スコットランドは独立するか


今日はこの話題です。

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1.スコットランド国民党

9月18日(日本時間午後3時)、イギリス北部のスコットランド独立の賛否を問う住民投票が始まった。

投票は「スコットランドは独立国になるべきか」という質問に「はい」か「いいえ」の2択で答えるもの。投票は、即日開票され、独立への賛成が反対を上回れば、投票率に関係なくスコットランドの独立が決まる。

直前の世論調査では、独立賛成が48%、反対が52%と拮抗しており、どうなるか予断を許さない。

今回話題となっている、スコットランド独立議論は、グレートブリテン連合王国からの独立を標榜しているスコットランドの地域政党であるスコットランド国民党(SNP:The Scottish National Party)が2007年にスコットランド議会選挙において政権党となってから加速した。

スコットランド国民党は、1934年に、スコットランド民族党(NPS:National Party of Scotland)と、スコットランド党(SP:Scottish Party)の合同によって成立した政党で、前年12月に両党首脳が合同の条件を詰める中で、次の4項目をスコットランド国民党の目標とすることを確認している。
1)スコットランドの事案について、課税を含む最終的な権限を有するスコットランド議会(Scottish Parliament)の創設。
2)スコットランドが大英帝国における権利と責任を、イングランドと分かちもつべきこと。
3)スコットランド人民の代表者が、国防、外交等、大英帝国の主権に関わる問題をイングランドの代表と共同で担う機関を設置すること。
4)これらの原則は、イングランドの政党の支配の及ばない、独立の政党によってのみ実現できると確信する。
このように、大英帝国をイングランドと共同統治するという"ドデカい"目標を掲げて、スコットランド国民党が成立したのだけれど、選挙では全く勝てなかった。1935年から1959年に掛けて6回行われたスコットランドの総選挙で、スコットランド国民党の得票は1.2%以下。当然議席はゼロで、てんで話にならなかった。
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そんなスコットランド国民党が躍進したのは、1960年代になってから。当時、スコットランドは、経済不況に喘ぎ失業が増大。1959年の総選挙における労働党の敗北と二大政党制への不満が高まり、独立を唱えるスコットランド国民党に支持が集まった。

得票率も1964年の総選挙で2.4%、1966年の総選挙では5.0%とじわじわと上がり、1974年の選挙では11.4%を集め、1議席を獲得した。

1979年の総選挙で勝利した保守党は、サッチャー首相の下、福祉国家政策からの転換を標榜。サッチャリズムによる小さな政府と、規制緩和を進めていった。その結果、イングランド企業は成長したのだけれど、スコットランドの鉄鋼・石炭産業や重工業系の企業は、世界的な変動の影響も受け、衰退の一途を辿った。

そうしたことから、1990年代には、イギリス政府のイングランド中心のあり方に対する様々な反発が、スコットランド全体に波及し、分権・自治への要求が強まっていった。

1997年、18年ぶりに政権を手にした労働党のブレア首相は「ニュー・レイバー」を掲げ、労働党の福祉国家・国有化路線とも、サッチャー流の新自由主義とも異なる「第三の道」を進み始めた。

ブレア政権は、1997年7月に『スコットランド議会(Scotland’s Parliament)』白書を発表し、スコットランド議会に憲法、外交、防衛・安全保障、経済財政以外の教育、社会福祉、住宅、観光、地方自治、農林漁業、文化等について立法権を有すると宣言した。また、それに加え、所得税率を3%の範囲内で変更できる課税変更権を有するとした。

そして、1997年11月に「スコットランド議会の設置」と「課税変更権」の賛否を問う住民投票を実施。その結果、それぞれ74.3%と63.3%の賛成票を集めた。ブレア政権は直ちに白書に基づいて立法化を進め、1998年11月19日、女王の裁可を得て「1998年スコットランド法」が成立した。

スコットランド国民党はというと、多少の支持率の上下があったものの、次第に支持を広げ、1990年代には、その躍進は誰の目にも明らかになった。その背景には、党首のアレックス・サーモンド氏の力があるとも言われている。

アレックス・サーモンド党首は、その人格、メディアでのパフォーマンス、仕事ぶりなどから、支持者が多く、カリスマ的人気を集めている。

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2.スコットランド独立論争

スコットランド国民党は2007年にスコットランド議会の政権党となってからも躍進を続けた。2011年の議会選挙では、「イギリスからの独立」を公約に掲げて支持を集め、全129議席の過半数を占める69議席を獲得し、政権基盤をより強固にした。

