

1.中国への渡航は再考すべき
7月6日、アメリカ国務省は、中国が今月1日から改正「反スパイ法」を施行したことを受け、自国民に「不当拘束の恐れありと中国渡航の再考促す」と中国への渡航を再考するよう警告しました。
アメリカの国務省は以前から、中国への渡航を「再考すべき」とする「レベル3」の注意を勧告してきました。アメリカ人では、2021年に拘束された香港出身で米国籍を持つ78歳の男性が今年5月にスパイ罪で無期懲役の有罪判決を受けています。
中国の改正「反スパイ法」について、アメリカ国防総省の情報機関「米国家防諜安全保障センター(NCSC)」は、スパイ行為の定義が曖昧で、中国で活動する外国の企業、個人にとって拘束などのリスクが高まると警戒しています。
「米国家防諜安全保障センター(NCSC)」によると、中国はデータの海外流出を国家安全保障上のリスクとみなしており、外国企業が現地で採用する中国人社員に対し、中国の情報収集活動を支援するよう強制する可能性があると指摘。「中国在住の米企業や個人も、従来の事業活動を中国側がスパイ行為とみなしたり、対中制裁を支える行為だと判断すれば、罰則を受けることになる」と警告しています。
実際、中国は今年、アメリカのコンサルティング会社や監査法人などへの取り締まりも実施しており、改正反スパイ法の施行により、中国への海外投資家を動揺させているとアメリカ経済団体なども懸念を強めています。ロイター通信によると、アメリカのバーンズ駐中国大使は、アメリカ政府が何らかの対抗措置を取る可能性に言及しているようです。
在米中国大使館の劉鵬宇(りゅう・ほうう)報道官は、「中国には国内法を通じて国家の安全を守る権利がある」とした上で、「中国は引き続きハイレベルの市場開放を推進し、米国を含む各国の企業に対し、より法律に基づいた国際的なビジネス環境を提供していく」と述べ、中国政府は海外投資に門戸を開放しているとしています。
2.怯える習近平
6月30日、中国の反スパイ法改正について、松野官房長官は記者会見で、「在留邦人への注意喚起をしてきており、今後も取り組みを続けていく」と言及しました。
もっとも、習近平指導部が発足した直後から中国による取り締まりは厳くなっていました。
たとえば、あるテレビ局で中国の土壌汚染について取り上げるために、サンプルの土壌を採取して日本に持ち帰って分析するといった企画は過去にもありました。ところが、習近平体制になってからは、サンプル資料としての持ち出しも許可されなくなったどころか、他に無許可の持ち出しはないか、取材のチェックも厳しくなったとのだそうです。
今回の改正の主な点は、国家安全当局の権限を強化し、疑いがあるだけで手荷物や電子機器を強制的に調べられるようにしたことや、スパイ活動に使った疑いのある場所や施設、財産は凍結できるようにしたのですけれども、実際はとっくにそんなことはやっているのですね。
更に、改正法では、いかなる中国の国民や組織も、スパイ活動を見つけたら速やかに国家安全当局に通報しなければならない義務を課し、むしろ反スパイ活動に貢献すれば表彰するとし、新聞社やテレビ局といった報道機関には反スパイの宣伝教育を義務付け、スパイ行為の疑いのある者の出国や、国家の安全に危害を及ぼす活動を行う可能性のある外国人の入国を認めないとしています。
これについて、ジャーナリストの青沼陽一郎氏は、改正反スパイ法の本質は、国内の取り締まり強化であり、独裁者がもっとも恐れる反乱の封じ込めだ、と指摘しています。
青沼氏は、「独裁者にとっての脅威は国外ではなく、国内にある。改正によってスパイ行為と定義づけられる『国家機関や重要な情報インフラへのサイバー攻撃や侵入、破壊といった活動』や『スパイ組織への参加』『その他のスパイ活動』なども、中国国民が反体制に結束することを防ぐ手立てになる。すなわち、『反スパイ法』の改正、強化は習近平の怯えの裏返しではないだろうか」と述べています。
3.改正反スパイ法は国内不安分子を抑止する為
中国の改正反スパイ法は国内向けの意味合いが強いという見方は他の識者もしているようで、静岡県立大学グローバル地域センター特任教授の柯隆(か・りゅう)氏は、次のように述べています。
【前略】柯隆(か・りゅう)氏は、改正反スパイ法の本質は、習政権にとって外敵の侵略を防ぐ以上に、国内の不安分子を抑え込むための抑止力である、と述べています。
特に3年間のコロナ禍において習政権は頑なにゼロコロナ政策を実施した。中国のゼロコロナ政策は人々を強制的に隔離する措置を伴うものだった。それに耐えられなくて自殺した人も少なくなかった。
中国の国防予算は年々増額されているが、それよりも増えているのは国内の治安維持費である。習政権にとって外敵の侵略を防ぐ以上に、国内の不安分子を抑止することを優先にせざるを得ない状況になっている。
