運命の意思に挑んだブレイブハート
昨日のエントリーの続きです。
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1.敗北したスコットランド独立派
9月18日、スコットランド独立の是非を問う住民投票が行われた。
その結果、独立賛成が161万7989票、独立反対が200万1926票となり、独立反対が55.25%と50%を上回り、スコットランド独立は否決された。独立支持派は最大都市グラスゴーなどで優勢となったものの、他の選挙区で十分な票を得られなかった。
スコットランド独立賛成派のスコットランド国民党党首のアレックス・サーモンド氏は「スコットランドの人々は現時点で独立をしない決定をした。それを受け入れる」と敗北を認め、その上で、イギリスへの残留が決定した場合に、スコットランドの権限を拡大するという約束について「迅速に履行されることを期待している」と述べた。
イギリスのキャメロン首相は、「われわれは良く考えた上で達した、スコットランドの人々の意思を聞いた。…スコットランドが税や支出、福祉に関する自らの問題をスコットランドの議会で独自に採決するようになるのと同様、ウェールズ、北アイルランドだけでなく、イングランドもこれらの問題について採決できるようになるべきだ」と述べ、それらを履行するための憲法上の決定を進める意向を示した。そして、スコットランドへの権限移譲に関する法案を来年1月までに公表する方針も明らかにした。
昨日のエントリーでも触れたけれど、つい数か月前までは、独立賛成派が劣勢だったのが、投票直前になって接戦にまで持ち込めたのは、「独立よりも自治拡大」という中間派が第3の選択肢が無いために賛成派に回ったのが一因だと見られているけれど、結果として、スコットランドへの権限移譲が進むのであれば、中間派の望み通りであるし、独立賛成派にしても、一矢報いたとも言える。完全な敗北というわけじゃない。
スコットランドへの権限移譲については、スコットランド国民党は過去に敗北を喫している。1979年に実施された、スコットランド議会の設置を要求する住民投票は、賛成51.6%、反対48.4%だったものの、住民投票の可決には、住民投票での過半数を必要とするだけでなく、全有権者の40%以上の賛成を必要とする「40%条項」を満たすことができず否決されている。
この裏には、スコットランドへの自治導入は経済状況の悪化をもたらすとした、保守党と労働党のキャンペーンがあり、それが功を奏して、一般的な有権者が民族主義から離反したとされている。
今回の独立を問う住民投票でも、キャメロン首相が、現地の大手小売業界トップに「独立すれば値上げは避けられない」との声明を出すよう工作していたから、やっていることは当時と大して変わらないし、この工作がそれなりの効果を上げたとするならば、スコットランドの人々の本音は、独立よりは「いい暮らしがしたい」辺りにあると思われる。
では、なぜ、スコットランド国民党が掲げる「スコットランド独立」がそれなりの支持を集めるのか。それを探るために、スコットランドの歴史を振り返ってみたい。
2.スコットランド王国
1707年、イングランド王国と合同するまで、スコットランドの地には「スコットランド王国」が存在していた。
1018年頃、この地の、ロージアン、ストラスクライドを併呑し、スコット人、ピクト人、アングル人、ブリトン人の4民族を統合して成立したスコーシア王国が、スコットランド王国の原型と言われている。
1066年にイングランドにノルマン王朝が樹立。征服王ウィリアム1世がイングランド王位に就き、敗れたサクソン人の多くはスコットランド南部のロージアンなどに逃げ込んできたのだけれど、その中には、サクソン王位の継承者であるアシリングとその妹マーガレットがいた。
スコットランド王マルカム3世はマーガレットを王妃に迎え、サクソン流の生活、宗教制度や文化を取り入れ、サクソン・イングランド風の封建社会の建設に乗り出すことになる。
宮廷内の生活様式はサクソン風に改められ、聖職者は清貧にして独身を守るようになった。教会の諸行事や典礼は、ケルト方式からローマ方式となり、サクソンの教会制度が取り入れられた。宮廷内の言葉もゲール語に代えてサクソン語が使われ、服装や調度品・作法もサクソン風に改変された。
マルカム3世は、何度もノーサンバーランドなどのイングランド北部に侵攻したのだけれど、征服王ウィリアム1世に撃退された。1071年には征服王ウィリアム1世に攻め込まれ「イングランドへの臣従」を誓わせられることになった。この時の「イングランド王に臣従する」ことによって、スコットランドの安全を保持するという政策は、マルカム3世以降の代にも引き継がれていくことになる。
