毛沢東に倣う習近平

 
今日はこの話題です。

画像
 ブログランキングに参加しています。応援クリックお願いします。

10月15日、中国の習近平国家主席は、北京市で文芸工作座談会を主催した。これは、1942年、日中戦争中に毛沢東が主宰した「延安文芸座談会」以来のものとされる。

今回の座談会には、中国作家協会の鉄凝主席、中国戯劇家協会の尚長栄主席、人民解放軍空軍政治部文工作団一級脚本家の閻粛氏、中国美術学院の許江院長、中国電影家協会の李雪健主席など「文芸界」の重要人物が出席したそうだ。

その中で、習近平主席は、出席者の発言を聞き終わった後、「文芸事業は党と人民の重要な事業であり、文芸戦線は党と人民の重要な戦線である。…改革開放以来、中国の文芸創作は新たな春を迎え、多くの人々が親しむ優秀な作品を大量に生み出した」と評価した上で「質に問題のある作品も多いことも否定できない」と批判。

更に、「高原はあるが頂上はない。…模倣や剽窃、どの作品も同様という問題がある。機械的に作り、ファストフードのように消費するとの問題がある。…ひとつのよい作品は、社会に対する利益を第1に置いているはずだ。同時に社会に対する利益と経済利益が統一された作品だ。文芸を市場の奴隷にすることはできない。カネの匂いにまみれていてはならない。優秀な作品で最も望ましいのは思想面、芸術面で成功し、市場でも歓迎されるものだ」と述べ、文学・芸術界に対しても社会主義価値観を盛り上げる役割を果たすよう促した。

中国作家協会主席団委員の麦家氏は座談会終了後、習近平主席に声をかけられ、習主席から「あなたはスパイ物の第一人者だ。…今では歴史を尊重しないスパイ・ドラマが多すぎる。視聴者に良くない影響を与えている」と言われたと人民日報記者に明かしている。

8月17日のエントリー「尊共攘夷に走り出した中国」で、筆者は、中国が西洋的価値観が自身に浸透することを酷く警戒していると指摘し、9月27日のエントリー「引き籠る中国を席巻する日本のソフトパワー」で、中国の成都日報が「ドラえもんの目くらましに警戒せよ」という記事を掲載し、ドラえもん普及の裏には政治的意図があると述べていることについて触れたけれど、今回の文芸工作座談会なるものも、その延長線上にあるものと思われる。

最近の中国共産党刊行物も「階級闘争」や「人民民主独裁」を強調した文章が相次ぎ公表され、中国人研究者からは「毛沢東時代に回帰したようだ」との批判や懸念が指摘されているという。



1934年、国民党軍に敗れた中国共産党は、自身の中心地であった江西省瑞金を放棄し、後に"長征"と呼ばれる大移動を行った。1935年に共産党は、陳西省延安に到着し、 1937年1月から1948年までの期間、延安を根拠地とした。

毛沢東や周恩来、彰徳俵、朱徳らもこの地に住み、1938年に魯迅芸術学院を設立すると、多くの芸術家たちが延安に移ってきた。だけど、西洋への留学経験を持ち、西洋芸術を学んでいた彼ら芸術家と、延安に住む人びとの間には埋めがたい溝があった。

そこで、毛沢東は、1942年に「延安文芸座談会」を開催し、文芸工作者は 労働者…農民・兵士のために創作すべきこと、革命的政治内容と芸術様式を統一すべきであることなどの講話を述べた。

これ以降、中国共産党では、毛沢東のこの「講話」が全ての文芸の指導方針となり、舞台芸術、映画、歌曲などで大量の"革命的作品"が発表された。特に、1942年から1976年までの美術様式は 「毛沢東時代美術」と呼ばれている。その一方、「革命的でない」と判断されたジャンルは弾圧された。

毛沢東は、当時の"西洋かぶれ"した芸術家達に、「革命」すなわち共産党に奉仕する芸術を要求したのだけれど、今回の文芸工作座談会で、習近平主席は、中国の文化作品に対して「模倣や剽窃、どの作品も同様」と述べている。この"模倣"とは要するに、西洋諸国や日本の作品のパクリということだから、その中には必然的に"西洋的価値観"を内包している。

