新宿焼身自殺未遂事件と民主国家の条件
今日はこの話題です。
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6月29日、JR新宿駅南口の「新宿ミロード」と「新宿サザンテラス」をつなぐ「ミロードデッキ」と呼ばれる歩道橋で焼身自殺未遂事件が起こった。
自殺を図った男は50~60歳代で、鉄橋の上で拡声器を使い、「集団的自衛権反対」などと約1時間にわたって主張していたのだけれど、やがて男はペットボトルに入ったガソリンとみられる液体を自分にかけ、ライターで火をつけた。
火は説得に当たっていた救急隊員らが消し止めたのだけれど、男は全身にやけどを負う重傷を負い、病院に搬送された。幸いにも、他に怪我人はいなかった。
警視庁新宿署は身元の確認を急ぐとともに回復を待って軽犯罪法違反の疑いで事情を聞く方針だという。
こんな発言は不謹慎だけれど、公衆の面前で、飛び降り自殺はあっても、焼身自殺などおよそ日本人らしくない。海外メディアもそう感じたようで、AP通信は、男性が日本政府による防衛政策変更の動きに抗議していたとしながら、日本では珍しい過激な抗議活動」とし、「これまで、日本では焼身自殺が行われることはめったになかった」と報じている。
日本国内でもこの事件に対する反応は、賛否両論様々。
北海道道議の小野寺まさる氏は「死にきれずに多大な方々に迷惑をかけた愚行」とツイッターで批判したのだけれど、それに対して、「抗議の焼身自殺なのに…。民意に寄り添えない議員はとっとと辞めてほしい」「国民の思いを想像できませんか?」との反論が寄せられるなど、結構荒れている。
また、逆に、特攻隊など自己犠牲を美化する靖国参拝を許すなって人たちが焼身自殺の自己犠牲を賛美するのはどうなのかという批判に対して「この日本で、チベットのような手段で訴えなければ、政治が変わらない!と思う人が出てしまったことを重く受け止めませんか?」と反論する人もいる。
そして、メディアの反応という意味ではどちらかといえば、国内より海外メディアのほうがよりこの事件を取り上げているようだ。
ただ、海外メディアがいきなりここまで騒ぎ出すというのは、ちょっと違和感を覚えないでもない。
また、海外メディアに取り上げられたという意味では、今、話題のセクハラ野次を受けたという塩村都議もそう。6月24日、塩村議員は、日本外国特派員協会で記者会見しているのだけれど、今回の事件について安倍総理のメッセージを求む旨の発言もしている。
まぁ、随分大きくでたなと思わなくもないけれど、安倍総理は24日の午前、国会閉会後の各会派への挨拶回りの際に、みんなの党の浅尾慶一郎代表に「都議会の件は申し訳ない」と陳謝している。
尤も、塩村都議の対応について、快く思っていない人もいることは事実で、お笑いコンビ・南海キャンディーズの山里亮太氏は6月25日放送のTBSラジオ番組で「世界中に向けて、『日本、ダメですよ』っていうアピールになるの、日本ってわざわざやるの好きだよね。…『ここで言うのは違います、日本が疑われるんで』って、断る選択肢とかなかったのかな?…わざわざ、他の国がイジってくるようなことを発信する必要があったのかね?」と、外国特派員協会での会見を引き受けたことに疑問を呈している。
また、タレントのフィフィ氏も「一部議員が起こしたヤジ問題を特派員協会で会見して、あたかも女性軽視が風潮であるかのように誇張するのも如何と思う。慰安婦だとか日本のネガキャンに精を出す団体や国も多いんだからマイナスにしか働かないのに」と、同様に外国特派員協会での会見に否定的なコメントを出している。
まぁ、「告げ口」とは言わないまでも、独裁弾圧国家じゃあるまいし、海外にどうこう言う前になぜもっと国内でしっかり議論しないのか。増してや塩村氏は都民を代表する都議。何のために議会があると思っているのか。それこそ、議会でしっかり議論するのが先ではないかと思う。
筆者は、こういう、ある意味「外圧」を使うかのようなやり方は好きになれない。また、先の焼身自殺未遂もそう。
焼身自殺と聞くと、可哀想だとか、余程思いつめられたのだろう、といった、同情めいた気持ちが湧いてくることは人情としてあると思う。だけど、厳しい言葉を使えば、彼らのやっていることは「力による現状変更」と余り変わらない。
他者に強制を強いる力が"外"に向けば、テロになるし、"内"に向けば、自身を傷つける自殺となる。「力による現状変更」は何も武力だけとは限らない。
前者は"恐怖"を力とし、後者は"同情"を力とするという違いはあるけれど、どちらも外部からの強烈なインパクトによって、他人の心を縛り、それ以外の行動を取り辛くさせることには変わりない。要するに、力によって、他人の心を"現状変更"させようとするやり方だということ。
まぁ、独裁弾圧国家ならそれでもいいかもしれないけれど、民主国家はそうじゃない。自分も相手も、互いの自由を尊重し、保証した上で、あくまでも自由意志によって、行動を選択する権利が与えられている。
ゆえにこそ、投票に価値がある。
国民一人ひとりが、自由意志の発露によって、自らの未来を選択する。だから、国民主権が成立する。
説得と納得によって、人の心を動かすべきだという原則を忘れたとき、民主国家は民主国家でなくなる。自分の心が、恐怖や同情で縛られていないか、時折、注意する必要があるのではないかと思う。
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