今日は久々に文化系エントリーです。
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1.折形文化
韓国の起源主張癖がまた顔を覗かせている。
7月24日、韓国の紙文化財団・世界折り紙聨合理事長の、ノ・ヨンヘ氏が、慶煕大国際教育院で、日本への国費留学する大学生100人を対象に「私たちの折り紙・紙文化の世界化のために」と題した特別講座を開いた。
ノ・ヨンヘ氏はその中で、「全世界の人々の大部分は折り紙と言えば日本の"おりがみ"を思い出すが、実際は韓国が折り紙文化を先導した宗主国です。…私たちは先祖から伝えられた世界一の紙文化と折り紙の伝統があるが、世界の多くの国で折り紙の外国語は"おりがみ"で通用している。…空手との競争に勝ち抜き、オリンピック種目に採択されたテコンドーの事例をモデルとして韓国語そのまま"折り紙(チョンイジョプキ)"と発音し、表記する時も[Jongie Jupgi]にできるよう努力している」と紹介した。
そんなに起源を主張するなら、証拠の一つや二つ出してからにしたらどうかと思うし、起源が何処であれ、それがどう文化として花開き、世の中を潤したのかのほうが余程大切なのではないかと思う。だけど、彼らの"チョンイジョプキ"とやらが何を齎したのかなんて頓と聞いたことがない。
日本の折り紙のルーツは鎌倉・室町時代にまで遡る。
日本では、季節ごとの農事や祭りなどで、よく、神様に捧げるお供え物の下に紙を敷いたり、包んだりするけれど、既に、平安時代頃から、公家の間で贈答品などを紙で包む風習が始まったといわれている。
そして、鎌倉期には京の朝廷と幕府の間で頻繁なやり取りがあったことから礼法が形作られ、包みの風習が儀式化していった。室町期には、武家社会の礼法の一つとして、贈り物を美しく包む、折形(おりかた)と呼ばれる文化となった。これが折紙のルーツとされる。
室町時代以降、幕府の礼法指南役を務めてきた伊勢家の当主、伊勢貞丈が書いた「包結記」(1764年)には、古来からの進物の包み方、用紙、内容の記し方、立体図、展開図、途中図などが記され、これにより武士の礼法であった折形が広く一般庶民に知られるようになった。
その後、1797年に、桑名の長円寺11世住職・義道一円(号:魯縞庵)が、世界初の折り紙指南本「千羽鶴折形」を世に送り出している。
この「千羽鶴折形」には、49種類もの連鶴が紹介されているのだけれど、載っている図は展開図と完成図ばかりで折り方の解説は殆どない。どうやら、とても"レベルの高い"指南本のようだ。
折り紙はその名の通り、紙を折って形を作っていくのだけれど、当然その紙は薄くかつ丈夫でなければならない。段ボールのように厚ければ何度も折りかえせないし、また、いくら薄くてもトイレットペーパーのように脆い紙だったら、鶴を折ったところでクタクタになって形が崩れてしまう。
折り紙が"折り紙"足り得るのは、紙がちゃんとしているから。
製紙の日本への伝来は、飛鳥時代の610年に高麗僧「曇徴」によって紙漉きと墨の製法が伝えられたとされる。その後、100年余り経って、本格的な紙の国産化が始まり、737年(天平九年)には美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙が漉かれるようになった。
それからも、紙漉きの技術は日本独自の進歩を遂げ、やがて、薄いけれど破れにくく、更に張りのある紙、いわゆる「和紙」が発明されることになる。
和紙は、その繊維が西洋紙と比べて格段に長いため、薄くとも強靭で寿命が長いという特徴があるのだけれど、和紙が、住まいの襖や屏風が取り入れられるようになると、より丈夫さが求められるようになり、木の繊維を、薄く丈夫に漉く製紙法が発達し、また、繊維を幾重にも重ねて漉く技法が工夫されるようになっていった。
そして、行灯などが、12世紀末から江戸時代までの長い年月を掛けて普及するにつれ、薄くて光を通し、何度折っても破れない"和紙"として成熟していった。折紙に適した和紙はこうして生まれた。
その意味では、折り紙は、和紙と不可分の関係にあり、ある意味、和紙というハードの普及がインフラとなって折り紙というソフトを支え、育てたといえるのではないかと思う。
2.ミウラ折り
そうした分厚い折り紙文化の下敷きがあれば、またそこから新しい発明が産まれたりもする。
最近、折り畳み地図等でよく使われる折り方の一つに「ミウラ折り」というのがある。これは、対角線部分を持って左右に引っ張ると、ワンタッチで展開・収納ができる優れモノ。普通の四角折りと異なり、折り目がわずかに菱形になるように、アコーディオン状に折っていく。
折り畳み地図を普通に直線的に折ると、何度も開閉しているうちに、山折りと谷折りを間違えたりして、折り目を傷めてしまい、紙が切れ易くなってしまうことがある。
だけど、「ミウラ折り」は、長い辺の折り目は真っ直ぐだけれど、短い辺の折り目は、5度くらい傾いている。これによって、折り目の重なりが少しずつズレて嵩張らないのに加え、折り目が記憶されることで、開閉を繰り返しても、山折り、谷折りがひっくり返りにくく、折り目が傷まない。
この「ミウラ折り」は、東京大学名誉教授で宇宙構造物の権威である三浦公亮氏が、ロケットや飛行機などの構造物の「強度」について研究していた時に思いついた。