だから、先の「ドラえもんに警戒せよ」ではないけれど、習近平主席が、これら西洋諸国の作品を模倣することを止めさせ、西洋的価値観を中国から排除することを意図しているのであれば、毛沢東の「延安文芸座談会」で示した方針と質的に極めて近いといえる。これでは、確かに、毛沢東時代に回帰したとの声があがるのも無理はない。

実際、最近の共産党の刊行物も「階級闘争」や「人民民主独裁」を強調した文章を相次ぎ公表しているというから、本気で、徹底的に西洋的価値観を叩きだそうと考えている可能性はある。

画像


先程、座談会終了後で中国作家協会主席団委員の麦家氏が、習近平主席から「今では歴史を尊重しないスパイ・ドラマが多すぎる。視聴者に良くない影響を与えている」と言われたことに触れたけれど、これは、いわゆる抗日戦争ドラマを想定したものと言われている。

抗日戦争ドラマとはいわゆる、第二次大戦中の中国大陸を舞台に中国人が日本兵を撃退するドラマのことで、1980年代半ば以降から盛んに製作されるようになった。

なんと、2012年には、中国全土をカバーする衛星放送でゴールデンタイムに放映されたドラマ約200作品のうち、抗日ドラマは70作品を超えたそうなのだけれど、その中身は結構いいかげんで、日中戦争における戦いを描いた抗日ドラマに、1980年代に生産されたフォルクスワーゲンや米軍の自動小銃が登場するとか、兵士が手刀で日本兵を真っ二つにするなど、「北斗の拳」さながらの誇大表現の嵐。ここまでくると、歴史ドラマというよりは、「スーパーマンになった水戸黄門」くらいで見たほうがしっくりくるのかもしれない。

なぜ、そんなSFなまでの演出をしなければならないかというと、どうやら市場競争が相当に厳しいらしい。

現在中国には地上波・衛星放送を含めて350社以上のテレビ局があり、チャンネル数も2000以上ある。一般家庭のテレビでも100以上のチャンネルは観ることができることから、熾烈な視聴率争いが行われている。なんでも、「中国では大ヒットしたドラマでもせいぜい10%台前半であり、2%でも悪いとは言えない。視聴率が0.1%、0.2%という番組もたくさんある」というのが実情なのだそうだ。

ある抗日ドラマの制作スタッフの一人は、「視聴率をとるためには仕方がない。やはり、抗日ドラマには一定の視聴者層がついているので、これからも手を変え品を変え、つくり続けるしかないんだ」と述べたという。

これが本当であれば、中国の文芸は既に、市場原理にがっちりと組み込まれており、それを一律に全否定すると中国経済自身に影響を及ぼさないとは限らない。

習近平主席は、座談会で「優秀な作品で最も望ましいのは思想面、芸術面で成功し、市場でも歓迎されるものだ」と述べているけれど、そんな素敵な作品が右から左へとできるのなら誰も苦労しない。筆者は、数多くの"駄作"の山の中から、名作・傑作がが生まれてくるものだと思っている。でなければ、一度大当たりした作品の二番煎じ、三番煎じの作品が次々と出てくる理由がない。

だから、そのためには、"駄作"でも世に送り出せる自由がなければならないし、作品の良し悪しは市場の評価に任せることで良いと思う。と同時に、たとえ一度"駄作"の烙印を押されたとしても、"弾圧"することなく、アーカイブできる状態で保管できていることが望ましい。

本当に価値ある作品ならば、やがて再評価され、世に出てくることになる。弾圧して、消し去ってしまったら、その可能性すら潰してしまう。

その意味では、習近平主席のやろうとしている"文芸工作"は、相当に細い綱渡りであり、下手をすれば経済にもダメージを与えることにもなり兼ねない。

習近平主席の"毛沢東的"な文芸工作方針が、今の世に通用するのか。興味深い。




画像

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック