エビデンスに殴り返されるマスコミ

今日はこの話題です。
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1.「エビデンス」がないと駄目ですか? 


10月31日付の朝日新聞の記事「『エビデンス』がないと駄目ですか? 数値がすくい取れない真理とは」という記事がネットで炎上しているようです。

これは、今の時代を「何をするにも合理性や客観性が求められ、数値的なエビデンス(根拠)を示せと言われる時代」であり「なんだか自分の感覚や経験則には、なんの価値も無いような気がしてしまう」と前置きした上で「客観性の落とし穴」の著者で、大阪大学教授の村上靖彦氏にエビデンス重視の世の中にどう向きあえばいいかをインタビューした記事を纏めたものです。その概要は次の通り。
・SNSでも、データを持ち出してきて、自分の気に入らない投稿を批判するような書き込みが目につきます。エビデンスという道具を使って、他者をたたきたいという暗い欲望が蔓延しているように感じます。

・僕の研究は、ヤングケアラーや看護師、困難を抱えている当事者たちの語りを分析する内容で、数値的な証拠は積み上げない。まだ統計の意味をしっかり学んでいない若い学生は、数値データを使わないことに耐えられないのかもしれません。現代社会では、客観性や数字的なエビデンスこそが真理だとされているので、無理もありません。

・しかし、個人のそれぞれの経験のなかにも、普遍的な事実はあるはずです。語りの中に小さく折りたたまれた細部を読み解き、語り手の内側にある視点から社会構造を描くと、どうして差別が生まれるのか、困難な状況に追い込まれる人がいるのかが見えてくる。数値的なエビデンスや客観性がとる視点とは逆向きの視点の置き方ですね。

・挑戦的な研究だとは思います。「客観性」という言葉が普及したのは19世紀半ば以降といわれていますが、自然科学を中心とした近代的な学問では、再現性や統計的な蓋然(がいぜん)性が重視されてきました。でも、個人的な体験の中で感じたことはその人にとっても一つの真実です。同時に誰にとっても意味のあるものになり得る。小説や映画はそうした経験をとらえ、多くの人に伝わる表現に落とし込んでいますが、僕らはそれを現象学で試みている。エビデンスが重視される世界のなかで、個別的な経験から普遍的な意味を取り出すことの意味を問い直したいと思っています。

・人は単純な説明に乗っかってしまいがちです。エビデンスがあると言われたら、理は相手にあり、負けたような気になってしまう。でも、生きるってそんなに単純なことではないはず。もっと複雑であいまいです。相手がなぜそんなデータやエビデンスを示すのか、自分との間に線を引こうとしたのか、相手に聞いてみるのはどうでしょうか。エビデンスや数値にはすくい取れない真理もあるのです。

・僕は真理には3種類あると思います。自然科学や社会科学の文脈から、データで導き出せる客観的な妥当性。一人ひとりの経験の中にある真実。そして、人権のような理念。理念は数値化できるものではないけれど、普遍的な価値を持っています。
このように、村上教授は、真理には、「データで導き出せる客観的な妥当性」「一人ひとりの経験の中にある真実」「人権のような理念」の3つがあるとし、理念は数値化できなくとも普遍的価値があると指摘しています。

これに対し、ネットでは「ダメだよ。エビデンスがないとき何をもって判断するのか。権威だよ。その場の勢いだよ。暴力だよ。くだらない話を垂れ流すな」とか、「エビデンスという道具を使って他者を叩きたいという暗い欲望が蔓延しているようですって。データもエビデンスも無くデマと風評で人を叩いてた君等の「暗い欲望」にも自覚を持とうよ」など厳しい声があがっています。


2.客観と主観と信仰


確かに村上教授が挙げた3つの真理は間違っていないとは思いますけれども、それぞれには特徴というか違いがあります。それはざっくりといえば、客観と主観、そして信仰です。

「データで導き出せる客観的な妥当性」というのは、村上教授自ら述べているとおり、客観性があります。データで表現される数値というものは、全世界で共通であるからです。あとはそこから結論を導き出すためのロジックが間違っていない限り、その結論には妥当性があるといえます。

