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1.生きてるうちに寄り添えよ
「セクシー田中さん」事件が起こってから早一週間が経ちましたけれども、日テレや小学館など関係メディアは会見を開くこともなく、だんまりを貫いています。
そんな中、小学館が2月6日に社員向けの説明会を開いたことが分かりました。会議室とオンライン視聴で開かれた全社員参加の説明会は40分ほどで、会議室内で参加した一部の社員からは質問が数点飛んだものの、紛糾することはなかったそうです。
一方で「こうした経緯、事情について、現時点では小学館として自ら社外に発信する予定はありません……芦原先生が、悩まれて発信したXを、〈攻撃するつもりはなかった〉という一文とともに削除されたことを鑑み、故人の遺志にそぐわないと思うからです」と説明したとのこと。
けれども、この説明を受けた社員からは「"芦原さんが悩んで削除した内容を改めて出すのは控える"ということだと思うが、腑に落ちない。何も発信しないことに世間から疑問が出るのは当然。時間がたつのを待ってるだけでは」と厳しい声が上がり、また現場目線でも「しっかり対応しないと、作家との関係性に影響が出る恐れがある」と困惑も広がっているとの指摘もあります。
どうやら小学館は「芦名さんは投稿を削除した。作家の気持ちに寄り添いたいから、何もコメントしない」というロジックを使っているようですけれども、このロジックに従うならば、もし、芦名さんが「徹底的に戦う」と宣言していたら、小学館は一緒になって戦わなければならない筈です。
果たして小学館にその覚悟があるのか。
もしそれがないのだとしたら、小学館は、単に責任を作家に丸投げしただけになります。そもそも、「寄り添う気持ち」が小学館にあるのなら、芦原さんを自死にまで追いやることさえ無かったのではないか。生きてるうちに寄り添えよ、と言いたい。
現場からは「作家との関係性に影響が出る」なんて声が上がったとしていますけれども、作家側も「自分が戦うといったら一緒に戦ってくれますね?」と聞いてみればよいと思います。
2.日本のテレビドラマは衰退する
結局、小学館もそして日テレも、「自分たちは悪くない」で逃げようとしているのではないかと思いますけれども、ノンフィクションライターの窪田順生氏は1月31日、ITmedia誌に「『セクシー田中さん』の悲劇で加速する 日本マンガ実写化ビジネスの海外流出」という寄稿記事で次のように述べています。
【前略】このように、窪田氏は、「ワンピース」を例に出し、日本では「原作が正しく映像化される」ことは困難だとし、ひいてはそれが日本の映画・ドラマを衰退させると指摘しています。
芦原さんの訴えを「臭いものにフタ」という対応をしている限り、多くの人気漫画家が「実写化するなら原作者へリスペクトのない日本よりも海外の方が安心」としてNetflixやアマゾンのPrime Video、中国や韓国の配信事業者と組む流れが今以上に加速してしまうからだ。
ご存じのように、日本では人気漫画の実写化が今や定番コンテンツ化している。一方で「原作の世界観が台無し」「芸能事務所ありきの毎度おなじみのキャスティングでイメージと全然違う」など、コアなファンからは酷評されるパターンが多い。
そういう人気コンテンツに“いっちょかみ”したいオトナたちが骨までしゃぶる、というなんとも日本的なものづくりに辟易(へきえき)した。……かどうかは分からないが、人気漫画家たちがこぞって海外での実写化に踏み切っているのだ。
その代表が、世界的大ヒット漫画『ONE PIECE(ワンピース)』(集英社)の原作者、尾田栄一郎氏だ。
尾田氏はこれまで長く同作の実写化に否定的だったという。しかし、Netflixと組んで実写化に乗り出した。その理由を過去のインタビューでこのように語っている。
「ありがたいことにNetflixは、僕が満足するまで公開しないと約束してくれたんです。脚本に目を通して意見を伝え、原作が正しく映像化されるよう番犬のように振る舞いました」(VOGUE JAPAN 23年9月1日)
結局、尾田氏は実写版の「製作総指揮」に名を連ねて、キャスティングにもかかわり、配信前には「この作品に一切の妥協はありません!!」という直筆レターまで出すほど自信を見せていた。
