昨日の続きです…。
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昨日のエントリーでは、中国の習近平国家主席が文芸工作座談会を主催し、歴史を尊重しないスパイ・ドラマが多すぎる、と苦言を呈したことを紹介したけれど、歴史に忠実なことと、ヒットすることはまた別の話。
正しい作品が売れるとは限らないし、売れるから正しい作品だとも言いきれない。
今、韓国では「鳴梁(ミョンリャン)」という映画が大ヒットしていて、8月の公開以来、わずか1ケ月で1600万人もの観客動員があったそうだ。
この映画は、1597年の慶長の役の際、李舜臣が潮流の激しい鳴梁海域に秀吉の水軍を誘い込んで一矢報いた「鳴梁海戦」をテーマにした映画。330隻という圧倒的兵力で攻め込む秀吉水軍に対する朝鮮水軍はわずか12隻。
映画は、朝鮮水軍がどうやって日本の水軍に勝ったのかを見せる戦闘シーンが1時間近く続く。
そこでは、明の言いなりになっている朝鮮王と日本水軍を恐れて戦いもせず後退する無責任な将軍の間で板挟みになり、誰と戦っているのか分からなくなる李舜臣の姿が描かれているのだけど、李舜臣のリーダーシップに感銘を受け、逃げ回っていた兵士の士気が上がったり、漁民たちが力を合わせて朝鮮水軍を助けたエピソードなどがあり「良きリーダーがいれば、不利な状況でも大勢の敵に勝てる」という辺りが、強調されているそうだ。
韓国では「鳴梁」がヒットした理由を「今の韓国人がほしがっているリーダーシップ、本物のリーダーシップとは何かを見せてくれる映画だから成功した」と分析していて、韓国企業の中には、「鳴梁」を全社員に鑑賞させ、社員にリーダーシップを教えようとするところもあるほど。
この映画の監督を務めた、キム・ハンミン氏は、韓国メディアとのインタビューで、「李舜臣将軍は率先して先頭に立ち、どんな状況でも挫折することなく戦闘で逆転勝利を収めた。こうした李舜臣将軍の姿は観客にも感動を与えるのではないかと思った。映画を観て勇気をもらったという人もいた。映画の公開時期と韓国の今の状況がうまく合致したようだ。リーダーシップが存在しない時代だからこそ『鳴梁』がヒットしたという記事に同意する」と話している。
確かに、今の朴槿惠政権下の韓国を見ると、こういう指摘も頷けるものがある。
このように大ヒットを飛ばしている「鳴梁」なのだけれど、では、その中身がどこまで史実に忠実なのかというと、中国の抗日ドラマほどではないにしても、これまた怪しいものがある。
水上戦のシーンでは、当時使用されていたはずの亀甲船が出てこないし、秀吉軍の旗には、当時既に滅んでしまった武田家の旗印である"風林火山"と書いてあったりするそうだ。
それどころが、作中に登場するペ・ソル将軍を、最も卑怯な人物として描写したために、そのペ・ソル将軍の子孫達が、名誉を傷つけられ社会生活において被害を受けたとして、「鳴梁」の監督と制作会社を名誉棄損で刑事告訴することを明らかにしている。
8月10日、朝鮮日報は「鳴梁」について「『乱中日記』に忠実な映画を作っている。ほかの史劇映画に比べ考証をきっちりやっているようだ」との専門家の意見を掲載したそうなのだけど、亀甲船は出ない、風林火山を掲げる秀吉軍といった超適当な映画が、「他の史劇映画に比べ考証をきっちりやっている」のならば、他の史劇映画の時代考証とは一体、どれほどいいかげんなのか。
朝鮮日報によると、「鳴梁」は『乱中日記』に忠実に作っているとのことだけれど、『乱中日記』とは、李舜臣が壬辰倭乱が起きた年から戦争が終わる直前の露粱海戦で戦死するまで、陣中であった7年間のことを記録した日記。(1592年1月1日~1598年11月17日)
『乱中日記』という名は、1798年に《忠武公戦書》を編纂(巻5~巻7)する際に、編纂者の便宜上名前が付けられたことに由来し、李舜臣自身は自分の日記に特に題名を付けていない。
『乱中日記』は「壬辰日記」(1592年)、「癸巳日記」(1593年)、「甲午日記」(1594年)、「乙未日記」(1595年)、「丙申日記」(1596年)、「丁酉日記」(1597年)、「続丁酉日記」(1597年)、「戊戌日記」(1598年)によって構成されていたのだけれど、途中で1595年の「乙未日記」が散逸し、現在は残りの7冊205枚(草稿本)が伝わり、保存されている。
現在伝えられている《乱中日記》は二種類ある。一つは李舜臣が陳中で自筆で記録した草稿本として7册205枚が伝えられ、国宝第76号に指定され、牙山顕忠祠に保管されている。もう一つは《忠武公戦書》に載っているものだが、4巻(巻5~巻7)からなる。
《忠武公戦書》は正祖大王のミ命によって、奎章閣文臣である尹行恁と藝文館検書官柳得恭が1793年から3年間にかけて、彼の全ての行跡を集めて記録したもので、詩・状啓・乱中日記・雑著・その他資料などが総14巻からなる。
《乱中日記》の内容は草稿本と全書本の間には内容上若干の違いがある。全書の編纂者らが忠武公の自筆草稿を筆写する過程で省略した内容があるため、草書本の内容が全書本にない部分もある。反面、草稿本に比べて全書本《乱中日記》がより多くの記録を持った部分もある。
草稿本《乱中日記》は壬辰年1月1日から4月30日までの記録と乙未年の1年および無戌年10月8日から12日までの記録が全書本より抜けている。これはまさに《忠武公戦書》を編纂する当時、日記の草稿があとでなくなったことが分かる。
『乱中日記』は個人日記の形式でありながら、当時の海軍最高指揮官が自ら毎日の戦闘状況や個人的考えを率直に記している点や、時の気候、地形、庶民の暮らしについても記されていることから貴重な資料とされ、また、簡潔でありながら流麗な文章として文学的価値も高いとされる。
いくつか、その記述を引用すると次のとおり。
三月十一日 曇、強風確かに簡潔ながら、当時の状況が目に浮かぶ貴重な日記だと思う。先程、作中に登場するペ・ソル将軍の子孫達が、名誉を傷つけられたとして、刑事告訴する件について触れたけれど、『乱中日記』にも、このペ・ソル将軍が登場する。その記述について、中央日報が報じている。その内容は次のとおり。
主簿が来て、左道の倭賊の様子および投稿した倭兵の告げたことを伝えた。 それによると「秀吉は三年にわたって兵を出したものの、ついにその効果がなく、兵をさらに渡海させて釜山に本営を設けようと計画し、三月十一日に渡海することがすでに決まった」と云う。
四月八日 晴れ
倭賊が夜陰に乗じて遁走したと聞き、倭賊の巣窟を掃討するのをやめた。夕方、本陣に帰った。
四月十三日 陰雨
三助防将がそろって来た。啓聞および書状四通を封緘して、巨済の軍官に渡して上送した。夕方、固城県令趙凝道が来て倭賊について語り、巨済の倭賊は熊川に援兵を請い、夜襲を試みようとしていると云う。信じがたい話であるが、やはり考えられないことではない。
八月十七日元々簡潔な日記だけに、余分な描写がないけれど、何が起こっていたかはしっかり書かれている。映画が『乱中日記』を元に、どれだけ脚色して、ペ・ソル将軍を"悪党"に仕立て上げたか分からないけれど、監督始め、製作スタッフは、それが「鳴梁」が"今の韓国人がほしがっている本物のリーダーシップとは何か"を浮かび上がらせるために必要だと判断したということなのだろう。
軍営(康津)に到着すると、誰もいなかった。慶尚水師のペ・ソルは私が乗る船を送らなかった。
八月十八日
会寧浦に行った。ペ・ソルは船酔いを口実に出てこなかった。
八月十九日
将帥らに教書に粛拝させたが、ペ・ソルはしなかった。
八月二十五日
唐布の漁夫が避難民の牛を盗みながら外敵が来たと嘘をつき、驚かせた。(嘘ということを知って)軍士らは安心したが、ペ・ソルはすでに逃げた
八月二十七日
ペ・ソルが来たが、おびえていた。私はそっと「水師はどこかに行ってしまったのではなかったのか」と話した。
八月三十日
ペ・ソルは敵が押し寄せるのを心配して逃げようとした。このため彼の部下の将帥らを呼んで率いた。ペ・ソルが奴婢を通じて「病気がひどく健康管理をしたい」と求めた。陸地で健康管理をするよう公文書を送った。ペ・ソルは右水営を離れて陸地に上がった。
九月二日
ペ・ソルが逃げた。
「鳴梁」に限らず、他の映画やテレビドラマ、戯曲などでも、大なり小なり、脚色や演出を入れるもの。文化・芸術作品において、それらを完全に否定することも難しいだろう。
芸は実と虚の境の微妙なところにある、と近松門左衛門は唱えたと伝えられているけれど、そうした面をまるっきり抜きにした芸術作品が人気を集めることは、やはり難しいのではないか。
「鳴梁」にしても、完全に史実に忠実にと、李舜臣は日本水軍に一撃を加えただけど、夕方には、撤退して海域を明け渡したなんて描き方をしたら、ここまで大ヒットしたかどうかも分からない。
「鳴梁」の大ヒットを契機に、韓国人が"本当のリーダーシップ"を求め、より良い、大統領を選ぶようになったとすれば、「鳴梁」という映画は、韓国の国益に資することになる。
彼らがそういう道を選ぶのか、はたまた「日本人に"本当の歴史"を教えてやる」と息巻くだけなのか…。
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