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1.バングラデシュの政変
8月5日、バングラデシュのシェイク・ハシナ首相が辞任しました。
バングラデシュでは、7月から学生デモが発生していました。
当初、この抗議活動は公務員の採用枠に対する学生たちの平和的なデモとして始まったのですけれども、政府による弾圧を受けて約300人の死者が出たことから、ハシナ政権の打倒を目指す全国的な運動へと変わっていきました。
ハシナ氏はこうした暴力について野党を非難し、政府が8月4日午後6時以降の無期限の外出禁止令を発出。軍や警察が路上で検問に当たり、厳しい取り締まりを行っていたのですけれども、こうした対応は火に油を注ぐこととなり、5日、抗議活動は拡大。5日午前中にインターネット接続が遮断され、午後2時前に復旧した際には、ハシナ首相が辞任するという情報がフェイスブックなどでも拡散され始め、午後4時からワカル・ウズ・ザマン陸軍参謀長が会見し、ハシナ首相の辞任と速やかに暫定政権を発足させることを正式に発表しました。
各種現地メディアは、市民が路上に繰り出し、暫定政権が築かれることを歓迎する様子を伝えると共に、これまで政権与党だったアワミ連盟の関係者の自宅・施設や車両、警察署が襲撃されるなどの暴動が発生したことも伝えています。報道では、軍は6日午前0時~午前6時は外出禁止としているのですけれども、その後は政府機関、教育施設、民間企業なども操業は可能と明らかにしています。
そして、ハシナ氏の辞任の数時間後、モハンマド・シャハブッディン大統領は、収監されていたカレダ・ジア元首相と、公務員採用の特別枠の廃止を要求して拘束されていた学生らの釈放を命じ、全国に発令されていた外出禁止令を解除しました。
2.なぜ抗議デモが始まったのか
学生の政府の採用枠に関する抗議は、7月1日、ダッカ大学で始まりました。この採用枠というのは、1971年の独立戦争に従事した兵士の家族に対して公務員採用枠の30%を割り当てるというものでした。
ハシナ氏も含めて現在の政界の支配層はこの世代に関係しています。
こうした採用枠は雇用の安定と高賃金につながっているのですけれども、デモ参加者は採用枠は差別的であり、ハシナ氏が率いる与党アワミ連盟の支持者を優遇するものだと主張しました。
彼らの怒りを呼び起こしたのは国内の失業率で、特に若年層の失業率は高くなっていました。バングラデシュはハシナ政権の下で力強い経済成長を遂げたものの、武漢ウイルスの流行後は経済成長が鈍化し、高いインフレや外貨準備高の減少に悩まされていました。バングラデシュの人口は1億7000万人のうち、3000万人以上が無職か教育を受けていない状況にあります。
抗議運動は7月15日に激化。最高裁が採用枠の大幅な縮小を決め、インターネット封鎖を解除しても収まりませんでした。
8月4日、警察とデモ隊との衝突により、少なくとも91人が死亡したほか数百人が負傷。バングラデシュの最近の歴史の中で1日あたりの死傷者数としては最悪の水準となっています。
ハシナ氏の辞任直後こそ、お祝いムードに湧いていた抗議者達はすぐに暴力的なものへと変化しました。首相官邸にはデモ隊が突入。壁は破壊され、家財は略奪されました。また、ハシナ氏の父親であるムジブル・ラフマン氏の生家を改装した博物館やアワミ連盟の事務所などにも火がつけられました。
3.軍事クーデターの歴史
バングラデシュでは、過去に何度か軍事クーデターが起きています。
1971年に独立したバングラデシュは、自治権拡大・独立運動を指導したアワミ連盟のムジブル・ラフマン総裁が首相に就任。1975 年 1 月にラフマン首相は憲法を改正して自ら大統領に就任し、国内の混乱に対処するため強権を発動したものの、1975年8月、軍部将校によるクーデターにより家族共々暗殺されました。
今回、辞任したハシナ氏は、このムジブル・ラフマン大統領の長女に当たり、1975年のクーデターのときは、ドイツ滞在中で、危うく難を逃れています。
ラフマン大統領暗殺後、ジアウル・ラフマン陸軍参謀長が戒厳令下で実権を掌握。ラフマン参謀長は大統領に就任したのですけれども、軍人の利益に十分に配慮しなかったことから、1981年5月、軍人グループにより暗殺。その後1982年3月、エルシャド陸軍参謀長が無血クーデターにより実権を掌握しました。
ところが、そのエルシャド大統領も当初は経済社会の発展に一定の実績を挙げたものの長期政権の中で汚職が顕著となり、1990 年中頃から反エルシャド運動、民主化運動の高まりに1990年12月、辞任に追い込まれています。
翌1991年に憲法改正によって議院内閣制に移行し、BNPとアワミ連盟という二大政党を中心とし、選挙で政権が選出されることとなったのですけれども、急激な人口増加による経済の停滞、イスラーム強硬派の存在、山岳部の少数民族問題など不安定要素が多い上に、時の与党はすべての権力を独占し、野党はほぼ恒常的に国会ボイコットやゼネストを繰り返すため議会制民主主義はほとんど機能していないとも指摘されています。
今回の抗議デモとハシナ氏の辞任について、アメリカはバングラデシュ軍の「自制」を称賛し、暫定政府を樹立させるべきだと述べ、欧州連合(EU)は、民主的に選出された政府への「秩序ある平和的な移行」を促しています。