新しく改正された反スパイ法では、これまでと比べ、国家機密保持に加え、国家の安全を脅かすデジタルデータや情報を取得する行為が取り締まりの対象になっている。
そもそも改正前の反スパイ法では、「国家機密情報を入手しようとする行為を取り締まる対象にする」となっているが、国家機密に関する明確な定義がなされていない。そして、改正後も国家の安全を脅かすデータと情報に関する明確な定義はないままだ。
むろん、反スパイ法が改正されたからといって、外国人および外国人と接する中国人がむやみに拘束されるとは思わない。この法律の存在意義はその抑止力にある。
中国でビジネスを行う外国人をむやみに拘束すれば、すでに中国にある工場の一部を外国に移転することを検討している外国企業の中国離れは一気に加速する可能性が高い。それは中国経済と習政権にとって深刻なダメージとなる。
したがって、反スパイ法を改正した習政権のそもそもの目的が国家の安全を守るためだろうが、外国資本の中国離れが加速すれば、国家の安全すら守れなくなる。
日本企業を含む外国資本にとって、中国ビジネスの黄金期は江沢民政権と胡錦涛政権の20年間だった。
中国は2001年、世界貿易機関(WTO)に加盟した。中国政府はこれをきっかけに金融市場を含むすべての市場を外資に開放すると約束した。むろん、中国政府は市場開放に関する約束を100%履行していないが、中国は間違いなく世界の工場になり、世界の市場に成長した。
出張や観光などではじめて中国を訪れる外国人がみな驚くことだが、街中を走る車の半分以上は外国車である。外国資本にとって中国市場に依然として高い障壁が残っていると批判されているものの、中国市場の現実をみると、こうした障壁はすでに形骸化しているのかもしれない。
中国自動車工業協会の発表によれば、2022年、中国の自動車販売台数は2600万台に上るといわれている。それは日本市場の6倍以上の規模である。日本企業にとってチャイナリスクが高まっているのは確かなことだが、中国市場を切り離すことはできないのも事実であろう。
【後略】
4.企業で出来ることには限界がある
柯隆(か・りゅう)氏は、改正反スパイ法への対応として「日本企業は中国ビジネスを続けると同時に、いかにチャイナリスクを管理するかの対策を考案しておくことが重要だ」と指摘していますけれども、その具体策として次のように述べています。
では、日本企業はどのようにしてチャイナリスクを管理すればいいのだろうか。柯隆(か・りゅう)氏は、まず「中国の国家機密に近づかないようにすることが重要である」とし、「仕事上、中国人とりわけ政府部門の幹部と接触するときは、必ず先方の窓口を通してアポを申し込むべきであり、レストランでの気軽な会食でも窓口を通したほうがよい」と指摘しています。
まず、一般論として改正された反スパイ法の文脈を踏まえれば、日本人駐在員は中国の国家機密に近づかないようにすることが重要である。国家機密に関する明確な定義はなされていないが、人民解放軍の基地などに近づかないことは常識的に考えればわかる話である。
そして、仕事上、中国人とりわけ政府部門の幹部と接触するとき、従来はよく知っている相手であれば、本人または秘書に電話してアポを取るだけで接触できた。ときには政府機関に出向くこともあろうが、レストランでの会食もよくある話である。
しかし、新しい反スパイ法が施行されていることを考えれば、相手と接触する場合、必ず先方の窓口を通してアポを申し込まなければならない。レストランでの気軽な会食でも窓口を通したほうがよいだろう。
このようにして慎重に対応すればするほど、仕事がはかどらない可能性もある。しかし、リスク管理の観点から考えれば、仕事の効率化よりも安全性の担保を最優先にすべきである。
問題は白でもなく黒でもない、グレーの事象にどのように対応するかである。
そもそもビジネスは市場競争であり、競争に勝ち抜くために、ここだけの話の情報を競争相手よりもいち早く入手することは重要である。しかし、現状では、市場競争に勝ち抜くことよりも、駐在員の安全を最優先に考えるべきである。
むろん、個別の企業とその駐在員はリスク管理についてできることは限られている。リスク管理について重要なのは情報の収集と分析である。
一企業が収集できる情報は限られるため、業界団体と経済団体の護送船団の情報収集能力の強化と共有も求められている。そして、実際にリスクが浮上してきたとき、業界団体と経済団体全体は日本政府に対応を強く要請することも重要である。
中国経済はコロナ禍が収束しつつあるが、V字回復がみられず、L字型成長の様相を呈している。これから経済成長率がもっと減速すれば、習政権は統制を一段と強化すると思われる。反スパイ法の改正はその予兆といえる。
日本にとっては個別企業と駐在員のリスク管理意識を強化する必要があるが、それだけでは不十分である。業界団体と経済団体の護送船団のリスク管理に向けた努力が求められている。