そして、2012年10月、キャメロン首相はサーモンド党首と会談し、スコットランドの独立の是非を問う住民投票の実施に向けて両政府が協力することで合意する「エジンバラ合意(Edinburgh Agreement)」に署名した。これにより、スコットランド独立を巡る住民投票の実施に向けた道筋がついた。

無論、イギリス政府は、スコットランドの独立は望んでいない。イギリス政府は 2012年1月に議会に対して、キャメロン首相とニック・クレッグ副首相の署名による「スコットランドの憲法上の未来」と題した政策文書を提出しているけれど、そこには「我々は、英国がともに有り続けることを求める。…スコットランド国民党は、2011年5月の選挙で独立住民投票をマニフェストに掲げた。英国政府は、そのことがスコットランドやその他の英国の国々にとっての利益にはならないと確信している」と記されている。

エジンバラ合意では「法的基盤が明確であること」、「スコットランド議会により実施のための法律が制定されること」、「議会、政府、住民の信任の下で実施されること」、「公正な評決が行われ、スコットランド人民の意志が明確に表現され、そしてその結果がすべての人々から尊重され得るものであること」などが定められているのだけれど、当時のスコットランドの世論調査では、独立への「賛成」が28%、「反対」が53%と独立反対派が断然優勢だったこともあり、キャメロン政権もスコットランドの独立はないだろう、と多寡を括っていたフシがある。

それが今年に入ってから、独立賛成派がじわじわと支持を集め、9月には賛成反対が拮抗するまでになった。その要因として、これまで態度を留保し「分からない」としてきた層が支持を明確にし、特に「独立よりも自治拡大」という中間派が第3の選択肢が無いため、賛成派に回っているためと見られていることに加え、独立賛成派と反対派によるテレビ討論もその一つだったとも言われている。

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テレビ討論は8月5日と8月25日の2回行われ、スコットランド国民党のサーモンド党首と、独立阻止キャンペーン「ベター・トゥゲザー」を率いる労働党のダーリング前財務相との間で行われたのだけれど、当初、弁舌巧みなサーモンド党首が優勢になるとみられていた

1回目の討論では、ダーリング前財務相が「私の選択は明瞭だ。英国の力を、スコットランドをより強くするために使いたい」と、サーモンド党首に対し、独立後の通貨や歳入など経済に関する考えを集中的に問い質した。これに対して、サーモンド党首は、慎重な回答に終始して十分なアピールができなかった。

討論会後の調査で、サーモンド党首を勝者とした回答は37%だったのに対し、ダーリング前財務相を勝者とした回答は47%と、事前予想を覆す大健闘。

この時点の世論調査では、独立反対派が賛成派を大きくリードしていた。

ところが2回目の討論会では、様相が逆転した。

ダーリング前財務相は、前回の討論で効果のあった、独立後のスコットランド通貨の問題をしつこく追及したのだけれど、サーモンド党首はその答えをちゃんと準備していた。

サーモンド党首はマンデイト(付託)という言葉を多用し、「スコットランド住民が、独立賛成で、自分にスコットランドを代表して正式にイギリス政府と交渉する権利を与えてくれれば、スコットランドに最善の結果を招く交渉をする、それはポンドをイギリスと共有することだとし、もしそれがかなえられなければ、イギリス政府の抱える借金のスコットランド負担分を拒否することも辞さない」とした。

更に、サーモンド党首は、スコットランドがイギリスに留まる場合のマイナス面を強調。民営化が進む国民健康サービス(NHS)や福祉の問題、そしてスコットランドにある、核兵器トライデントシステムの問題では、イギリス中央政府の制約を受け、独自の政策を実施できないと訴えた。

討論は、サーモンド党首の優勢で進み、討論会後にガーディアン紙が行った調査によると、実に71%がサーモンド党首の勝利とし、その後9月5日に行われた世論調査では、初めて賛成派の支持率が反対派を上回った。

慌てたキャメロン首相は、労働党のミリバンド党首や自民党のグレック副首相らを引き連れて、スコットランドに飛び、「今度の選挙は普通の総選挙とは全く意味合いが違う。嫌いな保守党を落とすためだけに賛成票を投じないで」と訴え、更に、現地の大手小売業界トップに個別に働きかけ「独立すれば値上げは避けられない」との声明を出すよう要請するなど、必死の工作を行っている。

果たして、スコットランドは独立を選ぶのか。その答えは間もなく出る。




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