それに対して「一人ひとりの経験の中にある真実」というのは、その人に取っては真実かもしれませんけれども、その経験が個人に留まっている限り、何処までいっても主観的なものです。

そして「人権のような理念」ですけれども、その理念が普遍的価値を持つためには、時代を超え、地域を超えてもなおそれに触れた人々が確かにその通りだ、と認めない限り成立しません。そのような理念として最大なものはおそらく、釈迦やイエスなどが説いた世界宗教でしょう。つまりその理念を多くの人が「信仰」してくれない限り成立しないものだといえます。

これら、客観と主観、そして信仰という切り口でみると、卑近な例として筆者には「福島原発処理水の海洋放出」問題に似ているように感じます。

日本は原発処理水に対し、科学的エビデンスを公開した上で、海洋放出しても何ら問題ないと判断し、放出しています。これに対し、中国は、エビデンスを示すことなく「汚染水」と呼称して日本を批判しました。こちらは中国の経験かなにか知りませんけれども、「中国の中にある真実」なのでしょう。

中国は、福島原発処理水は「汚染水」だと国際会議の場で「伝道」し、世界各国を「折伏」しようと頑張りましたけれども、世界各国からの支持は得られませんでした。要するに「福島原発処理水は汚染水」であるという「教え」は世界各国から「信仰」されることはなかった訳です。


3.オープンな議論が出来ないマスコミ


朝日新聞は件の記事で、「エビデンス」がないと駄目ですか、と問いかけていますけれども、これに対し、筆者が答えるとするなら、「貴方が釈迦やイエスのような覚者や聖人であり、多くの人を教化し信仰される人であれば、エビデンスはなくてもよいかもしれない。けれども、そうでないならば、せめてエビデンスを示すことで少しでも客観的な妥当性を持たないと、誰も貴方の意見など信用しませんよ。ダメです」という回答になるかと思います。

大方の新聞記者は釈迦やイエスのような聖人ではないでしょうから、やはりエビデンスを示して少しでも記事の信頼性を挙げるべきだと思います。けれども、マスコミの中には、そうしたエビデンスの開示を嫌がるところもあるようです。

2022年10月、米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古での抗議活動に対する、ひろゆき氏の発言を受けて、琉球新報がひろゆき氏への取材を申し入れたものの、最終的に取りやめとなる事件がありました。

琉球新報はこの年の10月中旬、ひろゆき氏と親交がある人を介して、インタビュー取材を申し入れていて、ひろゆき氏が提示した21日午後7時から取材を仲介者のネットチャンネルで配信することを想定して調整を進めてきたそうなのですけれども、琉球新報によると、配信前日にひろゆき氏から他メディアのチャンネルでの配信を提示され、その対応の結論が出せず、見送りとなったそうです。

まぁ、前日に条件を追加する、ひろゆき氏もちょっとどうかとおもいますけれども、他メディアで配信されて、特に困る理由も見当たりません。そのままやってもよかったようにも思います。

また、昨今、話題の安芸高田市の石丸市長と中国新聞とのバトルがバズってますけれども、嘉悦大学の高橋洋一教授は、「オープンなデータでオープンな議論が出来ないのがマスコミだ」と述べ、「全部オープンにしたら自分達が単なる主張を言っているだけど分かってしまうからだ」とズバリ指摘しています。

この「全部オープンにしたら自分達が単なる主張を言っているだけ」というのは、先述の村上教授が挙げた3つの真実でいえば「一人ひとりの経験の中にある真実」に当たるでしょう。主観的にしかならない個人の経験の中の真実とやらで多くの人を納得させるためには、その人が釈迦やイエスのような聖人でない限り、そこに一定以上の客観性がないと難しいと思います。