そして、柯隆(か・りゅう)氏は「リスク管理について重要なのは情報の収集と分析」であるとし、「一企業が収集できる情報は限られるため、業界団体と経済団体の護送船団の情報収集能力の強化と共有も求められている。そして、実際にリスクが浮上してきたとき、業界団体と経済団体全体は日本政府に対応を強く要請することも重要である」と提唱しています。
妥当というか、当然というか、必要最低限の対応かと思います。
5.訪中すれば身の安全は保たれない
けれども、相手は一党独裁国家です。リスクが浮上したとき、いくら業界団体と経済団体全体が日本政府に対応を強く要請したところで、日本政府に何ができるのか、という懸念があります。
中国が2014年に「反スパイ法」を施行して以来、日本人は、判明しているだけで17人が拘束されました。
6月30日、松野官房長官が会見で、中国側に司法プロセスの透明性確保を求めることを強調し、「在留邦人への注意喚起などの取り組みを続ける」と語ったことは前述しましたけれども、それで根本解決になるとも思えません。
冒頭、アメリカ政府が国民に向けて渡航中止勧告したことを取り上げましたけれども、福井県立大学の島田洋一名誉教授は「ジョー・バイデン政権は、共和党議員が多い下院などから、『中国に融和的すぎる』『もっと強い意志を見せるように』と圧力がかかっていた。より強い姿勢を見せた米国務省の勧告は、世界に向けた1つのスタンダードになる。中国への対抗措置を持たない日本は、中国からなめられている。日本も『反スパイ法』をつくるなどの対応を早く検討すべきだ」と語っています。
日本も反スパイ法を制定すべきだというのは、筆者もその通りだと思いますけれども、自民党の一部議員もそれに向けて動いているようです。
6月22日、自民党の青山繁晴参院議員は時事通信のインタビューに応じ、中国の改正反スパイ法について、中国に在留する日本人の安全が一層脅かされると懸念を示しています。
件のインタビュー要旨は次の通りです。
―改正反スパイ法の問題点は。青山議員は、「中国で拘束された日本人を日本政府が解放した例はない」と指摘。「外国企業関係者が中国人と雑談すらできなくなる」とし、「今進出している企業はどんな犠牲を払っても撤退しないといけない」と警告しています。
改正法は「スパイ行為」とは何を指し、どのように立証するのか明らかにしていない。世に悪法は絶えないけれども、ここまで極端なものは初めて見た。
改正法は明らかに外国企業の対中投資を抑制する。外国企業関係者が中国人と雑談すらできなくなる。1日以降は空前の勢いで(投資抑制の動きが)加速する。間違いなく中国経済の衰退を止められない要因になる。今進出している企業はどんな犠牲を払っても撤退しないといけない。実質的に、中国で拘束された日本人を日本政府が解放した例はない。日本の国会議員であっても、訪中すれば身の安全は保たれないと考えている。
―どのような対抗措置を取るのか。日本にはスパイ防止のための法がない。
かつて自民党が制定を目指した「スパイ防止法」には問題があり、廃案になった。護る会は「スパイ防止法」という言葉を使わず、「カウンター・インテリジェンス(防諜=ぼうちょう)」に関する提言を秋の臨時国会でまとめる方針だ。岸田首相にも働き掛け、議員立法で不正な工作を防止する法体系の実現を目指している。
日本は公安調査庁、警察庁外事情報部、防衛省情報本部などカウンター・インテリジェンスに関係する部門がばらばらだ。故安倍晋三元首相は、これらを統合するための「国家情報局設置法案」を検討し、私も協力していた。数年前の通常国会に法案を出そうと議論していたが、安倍氏は途中で「政治的コストが高い」と言って断念した。
議員立法でカウンター・インテリジェンスに関する法律の成立を図るだけでなく、政府にも関連部門を創設しないといけない。それは閣法(政府提出法案)でやらないといけない。二つの法案の実現を同時に働き掛けていく。安倍氏は「(不人気な施策で)国政選挙に負けたくない」と考えた。しかし、政治的コストがいくらかかっても、やらなければいけないことがある。
―岸田政権で実現に向けた筋道を描けているのか。
むしろ安倍政権の時よりも岸田政権の方が可能性がある。安全保障関連3文書の改定は安倍政権ではできなかった。安倍政権ができなかったことを、警戒されにくい岸田首相がやっている。また、岸田首相が来年9月の自民党総裁選での再選に向けて連携を求めるのは保守系しかないだろう。
世界は皮肉に満ちている。日本の安保体制の強化に最も協力しているのは実は中国だ。改正反スパイ法の施行後、日本で危機意識が高まり、法整備への追い風となるだろう。
先述した青沼陽一郎氏や、柯隆氏とは違い、青山議員は、改正反スパイ法によって、在中邦人の身の安全は保障できなくなったと見ています。
青山議員は、スパイ防止法の制定は、”ステルス岸田政権”であればこそ可能性があると述べていますけれども、一刻も早い制定を望みます。
この記事へのコメント
簑島
びーなっつ