■ブログの記事と知性について

 
今日は、諸般の事情により、過去エントリーの再掲です。申し訳ないです。

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1.記事を書くことで磨かれるもの

ブログを書くことと、知性の関係について考えてみたい。

ブログ検索のTechnoratiが発表したレポートによると、2006年第4四半期は、ブログ投稿数の多い言語の第1位に日本語が再びランクインしたそうだ。

現在、Technoratiが追跡しているブログの数は全世界で7000万。そのうち日本語で投稿された記事数は全体の37%に及ぶ。ただし、このランクは「記事の投稿数」なので、日本のブログ登録数の868万(平成18年3月末現在)を考えると、1ブログあたりの投稿数が多いのだろう。


ブログを書くことによって磨かれるであろう能力を思いつくままに上げてみると、

1.論理的思考能力の向上
2.関連知識・専門知識の増加
3.社会的アンテナの感度があがる

があると思う。

記事一本とっても、それを書くには、下調べはそれなりに必要になるし、筋道立てて考えなければいけない。頭の中でいくら分かった気になっていたとしても、実際に書き出してみれば、本当に分かっていたのかどうかはっきりする。

普通、頭のなかで思いつくことは、雑多な着想の断片であって、系統だったものじゃない。それを順序立てて論を組み立てていく力は、思いつきとは別のもの。だから、書いてみるという行為は論理的思考能力の向上に役立つ。付随効果として、関連知識や専門知識を、仮にうわっぺらであったにせよ、学ぶことができる。

また、ブログを続けていくと、何の記事を書こうかと常にテーマを探すことになるので、日常の観察が細やかになったり、社会への関心が高まる。結果社会的アンテナがぐっと伸びて、感度が良くなる。

社会派ブログを書くのは大変だったりするけれど、それなりの利点はある。


2.社会・政治系ブログ記事にみられる3つの類型

世に出回っているブログの多くはごくごく普通の人が書いていることが多い。

だから特に社会ニュースや政治を扱うブログなんかそうだけど、自分で取材して一次情報を入手するのはとても困難。いきおい情報の2次加工が中心になる。

これらの社会系・政治系ブログの記事には型があって、次に示す3類系に分かれると思う。
   
A)事実・事象に対する原因追求型      
B)事実・事象に対する論評およびその評価型     
C)事実・事象からの未来予測または対案提示型 

ブログでの記事は大体これらの類型のどれかまたはその複合型。

ブログの筆者の視点の方向性を時系列的にみるとA,B,Cの順に過去・現在・未来をみる視点に対応してる。

A類型のブログ記事は、原因追求がその主眼だから、真実の提示や暴露が中心になるし、B類型のブログ記事は、事実の論評だから筆者の見識が表れる。C類型のブログ記事はB類型と同じく見識と未来予測するところの予測力が必要になる。

A類型の原因追求型ブログ記事は、「思考は言語と言葉で構成される」エントリーでいうところの、概念の論理演算結果、それも目にみえる事象に対する原因追求だから、実数の答えから、逆に思考の論理演算式を推定してゆくようなもの。

中には、関係者しか知りえない内部情報を持っている筆者もいるのだけれど、その場合、その内部情報は、思考の演算式の項の一部になるから、その分だけ式の精度はあがる。

B類型の論評・評価型ブログ記事は現時点での事象に対しての評価。これはブログの記事を書く本人の価値観や認識力に大きく影響される。たまに感情も入ったり。よくある時事の記事を引用して論評するブログはこの型に入るだろうし、普段国内で目にしない海外記事を翻訳して紹介している(ありがたい)ブログ記事も、どの記事を選択して紹介するかという筆者の見識が入るので、これもB類型になるだろう。

C類型の未来予測・対案提示型ブログ記事は、未来に視点を置いているとはいえ、その分析の前提には、A類型のように過去の思考の論理演算式を推測して、それを踏まえつつ、未来のあり得る思考の論理演算式をつむぎ出してゆく。原因となる思考の論理演算式を理解・発見できて、現在の事象の意味を認識できて、未来への道筋を作っていく。結構大変な思考作業。

ネットの世界で価値があるものは、真実と暴露と高い見識。

A,B,Cのどの類型の記事でも、それぞれの記事内容がどれだけ「真実」に近いか、より真相を「暴露」してるか、より高い「見識」を持っているかによってブログの良し悪しを判定されているのではないかと思う。


3.本質を見抜く力

スーパーのレジで、バーコードで商品の値段を自動読み取りするとき、何故そんなことができるかというと、あらかじめバーコードのこの模様がこの値段だというデータがレジのシステムに入っているから。

りんごとappleは同じものを指すけれど、文字記号データとしては異なるもの。日本語と英語という、それぞれの言語に対応するデータベースが必要になる。

「apple=りんご」というデータベースを持っていないと、折角入力した情報は「読み取れ」ない。

だから事象を認知できるためには知識というデータベースがないといけない。

バーコードリーダーを直訳すれば、「バーコード自動読み取り機」くらいになるんだろうけれど、意味としてはそのとおりで、ただ読み取っているだけ。べつに読み取ったものを、認識しているわけじゃない。

認識であれば、対象に対して値段が高い安いとかなどの判断や意味づけが入る。りんごについたバーコードを読み取ったら、

「お客さん、入荷日と仕入先、それに他店と比較すると、これは30円高いです。」

なんて音声回答するレジがあったら、店からたたき出される。

認識力とは、見たり聞いたりした状況や人の言動に対する認識のクオリティのこと。認知した対象に、なんらかの意味付けや評価をする力。

同じ事実を見ても、人によって認識は様々に違う。有名な話だけど「アフリカの靴話」というのがある。


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一人のセールスマンのAさんは意気消沈して本社に戻って来て、こう部長に報告しました。「あそこには靴のマーケットはありません。なぜならみんな裸足なのです」。

さて、もう一人のセールスマンのBさんはいつまでたっても帰ってきません。心配になった部長が国際電話をかけると、Bさんは、意気揚々と言ったのです。「部長、ここのマーケットは無尽蔵です。なぜならみんな裸足なのです!」と。--


この「アフリカの靴話」例では、「誰も靴を履いていない」という「事実」に対して、Aさんの認識は「だから靴のマーケットはない」。Bさんの認識は「だから靴のマーケットは無尽蔵」。全く同じ事実に対して、正反対の認識をしている。

事象に対して評価を与える認識力。これは事象をどうみるかという見識とも言える。

加えてブログ記事を書くときには、対象を認知して、認識して判断し、それを他者に分かるように記事にしないといけない。

このシリーズエントリーの最初でも触れたけれど、特に系統だっていない個別事象とそれに対する認識を、順序立てて論を組み立てていく力は論理的思考能力、いいかえれば思索力に関わる。

だからブログ記事とは、筆者の知識の範囲内で捉えられる対象に対して、筆者の認識力によってその対象の問題と原因を見抜き、筆者の思索力によってそれらを表現したものと定義することもできる。



4.不明推測法と知識と認識力

思考の方法として、演繹法や帰納法と並ぶ第3の方法として、不明推測法(アブダクション)というのがある。

不明推測法とは、1890年にチャールズ・サンダース・ピアスが提唱した思考法。

前提から出発して結論に至る演繹法や、個別事例から一般法則を見つけてゆく帰納法とも違って、個別事例を引き起こした原因や法則をうまく説明できそうな仮説をたてて、その仮説が正しければ必然的に観測される筈の別の事象や現象を、調査・検証してゆくのが不明推測法。

科学者が最先端の分野でよく仮説を立てて、実験と観測を繰り返して、仮説の正しさを検証しているけれど、あれに良く似た考え方。

A類型の原因追求型ブログ記事を書く人は、意識するしないに関わらず、この不明推測法による思考を実際にしているのではないかと思う。

この不明推測法で思考する場合には、まず仮説を立てなければならないのだけど、その仮説の精度、確かさはそのまま記事の正しさに直結する。

仮説の精度は次の二つの能力に拠ると思う。

α)仮説を傍証するような別の情報、時には当事者しか知らないような内部情報を持っている。または、仮説と似たような事例についての豊富な知識を持っていて、仮説を容易に類推できる。

β)天才的な直感または洞察力・認識力によって、常に真実を見つけ出せるセンスがある。

αの能力は知識量に比例し、βの能力は認識力に依存する。この二つの能力が高いということは、「真実」を掴み取ったり、「高い見識」を持つことと同じだから、必然的にブログの質は高くなってゆく。


5.読書の意味

知識を増やす一番の方法は読書。読書で得られるのは過去の事例や今まで知らなかった概念。

歴史は繰り返すというけれど、過去の歴史の事例を沢山知っていれば、今の事象にひとつひとつ当てはめてみて何が起こっているか、これから何が起こりそうなのかを類推できる。そんな例は枚挙にいとまがないから、実際これらの知識は凄く役に立つ。


今の時代は人間が扱う知識がすごく多岐にわたって、ひとつひとつの領域の知識量もどんどん膨れ上がっていっている。後の時代になればなるほど、過去の知識が積み重なっていくから当たり前といえば当たり前だけど、科学技術や教育の普及によって、多くの人が知識にたずさわったり、扱えるようになったというのも大きい。

さらに、個々の領域の専門性が増していっている。だれもが簡単に追える世界ではなくなった。昔の哲学者達は、科学も数学も医学も人文も神学もなにもかも一人であつかったものだけど、今となっては遠い昔。一人で全部網羅なんてとても出来なくなってきている。

科学が発達して、CDやHDDなど外部記憶媒体の容量も年々増大していくにつれ、情報の全体量も膨れ上がっていくばかり。本もいってみれば、情報記憶媒体の一種だし、今ではネットも情報データベースの一翼を担ってる。

だからといって、本をわざわざ読まなくてもネットがあればいいじゃないか、というのは少し早計だと思う。知識を頭に入れ、腑に落とす作業は思索力と強い相関関係があるから。


6.思索力は記憶力と認識力の和

本を読んでその内容を憶えるとき、細部まで、時には一字一句まで記憶してしまう人もいれば、前提と結論だけ憶えてして後は忘れてしまう人とか、中には本の題名すら忘れてしまう人もいるかもしれないけれど、要は読書って、概念をデータにして頭に蓄積していく試み。

思索するには記憶力と認識力が必要。思考って互いの概念同士を論理で結んでいって思考の論理演算回路を作ること。

思考のプロセスは、普通、頭の中で回路の結線をしてゆくのだけれど、そこで使われる概念ブロックは、当然その人の頭の中にある、記憶されている知識しか使えない。だから記憶力の高い人、知識が沢山ある人は使用可能な概念の論理ブロックが沢山あることになるから、色々な回路を組みやすい。思考に幅がでる。

もちろん無限に記憶できる人なんて存在しないから、人は様々な外部記憶装置を使ったり、思考の補完ツールを使ったりして記憶力や思索力を補ったりする。

日々の着想を逃さずメモしたり、ポストイットに書いたりして、忘れないようにするのなんかはその典型。

確かにネットもそうだけど、本は外部記憶装置の役目を果たす。だけど、肝心な時に適切な概念を呼び出せないと意味がない。

Googleなんかの検索ツールを使って、ネットという外部記憶装置から情報を引っ張りだそうとしても、検索キーワードが適切じゃないと目的の情報は引っ張りだせないから、最低でもキーワードくらいは記憶していないといけない。

だけど、そんな思索に使うような情報を検索するキーワードって重要な単語であったり概念そのものを指したりするものだから、やっぱりある程度は概念を記憶できていないといけなくなる。

次に、それぞれの概念同士を結線してゆく力は認識力とも強く相関してる。認識力とは、互いの概念同士がいかなる関係で結びついているか、前段の概念からこういう論理を出力したら、次段の概念にどういう結果をもたらすか、そういう相互の関係を見抜いていく力。これが弱いと概念同士を結線していけない。

概念の結線作業の方法はといえば、頭の中でどんどん結線していける人は別として、有名なKJ法なんかを使って概念をカードに書いてみて、あれこれ組み合わせたり、ひっくり返したりして、目にみえる形で結線するのがある。

また、自分の頭じゃなくて他人の頭を借りてくるという方法もある。他の人とあるテーマについて話し合ったり、ブレーンストーミングみたいにどんどん意見を出したりして、自分では思いつかないような角度からの意見を聞いてみたり。言ってみれば、外部の認識力を借りてきて使う方法。

このあたりの知的生産の技術については山ほど本が出てるから、皆それなりに苦労しているということ。


7.心の言葉は認識力を高める

高い認識力とは、より広く、より多くの対象を的確に捉える力。理解できる力。

高い見識、高度な認識力とは、あらゆる立場からみても、あらゆる条件でみても確かにそのとおりと認められるような見解。文字通り高みに上って始めてみえる情景。中にはなんとも判断できなくて、やってみなくちゃ判らない事象ももちろんあるのだけれど。

知の性能でいえば、方位が広く、奥行きも深く、賞味期限も長いもの。

認識力は、対象をどう捉え、なんと意味づけしていくかということだから、その人の価値観や考え方に大きく左右される。だから認識力を高めるためには、自らの価値観や考え方そのものを高めていかないといけない。

それには、高次の思想に触れて、それらを自分のものとしていく必要がある。

内観して、思想を腑におとす。自分の心の言葉にする。自分の心に響く言葉というのは、自分の心にそれに感応するものがあるから。だから、心を磨いたり、心をゆたかにするということは、自分の心の言葉をどこまで増やしていけるかのポテンシャルを高めることにつながる。

言葉って、心の有り様の表現形式の一形態。心の言葉は、たぶん心のかたちを言葉という表現形態で「みえる化」したもの。

他にも絵画や音楽といった形態でも「みえる化」はできるとは思うけれど、必要とされる表現技術に高いレベルが要求されるので、あまり一般的ではないかもしれない。

「みえる化」できた心の言葉こそ、その人のもの。それはゆるぎないもの。

高次の思想に触れ、自らの心を磨いて、時にその一部を「みえる化」して、自分の心の言葉として自分のものにしてゆく内観。それが認識力を高めてゆく。

なにかの事象をぱっと見て、それが何であるか瞬時に認識できる力。その人の認識力は、その人の心の言葉に直結してる。

なぜかというと、事象はたんなる事象にしか過ぎなくて、それが「なにもの」であるかを示す名札がついている訳じゃないから。それが「なにもの」であると意味づけしてゆく材料は自分の中の心の言葉だけ。

知識を自分のものにしているということは、その知識を自分の言葉で一言ででも、長文ででも自由自在に表現できるということ。

言うなれば、10=5+5とでも、10=1+3+6とでも表現できるようなもの。

だから、たとえば、認識すべき事象が3だったとすると、自分の心の言葉となっている10を3+7と表現しなおして、その3の部分と同じではないか、などと照らし合わせながら認識していくことができる。

だけど、知識を心の言葉として、自分のものにしていないと、その一言一句どうりにしか理解していないから、自分の言葉で自由自在に表現できない。10は10としてしか認識していない。だから、そこに3という事象があっても10と3はイコールじゃないから認識対象外となってしまう。銀の匙がスープの味を知らないのと同じように事象だけが通り過ぎてゆく。

事象を認知するためには知識があればいいけれど、その事象を認識するためには心の言葉というデータベースがないといけない。

心の言葉は思考の出発点だから、ここがお粗末だとどんなに思索をがんぱっても、大した思考の演算式は得られない。がらくたの知識からは有益な思考は得られない。

知識自身は時間があればどんどん増えてゆくものだけど、認識力を高めるのは簡単じゃない。よく言われることだけど、単に本を読むだけじゃなくて、よく考えて、腑におとして、自分のものとすることは認識力を高めるには必要不可欠。

思想をしっかり咀嚼する。膨大な情報が溢れる今だからこそ必要なこと。万巻の書を全部読みきれるほど人生は長くはない。



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