地方にいっても、同じ建物、同じ景色で、方言どころか英語で会話するような社会だったとしたら、御当地なんてとても描けない。
TPP交渉が難航するのも結局は、御当地の文化や物語を如何にして守っていくかの話に帰結するのではないかと思う。
確かに、戦後日本は大分アメリカナイズされた部分があることは否定できないけれど、全部が全部そうなってよいのかは別の議論。TPP交渉に「御当地理論」がどこまで通用するのか分からないけれど、そうした部分の議論は必要ではないかと思う。
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