憲法9条はノーベル平和賞に相応しいか

 
昨日の続きです。

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昨日のエントリーで、日本人のノーベル物理学賞受賞の話題を取り上げたけれど、もう一つ、日本人が受賞するかもしれないと注目を集めているノーベル賞がある。ノーベル平和賞がそれ。

なんと、今年のノーベル平和賞には「戦争放棄をうたった憲法9条をもつ日本国民」が候補に挙がっている。これは、今年4月、神奈川県座間市の主婦・鷹巣直美さんが思いついたもの。2012年のノーベル平和賞にEUが受賞したことから「EUには問題もあるが、ノーベル平和賞は、理想に向かって頑張っている人たちを応援する意味もあるんだ。日本も9条の理想を実現できているとは言えないが、9条は受賞する価値がある」と考え、インターネットで24000件の署名を集め、ノーベル委員会に推薦状を送って「受理」されたのだそうだ。

何でも、鷹巣さんは20代の頃、オーストラリアのタスマニア大学に留学していて、そこで出会ったスーダンの男性難民から、小学生の時に両親を殺され、正確な年齢も知らずに育ったと聞いて、平和や9条の大切さを実感したのだという。

ただ、ノーベル平和賞の受賞対象は、人物か団体のみで、憲法は受賞できない。そこで、鷹巣さんは「9条を保持し、70年近く戦争をしなかった日本国民の受賞に意味がある。みんなが候補として平和を考えるきっかけになれば」と、受賞者を「日本国民」にしたのだそうだ。

とまぁ、こういった経緯でノーベル平和賞の候補になったようなのだけれど、憲法9条があるから平和なのだなんて、お花畑も甚だしい。

高巣さんは、戦争をしなかった日本国民の受賞に意味がある、なんていっているけれど、これは正しくない。"戦争しなかった"という表現は、「自らの意思で戦争するところを止めた」という積極的なニュアンスがあるけれど、実態は遥かに消極的だった。いわば、日本は戦後、戦争をしなかったのではなく、「戦争せずにすんだ」というのが正しい。

勿論、それは、日米安保と、在日米軍および核抑止力によって守られていたからこそ成立できる話であることなんて言うまでもない。

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それにしても、何故、こういう"お花畑系"の方は、「日本が武器を持てば、直ぐ他国を"侵略"するに違いない」と信じ込んでしまえるのか。そのくせ「他国が武器を持てば、日本を侵略しにくるに違いない」とは決して口にしない。全くもって、不思議で仕方がない。

仮に、人が戦争をしたがるのが性分なのであれば、日本が他国を侵略するのと同じように、他国も日本を侵略する可能性があるとならなければおかしい。

彼らの言い分は、「日本が侵略する」ばっかりで、「日本が侵略される」危険を全く考えていないとしか思えない。日本が侵略の危機にあったとき、"自衛"することは是か非かの観点が抜けている。

ここで、憲法9条を振り返ってみる。次に引用する。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
このように、9条では、戦争と武力の行使を放棄している。だけど、そこには「国際紛争を解決する手段として」という但し書きがついている。そして2項で「前項の目的を達するため、戦力は保持しない。交戦権は認めない」としている。

とすると、"自衛"の為の武力行使(交戦権)はどう解釈されるのか、という疑問が当然、湧いてくるのだけれど、『広辞苑』によると、"交戦権"は「国家が戦争をなし得る権利、または戦争の際に行使しうる権利。自衛のための交戦権の有無が日本国憲法第九条の解釈上の一争点となっている」と説明されている。

この9条2項の冒頭にある「前項の目的を達するため」という文言は、衆議院での審議で、付け加えられたものなのだけれど、この修正は、当時衆議院憲法改正特別委員会の委員長を務めていた芦田均氏が提案したことから一般に「芦田修正」と呼ばれている。

芦田氏は、後になって、この修正について、9条は自衛のための戦争や軍備を許容しているとの見解を明らかにしている。

では、現在、日本政府は自衛の為の武力行使はどう解釈しているのか。今年5月15日、安倍総理は、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」からの報告書を受けて記者会見を行い、自衛権について次のように述べている。

一つは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また、国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法な活動には憲法上の制約はないとするものです。しかし、これはこれまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない。私は憲法がこうした活動の全てを許しているとは考えません。したがって、この考え方、いわゆる芦田修正論は政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。

もう一つの考え方は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。生命、自由、幸福追求に対する国民の権利を政府は最大限尊重しなければならない。憲法前文、そして憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることは禁じられていない。そのための必要最小限度の武力の行使は許容される、こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です。政府としてはこの考え方について、今後さらに研究を進めていきたいと思います。
このように安倍総理は、芦田修正は政府として採用しないけれど、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときは武力行使は認められる、と述べている。つまり、「限定的容認論」の立場。



この「自衛隊は、武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことはなく、我が国の安全のためにその武力を行使する」という安倍総理の説明は、言葉を変えれば「日本は、侵略戦争を仕掛けることはなく、侵略されたときのみ自衛する」ということ。

これは、9条を持つ日本国民をノーベル平和賞にと推薦した鷹巣さんの言い分を包含しつつ、更に限定的ながら自衛権を認めるという内容となっている。

だから、勿論、その受賞理由に依るけれど、まかり間違って、9条を持つ日本国民が、ノーベル平和賞を受賞したとしても、理屈の上では、今進めている集団的自衛権には影響を及ぼさないだろうと思われる。


ちなみに、9条を平和賞にと提案した高巣さんは、報道では一介の主婦だと紹介されているようだけれど、難民・移住労働者キリスト教連絡会(通称:難キ連)と関係を持つ"プロ市民"ではないかという噂もある。

事の詳細は分からないけれど、難キ連のサイトの事務局だよりには、"ノーベル平和賞"と共に"高巣"の名前がはっきりと記されている。次に引用する。
<事務局長ブログ>
2014年7月23日 水曜日
昨日の難キ連チャリティコンサートへのご来場、誠にありがとうございました。

[中略]

お父上様のお具合が悪い中、ご一家でご来場くださった鷹巣様の「憲法九条を守る日本国民にノーベル平和賞を」のお働きも御紹介申し上げますとともにご自身から会場の皆様にお話しいただくことが出来ました。

また、昨年、今年、ボーマン先生へのコンサートが実現いたしましたのも鷹巣様はじめ相模原の平和を作る会様との出会いがきっかけであったこともお話しさせていただきました。

[後略]
このように、わざわざ事務局長から名指しで礼を言われる辺り、浅い仲ではないことを伺わせる。

或は、他にもいろいろ手を出しているかもしれないけれど、こうした繋がりを考えると、万が一、平和賞を受賞なんぞしたら、"あの辺界隈"のサヨクなお花畑の人々が「集団的自衛権行使容認は、ノーベル平和賞の9条に反している。撤回しろ」と騒ぐ可能性は相当に高い。

これまで見てきたように、9条が平和賞を受賞しても、集団的自衛権への影響はあまりないだろうとは思うけれど、9条改正まで考えると、平和賞が足枷になる可能性はありうる。

受賞しないことを祈る。




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