そして、マルカム3世の子、デイヴィッド1世は、父マルカム3世が手がけた国王直属の官制の確立に力を注いだ。彼は、ノルマン出身の友人たちの多くをスコットランドに招き所領を与え、更に補佐役として要職に登用、スコットランドの諸制度をノルマン流封建制度に改革していった。
経済では、イングランドの鋳造貨幣を真似てスコットランド史上最初のコインを鋳造して外国との貿易を奨励、「自由都市」の開設に着手した。そして、領地に城を築き、その周りに新しい都市を発展させた。
また、宗教面でも、司教区をグラスゴー、東部のブリーッヒン、中部のダンブレイン、北部のケイスネスおよびロスそして東北部のアバディーンに新設し、南東部のケルソウ、ドライバラ、メルローズに教会や修道院を新設した。
このデイヴィッド1世治世下で、スコットランドの生活様式も様変わりした。スコットランドの中部や南部では、古い慣習や伝統が一掃され、貴族はフランス語を話したものの、農民層はスコットランド語化した英語(Inglis)を統一された語として使った。
1135年、イングランド王ヘンリー1世が死去すると、その後を継いだスティーヴン王と、ヘンリー1世とデイヴィッド1世の妹との子であるマティルダとの間に王位継承の争いがおこる。それをみたデイヴィッド1世は、マティルダ支持を宣言してイングランド北部に攻め込み、カーライル、ニューカッスルを占領する。
だけど、1138年の「スタンダードの戦い」で敗北。カーライルとニューカッスルを失うことになる。その後、1140年にスティーブン王とマティルダが和議した結果、デイヴィッド1世は、ノーサンバーランド、カンバーランドなどの支配権を獲得する。
1157年、スティーヴン王の後を継いだ、イングランド王ヘンリー2世は、デイヴィッド1世の孫にあたる、スコットランド王マルカム4世を臣従者扱いし、ハンティンドン・ノーサンプトン伯領を与える代わりに、ノーサンバーランドの支配権を奪い取った。
マルカム4世の弟のウィリアム1世は兄の後を次いでスコットランド王となると、失ったノーサンバーランドの支配権を取り戻すため、ヘンリー2世に戦いを挑む。だけど、1174年、ノーサンバーランドの「アニクの戦い」でヘンリー2世軍に破れ捕虜となり、フランスに護送される。
この結果、敗れたスコットランドは「イングランドに完全に臣従する」のみならず、「スコットランドの教会をイングランドの大司教の管轄下に置くこと」、「イングランド軍をスコットランド南部に常駐させる」などの条件を飲まされ、聖俗共にイングランドの支配下に入ることとなる。
この条件は、1189年、イングランド獅子心王リチャード1世によって解除され、ウィリアム1世のスコットランド王としての主権が回復する。スコットランド王の紋章である「the Lyon」が用いられ始めたのもこの頃と考えられている。
だけど、このスコットランド王の主権も長くは続かなかった。
3.スコットランド黄金時代
1251年、デイヴィッド1世の曽孫のアレグザンダー3世は、イングランド王ヘンリー3世の圧力により、その娘マーガレットと結婚させられる。イングランド王ヘンリー3世は、アレグザンダー3世をイングランド貴族(ナイト)に叙した上で「イングランド王への臣従」を強要した。
その一方、イングランド王の娘と結婚したことから、イングランドと領土争いすることがなくなり、スコットランド南部が安定した。また、イングランドとの国境の東岸に位置するベリクが開港すると、貿易港、漁港として発展し、羊毛、毛皮、魚介類を輸出。教会や城が建設され、スコットランドの国民生活は潤った。
イングランドと領土争いから解放されたアレグザンダー3世は、北方の海賊ノルウェー軍の駆逐に取りかかり、これを平定。ヘブリディーズ諸島を奪回し、ノルウェー王マグヌス6世とパースで平和条約を結び、1266年にヘブリディーズ諸島を正式にスコットランド領とした。このアレグザンダー3世の治世はスコットランドの「黄金時代」と言われている。
その後、アレグザンダー3世の子達が相次いで他界し、1286年には、アレグザンダー3世自身もキングホーンの離宮へ向かう途中、嵐の中で落馬して命を落とす。アレグザンダー3世の長男には子供がいなかった為、またしても、王位継承を巡って争いが起こることになる。
そこで、アレグザンダー3世の長女マーガレットとノルウェー王マグヌースンの間に生まれた、当時3歳のマーガレットをその後継とした。このスコットランド王家の内乱を好機とみた、イングランド王エドワード1世は、皇太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレットの結婚を計画し、スコットランド王国に迫った。