結果、実写『ONE PIECE』は世界中で大ヒット。公開2週間足らずでなんと視聴時間が2億8000万時間を超え、続編の制作も決定した。この要因は尾田氏が「原作が正しく映像化される」ことに徹底的にこだわり、それをNetflix側も最大限尊重したことで、原作者も納得のクオリティーが実現できたからだ。
厳しい言い方だが、もし日本で制作していたらこういうことにはならなかっただろう。テレビ局と映画配給会社、広告代理店による「ワンピース制作委員会」が立ち上げられて、メディアミックスの名のもとで横断的なプロモーションやキャンペーンが行われる一方、尾田氏の「原作が正しく映像化される」ことはそれほど尊重されなかったはずだ。
まず、キャスティングが無理だ。観客動員数が欲しいということで、主要キャラである「麦わらの一味」の半分くらいはSMILE-UP(旧ジャニーズ事務所)所属のアイドルになっていたかもしれない。漫画の実写化作品でおなじみの役者も入っていただろう。ストーリーや演出に関しても、関係各位の「オトナの事情」から、尾田氏の意向はそこまで反映されなかったはずだ。
そのような日本のエンタメ業界のシビアな現実を踏まえれば、尾田氏の「実写版は海外と組む」という決断は大成功と言わざるを得ない。実際、この成功パターンの後に続けと言わんばかりに、堀越耕平氏の人気漫画『僕のヒーローアカデミア』(集英社)も、ハリウッド版『GODZILLA』で知られる米レジェンダリー・ピクチャーズでの実写版製作が進行している。
また、組むのはハリウッドだけではない。例えば、お隣の国・韓国ではもともと日本の漫画は人気で多くの実写化実績もある。22年7月に放送をスタートしたドラマ『今日のウェブトゥーン』は、松田奈緒子氏の人気漫画『重版出来!』(小学館)が原作だ。
少し前には、日本の漫画ファンが多いことで知られるフランスでも『シティーハンター』(集英社)が映画化された。東京・新宿を舞台にした原作を、フランスを舞台にフランス人が演じたのだ。日本では当初イロモノ扱いされたが、視聴してみると、原作への愛が随所にあふれていたこともあって、ファンはもちろん、そうではない一般の映画ファンからも好意的な反応だった。
さて、このような「成功例」が積み上がってきた中で、人気漫画の原作者の立場になって考えていただきたい。実写化させて欲しいという話が、日本テレビのドラマ制作部とNetflixから同時にやってきた。韓国の制作会社でもいい。原作者がどっちを選ぶのかは明らかではないか。
今回、芦原さんが原作者としての「不満」を訴えたにもかかわらず、日本テレビは「許諾をいただきました」と木で鼻を括ったような回答したことで、日本中の漫画原作者たちは「明日はわが身」とショックを受けたはずだ。だったら、原作者の意向を最大限聞いてくれるほうに流れるのは当然だろう。
つまり、日本の映画やドラマが、人気漫画の原作者へのリスペクトなしに作品づくりを続けていけばいくほど実写版コンテンツの海外流出が進んでいくということだ。それは、今や「漫画原作」にすっかり依存しきっている日本の映画やドラマにとって深刻な衰退を引き起こす恐れもあるのだ。
「日本映画やドラマのクオリティーの高さは世界からも称賛されている。そんなことで衰退するわけがないだろ」と不愉快になる映画・ドラマ業界の人も多いだろう。しかし、「発明をした人」への敬意を欠くことで、国際競争力を失って衰退するのはある意味で、日本の定番の負けパターンなのだ。
【後略】
3.原作リスペクトがないテレビ業界
なぜ、こんなことになってしまうのか。
筆者は2月1日のエントリー「『セクシー田中さん』原作者自殺」で、一般に受け入れられるラインを探るドラマ作成側と作者との間に認識のズレがあったのではないかと述べたのですけれども、前述の窪田氏は「組織の病」だと指摘しています。
件の記事で窪田氏は次のように述べています。
【前略】窪田氏は「漫画や小説の原作者の権利や主張を代弁するエージェントが少ない」と指摘していますけれども、これは、筆者が2月1日のエントリー「『セクシー田中さん』原作者自殺」で、対策として「代理人」を立てて、違約したときには、ちゃんと違約金をとれるような「契約」をきちんと結ぶべきだと述べたことの裏表ではないかと思いました。
