パリ五輪開会式と相撲

今日はこの話題です。
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1.前代未聞のパリ五輪開会式


パリ五輪が色んな意味で燃えています。

7月28日、パリ五輪の広報責任者を務めるアンヌ・デキャンプ氏が、パリ五輪開会式について「明らかに、いかなる宗教団体に対してもや特定の信念に対しても敬意を欠く意図はなかった。それどころか、トーマス・ジョリーはコミュニティの寛容さを称えようと真剣に取り組んでいたと思う……この野望は達成されたと信じている。もし不快な思いをされた方がいたら、本当に申し訳なく思っている」と公式に謝罪しました。

これは無論、開会式での異例の演出に対する抗議の嵐を受けてのものです。

例えば、18世紀のフランス革命で処刑された王妃マリー・アントワネットがギロチンで切り落とされた自らの首を持って登場するパフォーマンスです。

パフォーマンスが行われたのは、セーヌ川沿いのコンシェルジュリで、ここはマリー・アントワネットが処刑までの日を過ごしたかつての監獄でした。真っ赤なドレスを着て自らの首を小脇に抱えた女性がベランダにたたずみ、革命時代に流行した歌「サ・イラ(仏語で「うまくいく」の意)」がヘビーメタル調で流れ、演奏の終盤には建物の窓から流血を思わせるような真っ赤な紙テープが空に舞うとともに赤い煙が噴き出すという演出が行われました。

この演出に、保守系の仏紙フィガロは「革命の暴力を恥知らずに想起させた。1793年の国王夫妻の殺害を礼賛した」と論じ、アメリカFOXニュースも、この演出は「複雑な反応を引き起こした」と報じました。

また、SNSでも「これがフランスのメタル音楽か。狂っている」「死刑を廃止したのに、世界に向けて処刑をたたえるのか」などの批判が出る一方、「斬首されたアントワネット王妃にすべてのメダルを」とたたえる書き込みもあったようです。

そのほかにも、開会式の後半で、派手な衣装やメイクで女装した「ドラァグクイーン」や性的少数者の歌手、DJが歌やダンスを披露。出演者が並んで長いテーブルにつくように見える様子などが、キリストと弟子を描いたレオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」をモチーフにキリスト教を揶揄したなどとの批判の声が上がりました。

フランスの右派政治家マリオン・マレシャル氏はX(旧ツイッター)で「侮辱されたと感じた世界中のキリスト教徒の皆さん、フランスではなく少数派の左翼の仕業です」と訴え、移民排斥を唱えるイタリアのサルビーニ副首相も「何十億人ものキリスト教徒を侮辱して五輪を開幕するなんて。最悪のスタートだ」とツイートしました。

開会式前に五輪休戦のミサを開いたカトリックのフランス司教会議は「式典にはキリスト教に対する嘲笑が含まれていた」とする声明を発表。アメリカ実業家イーロン・マスク氏も「キリスト教徒に極めて失礼だ」と述べ、アメリカの通信会社はX(旧ツイッター)で五輪からの広告の撤回を表明しました。


2.誰もイエスの格好をしていない


これら、キリスト教を揶揄したのではないかという世界からの批判の声に、開会式の芸術監督を務めたトーマス・ジョリー氏は、BFMTVで、最後の晩餐からインスピレーションを得たものではないと説明。 「私の中には、何かを嘲笑したり、非難したりする気持ちは決してありません。私は修復し、和解する儀式をしたかったのです……私たちは、すべての人を巻き込みたかったのです。それだけです……フランスでは、創作の自由、芸術の自由があります。フランスは自由な国で、私たちは幸運です。私が伝えたい特別なメッセージはありませんでした。フランスは共和国であり、好きな人を愛する権利があり、崇拝者にならない権利があり、フランスでは多くの権利があります。これが私が伝えたかったことです」とコメントしています。

また、今回のシーンに参加したドラァグクイーンのピチェ氏は、「誰もイエスの格好をしていないし、服装や振る舞いもイエスのパロディではない。新鮮な視点をもたらすためだ。過去には使徒たちの食卓を表現したものが数多くあったが、誰もショックを受けることはなかった。しかし、LGBTの人々やドラッグとなると、驚くほど邪魔になる。しかし、私たちはそれに慣れている。人々は保守派を動揺させるジェンダーの問題に執着している」と弁解しています。


3.古代オリンピックの精神


演出を担当したトーマス・ジョリー氏は、自由であることを表現したのだ、と主張していますけれども、そもそもオリンピックはそういう主張をする場だったのか。

オリンピックの歴史は、今から約2800年前にさかのぼります。古代ギリシャのオリンピア地方で行われていた「オリンピア祭典競技」、いわゆる古代オリンピックがその起源とされています。

古代オリンピックが始まったのは、考古学的な研究によって紀元前9世紀ごろとされています。現代のオリンピックは世界平和を究極の目的としたスポーツの祭典ですけれども、古代オリンピックは全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるための、神域における体育や芸術の競技祭でした。要するに宗教行事でした。

古代オリンピックで最初に行われた競技は、1スタディオン(約191m)のコース を走る「競走」でした。スタディオンは長さ約215m、幅約30mの広場を高い盛り土がスタンドのように囲んだ施設のことで、1スタディオンという距離は、このスタディオンの競技場が基準となった単位です。

紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックで開かれていたのは競走1種目だけでした。1スタディオンはゼウスの足裏600歩分に相当し、ヘラクレスがこの距離を実測したとも伝えられています。

その後、古代オリンピックは種目の数を増やしより大きな祭典へと発展していきます。

古代オリンピックにはギリシア全土から競技者や観客が参加しました。当時のギリシアではいくつかのポリスが戦いを繰り広げていたのですけれども、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければなりませんでした。その期間は当初は1カ月だったものが最終的に3カ月ほどになったといわれています。

これが今でいう「オリンピック休戦」の淵源です。

つまり、古代オリンピックの精神にまで遡れば、それは神々を讃える神事であって、それを蔑ろにした人間風情の”踊り”など、何の意味も意義も持たないのではないかと思います。


4.神事相撲


今更、現代オリンピックを古代オリンピックに戻せとはいいませんけれども、オリンピックという名を冠するのであれば、神に対する崇高の念だけは忘れてはならないと思います。

スポーツが神事であったという意味では、相撲もそうです。

相撲は神道と密接な繋がりを持っています。

古くは、神龜2年(725年)に諸国が凶作に見舞われた際、聖武天皇が伊勢神宮をはじめ21社に神明加護の祈願を行ったところ、翌年は豊作になったため、諸社において相撲を奉納したという記録が残っています。

その後、神社における祭事においては、相撲、舞楽、流鏑馬、競馬(くらべうま)などが行われるようになっていきます。これらの祭事は、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願うことも多く、そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占うということもあったようです。

そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっているそうで、和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもあり、更には、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもあるそうです。

また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されています。

こうして、相撲の所作は、陰陽道や神道の影響も受けて様式化されていきました。

つまり、相撲の一つ一つの所作には意味があり、それは神々にも繋がるということです。

それを考えると、相撲が現代オリンピック競技にもならず、伝統としきたりを守り続けていることは、尊重してしかるべきかと思います。

翻って、今回のパリ五輪の開会式騒動をみると、神々を讃えるという精神は失われ、単なる「人の祭典」となっていることは否めません。その意味で、パリ五輪はもはや「オリンピア」の名を冠するには相応しくないのかもしれませんね。



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