イングランド王エドワード1世を恐れたスコットランドの長老や重臣は、スコットランド南部のバーガムでの交渉で2人の結婚を受け入れるのだけれど、スコットランドに固有の法と自由と権利は認めるものの、「スコットランドの王位継承権」はイングランドにあり、国境地帯のスコットランドの主要城塞にイングランド駐留軍を配置するという屈辱的条件を認めさせられてしまう。
こうして、新しくスコットランド女王となったマーガレットは、ノルウェーからスコットランドに迎え入れられることになったのだけれど、1290年、7歳の新女王が乗った船がノルウェーからスコットランドに向かう途中、大時化に遭い、女王は極度の船酔いのために他界してしまった。
そして、スコットランドは、また王の座を巡って、13人の王位継承者による争いが起こった。故マーガレット女王の伯父であり、同時に「スコットランド王国の宗主権者」であった、イングランド王エドワード1世と王の評議会は、ノーラムでスコットランドの摂政団と会談を持ち宗主権に基づいて、王の継承者を裁定するためにきたと告げ、スコットランド王に、ウィリアム1世の弟のデイヴィッドの長女マーガレットの娘でるデヴォグィラの子のジョン・ベイリャルを指名した。ジョン・ベイリャル王は、イングランド王に対しての臣従を誓わされ、エドワード1世の完全な傀儡王だったのだけれど、後に反乱を起こすことになる。
1294年、イングランド王エドワード1世は、スコットランド王と26人のスコットランド諸侯に対し、国外遠征に備えてポーツマスに集合するように伝え、イングランド宮廷で勤務するように命じた。
だけど、こうしたエドワード1世の傲慢不遜な扱いに耐えられなくなかったジョン・ベイリャル王は、司教4人、伯爵4人、男爵4人からなる12名の諮問委員会を開き、1295年、フランスの端麗王フィリプ4世との間で正式の同盟を結んだ。
これに激怒したエドワード1世は、1296年、スコットランドに侵攻。スコットランド辺境貴族を臣従させ、ジョン・ベイリャル軍をダンバーで打ち破った。その後、ジョン・ベイリャル王はストラカスロで降伏。王冠を捨てた。廃位されたジョン・ベイリャルは長男エドワードとともにロンドンに送られ、3年間ロンドン塔に幽閉される。
こうして、スコットランドはイングランドの支配下に入り、国王代理のジョン・ドゥ・ワーレン総督の下、10年間の王不在の時代を迎えることになる。
4.ブレイブ・ハート
スコットランドでは、国王不在の10年の間に、スコットランド王の復古運動が繰り広げられた。それは、イングランド王に対する抵抗運動として起こり、その指導者として、サー・ウィリアム・ウォリスが登場する。
ウィリアム・ウォリスのスコットランド抵抗運動が目指すものは、スコットランドからのイングランド軍の退却。1297年、ウォリス旗下の部隊は、フォース川に架かるスターリング・ブリッジの戦いでサリー伯ジョン・ウォレンヌと財務府長官ヒュー・クレッシンガムに率いられたイングランド軍に勝利。ウィリアム・ウォリスは一躍スコットランドの英雄となる。
だけど、翌1298年、ウィリアム・ウォリスは、フォールカークの戦いでエドワード1世旗下のイングランド軍に大敗する。ウィリアム・ウォリスは、その後7年に渡って、ゲリラ戦で抵抗したのだけど、遂にグラスゴー近くでイングランド軍に捕らえられ、ロンドンで処刑。その生涯を閉じた。
次のスコットランド王の復古運動は、イングランド王からの独立戦争となったのだけれど、その指導者として名乗り上げたのがロバート・ド・ブルース。
「解放者」の異名も持つ、ロバート・ド・ブルースは、ノルマンディーのブリーを出自とするスコット=ノルマンの家系で、スコットランド王家ともつながりのある名門の生まれ。
彼はエドワード1世に対するスコットランドの反乱を支援し、1306年、王の戴冠式を自作自演し、スコットランド王ロバート1世を名乗る。そして、翌1307年、ロバート1世旗下のスコットランド軍は、イングランド軍に対して各地のゲリラ戦で勝利し、グレントゥルール、ラウダン・ヒルでイングランド軍に大勝を収めた。
出陣したエドワード1世は,カーライルからスコットランドに向かうソルウェー湾の南岸で赤痢に倒れ死亡した。エドワード1世の後継者には、皇太子エドワードがエドワード2世が就くのだけど、彼は、政治を寵臣ピアーズ・ギャヴスタンに任せ、スコットランド軍への対応も地元総領事に任せたまま自ら動こうとはしなかった。
ピアーズ・ギャヴスタンは、エドワード2世の学友であり、男性の"愛人"だった。エドワード2世はギャヴスタンを寵愛し、王の長男にのみ与えられるコーンウォール公爵の爵位を与えるなどして、諸侯の反感を買うことになる。やがて宮廷に反ギャヴスタン派が結成され、1312年、ギャヴスタンは逮捕・処刑される。
これにより、宮廷は、エドワード派と反エドワード派の2派に分裂した。スコットランド王ロバート1世は、これに乗じて、北イングランドに侵攻。ロバート1世は、パース、ダンディー、ダムフリース、ロクスバラ、エディンバラを解放し、1314年、バノックバーンの戦いで勝利。1318年には、イングランド軍基地ベリクを奪回し、スコットランドから全イングランド軍を追い出した。
1328年、スコットランドとイングランドとの間で協定が結ばれ、ロバート1世は、「スコットランド王国の世襲権を手に入れること」、「スコットランドはイングランド王に対していかなる臣従礼を行う必要の無い独立国になること」、「ロバート1世の息子デイヴィッドをエドワード2世の娘ジョアンと結婚させること」を和約。スコットランドはイングランドから独立した。
こうしてみると、スコットランドの歴史は、イングランドから"やられっぱなしの歴史"であり、イングランドに対して、どこか自分達は虐げられているといった、どこか被害者意識的な民族感情が残っているのではあるまいか。
それゆえに、イングランドに対して、ひとたび反旗を翻しそれを打ちのめすヒーローが現れると、人々はもてはやし、熱狂する面があるのではないかとさえ。スコットランド国民党のサーモンド氏が、スコットランドでカリスマ的な人気を集めるのも、もしかしたら、そうした一面も作用しているのかもしれない。
5.「運命の石」
スコットランドには「運命の石」と呼ばれる石がある。この石は別名「スクーンの石」といい、アイルランドからスコットランドに持ち込まれたとされる。重さ152kgの赤色砂岩。
この石は、代々スコットランド王が戴冠するときに腰掛ける石で、スコットランド人の心の拠り所であったとされる。にも関わらず、この「運命の石」は、永らくスコットランドから失われていた。
1296年、イングランド王エドワード1世がスコットランドに侵攻した際、「運命の石」は戦利品として奪い去られた。そして「運命の石」は、ウェストミンスター・アベーに運ばれ、1996年までの700年間、保管され続けた。
イングランド王エドワード1世は、「運命の石」に合う規格の戴冠椅子を造らせてはめ込み、そこに座って戴冠することで、イングランドとスコットランド両国の王になったことを内外に示した。その後、歴代のイングランド王は、ウェストミンスター寺院でこの椅子に座って戴冠式を挙行することになる。
「運命の石」がイングランドに奪われたことは、スコットランド人のイングランドへの敵対意識を高めることになった。
1950年には、スコットランド民族主義者イアン・ハミルトン、ギャビン・バーナン、ケイ・マシソン、アラン・スチュアートの4名がウェストミンスター寺院に侵入し、「運命の石」を盗み出すという盗難事件が発生している。警察の取り調べで「石が盗まれた事件は知っていますね?」ときかれた犯人達は、「はい、エドワード一世がスコットランドから盗んだことは知っています」と答えたという。
だけど、「運命の石」は、この犯人グループによる運搬中に、2つに割れてしまう。
その後、1996年、トニー・ブレア政権により「運命の石」は、実に700年ぶりにスコットランドに返還され、現在は、エディンバラ城に保管されている。
今回のスコットランド住民投票では、スコットランドの独立を巡って、イギリスをイングランドとスコットランドに2分し、スコットランドの世論をも2分した。割れた「運命の石」は、もしかしたら、イギリスが割れることをも予言していたのかもしれない。
スコットランド独立派の敗北は"運命の意思"だったかどうかは兎も角、今回の動きを、"イングランドに虐げられている"と感じたスコットランド人の独立運動であると捉えるならば、スコットランド国民党は、ウィリアム・ウォリスやロバート・ド・ブルースの役をやっていると言えなくもない。
特に、スコットランド人の人気を集め、あわや独立かというところまで導き、キャメロン首相を慌てさせたスコットランド国民党のアレックス・サーモンド党首は、さしづめイングランド軍を打ち破りながら、最後に敗れた"ウィリアム・ウォリス"を彷彿とさせる。
果たして、サーモンド党首が"ウィリアム・ウォレス"になれたかどうかは分からない。だけど、イングランドに一矢報い、スコットランドの地位を高めたという意味では、"ウィリアム・ウォレス"の役目の幾許かは果たしたのではないかと思う。
サーモンドという名のブレイブハートは、イングランドとスコットランドに横たわる"運命の意思"に果敢に挑んだ。
筆者は、スコットランドの独立を支持しているわけではないけれど、もしも、これから、スコットランドが独立することがあるとするならば、それは"ロバート・ブルース"たる指導者が現れるかどうかに掛かっているのだろう。
Onward braveheart! Scotland shall follow thee or die.
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