日本のテレビドラマというのは芸能事務所の「ウチのタレントにこんな役を」という要望、テレビ局のお偉いさんの「データ的にも今はこんなストーリーがウケるだろ」という組織内圧力、さらには広告スポンサーから「確実に数字の取れるものを」という至上命令などをうまく利害調整しながら制作していく。
そういう「妥協の産物」の中で、演出家や脚本家というドラマ制作スタッフたちはなんとか「いい作品」を生み出そうと努力をしている。当然、信念を曲げることもある。「こだわり」を捨てなくてはいけないこともある。組織の中で何かを実現させるには、「しょうがないことだ」と自分に言い聞かせている。
そういう我慢と妥協が骨身に染みているクリエーターは、巨大プロジェクトに参加する全ての人に同じような我慢と妥協を強いる。なんともバカバカしい話だが、それがたとえ作品の造物主である「原作者」であったとしても、そういう力学が働いてしまう。日本型企業のプロジェクトには「オレがこんなに辛い思いをしているんだからお前らも同じように苦しめ」という体育会系的な平等思想がまん延しているのだ。
そこに加えて、日本企業特有の「セクショナリズム」も大きい。
特にテレビドラマや映画の現場は古い職人カルチャーがまだ残っており、「餅は餅屋」という考えが強い。いくら原作者といえども、こちらの仕事を邪魔するような「領域侵犯」をしてくれるな、というプライドの強い人がまだたくさんいらっしゃるのだ。
もちろん、だからと言って、自らの命を削りながら生み出した作品を勝手に変えることなど許されるわけではない。日本の場合、実写化に伴い、漫画や小説の原作者の権利や主張を代弁するエージェントが少ない。原作の担当編集者がそれを兼ねているような状態だ。
芦原さんが最後に「攻撃したかったわけじゃない」と発信したように、この問題は誰か特定の人を吊(つる)し上げて解決できるような問題ではない。
現場にいる個々は「良かれ」と思って自分に与えられた仕事を真面目に取り組んでいる。しかし、そんな真面目な人たちの集団を俯瞰してみると、「良かれ」と思いながら不正に走っていたり、誰かを傷つけていたりということがよくある。日本企業の不祥事も全く同じ構造だ。
今回のドラマに関わった人々を守るためにも、日本テレビは第三者による公正な調査を実施して、ドラマ現場の「病巣」を浮き彫りにすべきだ。
つまり、そうした雁字搦めの契約を結びたくても、それができる環境も人もないというのですね。
4.責任は出版社とテレビ局にある
今回の「セクシー田中さん」事件について、人気作「海猿」の作者で漫画家の佐藤秀峰氏は自身のnoteで次のように述べています。
【前略】一読しただけで随分と酷い話だと分かります。
人気作の場合、映像化の企画は同時にいくつもやってきます。
「海猿」は人気作でした。
雑誌連載中から単行本の売り上げは良かったのですが、続く「ブラックジャックによろしく」が爆発的にヒットしました。
その影響で「海猿」も増刷に次ぐ増刷でした。
「ブラックジャックによろしく」は連載開始から2年経たずにテレビドラマ化されました。
「海猿」もその少し後に映画化されました。
すでに「ブラックジャックによろしく」のドラマが話題になっており、小さな制作会社からテレビ局まで様々なところから企画書が届いたそうです。
詳しい話は聞かされず、ある日映画化が決まっていました。
企画書というのは作るのは簡単ですが、実現することはほとんどありません。
「映画は水ものだから企画段階では真剣に考えなくて良い」という編集者の言葉を真に受けていたら、ある日決まっていました。
決まったと思ったら僕が口を挟める余地はありませんでした。
漫画家は通常、出版社との間に著作権管理委託契約というものを締結しています。
出版社は作品の運用を独占的に委託されているという論理で動いていました。
契約書には都度都度、漫画家に報告し許諾を取ることが書かれていました。
が、それは守られませんでした。
すでに企画が進んでいることを理由に、映像化の契約書に判を押すことを要求されました。
嫌だったけど、「映像化は名誉なこと」という固定観念がありました。
映像化決定のプロセスが嫌なだけで、出版社もいろいろ動いてくれたんだろうなと。
原作使用料は確か200万円弱でした。
試写会に呼ばれたかどうか記憶が定かでありません。
映像関係者には一人も会いませんでした。
脚本?