飛行機の機体のような円筒状のものを縦に潰すと、菱形が規則正しく並んだ模様ができ上がるけれど、三浦教授は、その模様の研究を続けていくうちに、潰れてしまった形であるにも関わらず、構造の強度が逆に増しているということに気付く。
三浦教授は、その研究を進める中で、潰れた円筒に現れる一定の法則性を持った図形を、外から眺めるだけではなく、筒の中から見たらどういう景色になるのかを考え、それが「ミウラ折り」の発想につながったと述べている。
「ミウラ折り」は、世界的に大変有名となっていて、折り畳み地図だけでなく、色んなところで使われている。
例えば、「キリンチューハイ氷結」のパッケージも、胴体部分に三角の窪み模様が並んでいるけれど、あれも「ミウラ折り」の一種(PCCPシェル構造)。三浦教授によれば、開けた途端に収縮が起こり、ダイヤモンド型のパターンがはっきりして、同時に強度も上がるのだという。
「キリンチューハイ氷結」の缶を製造している製罐業界トップメーカーの東洋製罐によると、普通のスチール製の缶で、強度を出すためには缶胴部の板厚はおおむね0.2mmの厚みが必要なところ、この「ミウラ折り」のパターンを付けることで、強度を保ちながら厚さを0.15mmまで削減することができるのだという。
この「ミウラ折り缶(ダイヤカット缶)」を開発した東洋製罐は、三浦教授のミウラ折りの文献を見て、缶にも応用できるのではないかと考え、1990年、開発に成功する。その缶は「キリンチューハイ氷結」ではなく、缶コーヒーの缶だった。
ところが、その「ミウラ折り缶コーヒー」は売れ行きは伸びず、間もなく生産終了となってしまった。
その後、90年代後半になって、東洋製罐は、ミウラ折りをスチール缶ではなく、アルミ缶に使用してみる。ところが、元々強度が弱いアルミ缶は、ミウラ折りを使っても、結局膨らんでしまい、凹凸がつかないという問題点があった。そのため、最初は商品化までには至らなかったのだけれど、ある日、担当者が試作飲料を廃棄しようとフタを開けたところ、外気に触れ、パーンと元のミウラ折りに戻った。これをみて何かに使えるぞと、商品開発が再スタート。
そして、アルミ缶にミウラ折りを施すというデザイン性に着目した酒造メーカーが、「ミウラ折り缶(ダイヤカット缶)」を採用。「キリンチューハイ氷結」が誕生することになる。
3.折り紙の神
また、折り紙そのものも進化している。今では、まるで「模型」かと見紛うばかりの作品をたった一枚の紙から折る「折り紙作家」と呼ばれる人までいる。
テレビ番組『TVチャンピオン』で何度も「折り紙王」に輝いた経歴を持つ、神谷哲史氏もそんな「折り紙作家」の一人。
彼の作品は、日本を始め、世界中の国々で高く評価されているのだけれど、作品を作るのに、平均的で半日程度。難しいものだと1日から2日掛けて折るという。そして、極端に難しいものになると、1ヶ月くらいかけることもあるそうだ。
だけど、新作に取り掛かる時でも、羽はこういう形で折ったらできるから…というのを考えて、次にそれをどうやって一枚の紙に収めようかと考えを進め、それからやっと折り始めるそうで、折りながら、あちら側へ折ったり、こちら側へ折ったりと試行錯誤することはあまりないのだという。
神谷氏は、「作品を作る時には、題材と技術的なものの2つの兼ね合いになりますね。題材というのは、面白い形のものがあって作ってみようということで、技術的な方は、例えば、こういう表現の仕方があるんだけど、このひだをウロコに使えるかな、とか、羽に使えるかな、ということで、実際にはその2つが同時に進行していて、この表現をこの題材に使ったらどうなるかなということを両方考えます。」と述べているけれど、筆者のような"折り紙オンチ"には、魔法を使っているとしか思えない。
そんな神谷氏も、作品に使う紙には和紙を使うという。やはり、和紙は折り畳みに強く、広告紙などとは違うそうだ。
折り紙ひとつとっても、その裏には文化の堆積があり、それを支える和紙というインフラがある。どこかの国のように簡単に起源を主張できるようなものではない。
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と云って賞め出した。自分はこの言葉を面白いと思った。それで一寸若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」と云った。
運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面が忽ち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾んでおらん様に見えた。
「能くああ無造作に鑿を使って、思う様な眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言の様に言った。
するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈はない」と云った。夏目漱石「夢十夜」第六夜より
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