従って、「エビデンスを示せ」と言われるのは、時代がどうのこうのではなく、議論の基本ではないかと思います。




4.エビデンス? ねーよそんなもん


振り返ってみれば、これまで「エビデンス」が不十分なまま、何某かの主張をしている記事は其処此処で散見されていました。

2017年12月、日刊ゲンダイDIGITALで、朝日新聞の高橋純子記者のインタビュー記事で、「新聞記者は、ウラを取って書けと言われるが、時に〈エビデンス? ねーよそんなもん〉と開き直る」と書いてあったために、朝日新聞はウラも取らずに記事を書くのかと、ネットで大炎上したことがありました。

実際は別の文脈での言葉だったのですけれども、これについて、経済学者の池田信夫氏は次のように述べています。
日刊ゲンダイが朝日新聞の高橋純子編集委員にインタビューした記事がまだ話題になっているが、話が混乱したままネットに拡散しているので整理しておく。

「新聞記者は、ウラを取って書けと言われるが、時に〈エビデンス? ねーよそんなもん〉と開き直る」というのは日刊ゲンダイの記者が書いた地の文で、彼女がインタビューでそう言ったわけではない。この言葉は、彼女の『仕方ない帝国』という本の19ページに出てくる。

嫌われたり読み捨てられたりしながら、読者の思考をちょっとでも揺さぶりたい。はい。きれいごとですよ、きれいごと。だけど、そこを曲げたら私のなかで何かが終わる。何かは何か。何かとしかいいようがない、何か。エビデンス? ねーよそんなもん。

これは「私のなかで何かが終わる」という気持ちにエビデンスがないという意味で、朝日新聞が報道でエビデンスを出さないという話ではない。しかし彼女は「安倍政権は気持ち悪い」という感情をエビデンスもなしに下品な文章で書くので、話が読者に伝わらない。その苛立ちは彼女も、インタビューでこう語っている。

欺瞞を正面から論破するのは難しい。だから「なんか嫌だ」「どっか気持ち悪い」などといった自分のモヤモヤした感情をなんとか言葉にして読者に伝えないと、権力に対峙したことにならないんじゃないかと思うんです。

ジャーナリストが政治家の「欺瞞を論破する」ときはエビデンスをあげるのが普通だが、彼女はそれを放棄して自分の「モヤモヤした感情」を奇をてらった表現で読者にぶつける。こういう宗教的な安倍批判は東京新聞の望月衣塑子記者と似ているが、朝日新聞のほうが格段に影響力が大きい。

高橋記者が去年2月に書いた「だまってトイレをつまらせろ」というコラムも、何をいいたいのかわからないが、安倍政権がきらいだという感情だけは伝わってくる。それは先細りの朝日新聞の、紙の新聞を購読するコアな読者へのメッセージかもしれない。
このように、池田氏は、件の高橋記者は、自分のモヤモヤした感情をエビデンスなしで読者にぶつけている、と指摘しています。これは奇しくも池田氏が「宗教的な安倍批判」と述べているように、「高橋記者の中にある、安倍批判という理念」です。先述の3つの真理のうちエビデンスがない方の2つに当たります。

その主張・理念に、エビデンスなど「ねーよそんなもん」である以上、当然客観性はなく、あとは、その主張・理念を多くの読者に「信仰」してもらえなければ、真理にはなり得ません。

冒頭の『エビデンス』がないと駄目ですかの記事では、「エビデンスに殴られている」なんて言っていますけれども、何のことはない、自分達が「個人の中の真実や理念」で相手を殴り放題していたのを、読者から「エビデンスで殴り返された」だけのことだと思います。

それで、殴られたと泣き言をいうようでは、先述の高橋洋一教授がいうように「オープンな議論が出来ない」ことを自ら証明しているのではないかと思いますね。

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この記事へのコメント

  • おじじ

    城山 三郎の小説、「鼠―鈴木商店焼打ち事件 (文春文庫) 」読んで、あの事件の発端を作ったのは、大阪朝日新聞のデマ記事からだったと分かる。その習性は、直り切ってないようだ。大本営発表の記事をうのみにして、郡部に加担し続けた性悪な朝日の性格からして、唾棄すべきものだろう。
    2023年11月06日 14:39