見たことがありませんでした。
「ブラックジャックによろしく」を週刊連載中で忙しかったこともあります。
好きなようにされていました。
作品が自分の手から奪われていく感覚がありました。
「漫画と映像は全くの別物である」と考えました。
そうしないと心が壊れてしまいます。
映画はDVD化されてから観ました。
クソ映画でした。
僕が漫画で描きたかったこととはまったく違いました。
しかし、当時はそうした感想を漏らすことはしませんでした。
たくさんの人が関わって作品を盛り上げている時に、原作者が水を指すのは良くないのかなと。
自分を殺しました。
こうして僕は映像に一切文句を言わない漫画家となりました。
一方、出版社への不信は募ります。
何も言わないことと、何も不満がないことは違います。
言えることは、出版社、テレビ局とも漫画家に何も言わせないほうが都合が良いということです。
出版社とテレビ局は「映像化で一儲けしたい」という点で利害が一致していました。
【後略】
佐藤氏は、映画の利益を享受したい出版社側は、漫画家のために著作権使用料の引き上げ交渉などせず、テレビ局側も細かく注文をつけられたくないので漫画家と直接会いたがらないと述べています。
この佐藤氏の指摘に対し、演出家の鴻上尚史氏は次のようにツイートしています。
痛ましい出来事の激震が続いています。僕自身、原作を提供したこともあるし、脚色したこともあります。僕はずっと今回の悲劇を「原作者と脚本家」の問題にしてはいけないと思っていました。鴻上氏は、今回の問題は「原作者と脚本家ではなく、出版社とテレビ局にある」と断言しています。出版社とテレビ局が、原作の知名度とファンだけが欲しくて、原作を蔑ろにして好き勝手に映像化したら、どこかで軋轢を生むであろうことは、火を見るよりも明らかです。
原作者さんの中には、「絶対に変えないで欲しい」と要望する人もいるし「おまかせします」と言う人もいます。それは、いいとか悪いの問題ではなく、原作者さんの個人の判断です。
問題は、「変えないで欲しい」という原作者さんの意向をちゃんと出版社が伝えたかどうかです。そして、それをちゃんとテレビ局が受け止めたかどうかです。
そして、もっと大切なのは、その要望が違っていた時に、それに対して対応するのは、原作者個人ではなく、原作者側に立つ出版社であり、その変更の要望を対応するのも、脚本家の前にテレビ局、つまりプロデューサーです。
プロデューサーが「絶対に変えないで欲しい」という原作者さんの意向をどれぐらいのレベルで伝えたのか。そして、出版社は、どれぐらいの熱意で、その言葉をテレビ局に伝えたのか。
そこを問題にしないまま、「原作を変えることは是か非か」という論点にシフトすることは、意味がないと僕は思っています。
この佐藤秀峰さんの文章は、はっきりと出版社もテレビ局も、原作者の意向を無視し、原作者の立場を守ろうとしていないという痛切な事実が綴られています。その経済的な要求と脚本家の立場をイコールにしてはいけないと思います。
問題は、原作者と脚本家ではなく、出版社とテレビ局です。そう思います。
その意味では、冒頭で取り上げた小学館の「セクシー田中さん」事件について社外発信しないという姿勢は「責任放棄」であり、日本の映画やドラマを衰退させる自爆スイッチを押すことになるかもしれないと思いますね。
痛ましい出来事の激震が続いています。僕自身、原作を提供したこともあるし、脚色したこともあります。僕はずっと今回の悲劇を「原作者と脚本家」の問題にしてはいけないと思っていました。… https://t.co/XT6m6J9M0A
— 鴻上尚史 (@KOKAMIShoji) February 4, 2024
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