一方、隣の地域大国インドは反応を示していません。
ダッカにあるシンクタンク「政策対話センター(CPD)」の上級エコノミスト、デバプリヤ・バッタチャリャ氏は、「インドがハシナ政権を完全に支持しているという感覚がある。デモ参加者は、インドとバングラデシュのヒンドゥー教徒を区別しておらず、すでに寺院や人々への攻撃につながっている……権力の空白がある現在、法と秩序を実行する者がいない。新政権は宗教的少数派を保護する必要がある」と、ハシナ氏の辞任は国民に「陶酔」をもたらしたが、少数派のヒンドゥー教徒への攻撃がエスカレートし、新たな当局はすぐに困難に直面したと指摘しています。
ハシナ氏は、父親のラフマン元大統領が軍事クーデターで殺害された後、アワミ連盟を引き継ぎ、エルシャド元大統領の軍事政権下では、他党と共に民主派抗議に参加していました。
4.CIAの地政学的策略
今回のバングラデシュの政変とハシナ首相の辞任について、インドのゴア・クロニクル紙は8月7日、「シェイク・ハシナの辞任:バングラデシュの危機とCIAの地政学的策略を解明」という記事を掲載しています。
件の記事の概略は次の通りです。
・バングラデシュの政治情勢は、権力の交代や外国の介入疑惑など、しばしば混乱を極めてきた。2024年8月5日のシェイク・ハシナ首相の辞任に象徴されるバングラデシュの最近の政治的混乱は、民主主義、地域の安定、国際関係への影響について白熱した議論を巻き起こしている。ゴア・クロニクル紙によると、今回の政変の黒幕はアメリカCIAであり、対中包囲網を破壊し、中露に接近して、アメリカに盾突くハシナ氏を追い落とし、傀儡のムハマド・ユヌス氏に変えようと工作したというのですね。
・一連の劇的な出来事の後のハシナ首相の突然の辞任により、バングラデシュは岐路に立たされ、バングラデシュとその少数民族の将来に対する懸念が高まっている。しかし、この危機は、しばしば「CIAの戦略」と呼ばれる、アメリカの介入主義と地政学的策略のより広範なパターンの一部である。
・バングラデシュにおける民主主義と過激主義の微妙なバランスを保つ上で重要人物であり、少数派の権利を擁護する著名な人物であるシェイク・ハシナ氏は、政治不安が高まる中辞任した。彼女の辞任は、少数派、特にヒンズー教徒に対する暴力の波を引き起こした。
・ハシナ氏の在任中、彼女は世俗主義を推進し、少数派の権利を守る努力をしてきたため、過激派グループの標的となった。彼女の辞任により、これらのグループは勢いづき、少数派への攻撃が増加し、恐怖と不安の雰囲気が生まれた。少数派の権利の侵害は、バングラデシュの民主主義体制を弱体化させるだけでなく、地域の安定にも大きな脅威となる。
・バングラデシュの政治に対する外国、特にCIAによる干渉という考えは目新しいものではない。冷戦中、米国は主にソ連の影響に対抗するため、この地域に既得権を持っていた。数週間前、シェイク・ハシナ氏が白人による外国の空軍基地建設を認めれば、手間のかからない再選を申し出られたと主張したことは、非常に意味深い。デイリー・スター・バングラデシュが報じたこの発言は、バングラデシュの国内政治に対する外部からの影響と圧力を暗示している。しかし、彼女が言及した特定の国は公式には名指しされていないが、非公式に彼女に近い情報筋は、彼女が言及していたのは米国のことだと明らかにした。
・この申し出に対する反応を問われると、シェイク・ハシナ首相は、2001年に米国がバングラデシュの天然ガスをインドに売却することを提案した際の返答と同様に、断固とした姿勢を改めて表明した。彼女は、バングラデシュの父であるバンガバンドゥ・シェイク・ムジブル・ラフマンの娘であることをはっきりと表明し、国の主権に対する責任を強調し、「私たちは独立戦争に勝利した。私は国の一部を借りたり、どこか他の国に引き渡したりして権力を握りたいとは思わない。権力は必要ない」と述べた。ハシナ首相は、自身の在任期間は国民の支持とリーダーシップへの期待にかかっていると強調した。
・当時、シェイク・ハシナ氏は、国内外で直面している課題や陰謀について強調した。同氏は、東ティモールに似た、ベンガル湾に拠点を置くキリスト教国家を樹立し、バングラデシュとミャンマーの一部から新国家を作ろうとする試みに懸念を表明した。ハシナ氏は、標的地域としてチッタゴンを指摘したが、具体的な詳細は明らかにしなかった。同氏は、政府を不安定化させようとする陰謀について警告し、父親のバンガバンドゥ・シェイク・ムジブル・ラフマン氏の悲劇的な運命との類似点を挙げ、同氏が認識している脅威の深刻さを示した。
・昨年11月、ダッカで、与党の政治家らがバングラデシュの選挙プロセスへの干渉を理由にピーター・ハース米国大使を脅迫したとの報道が浮上した。しかし、国務大臣はこれらの疑惑を否定し、大使のような外国要人の安全を確保する同国の能力に自信を示した。
・さらに状況を複雑にしたのは、ロシア外務省報道官が、米国大使と野党幹部がバングラデシュで大規模な反政府抗議行動を扇動する計画を立てていると非難したことである。報道官はこれを、ワシントンとその同盟国によるバングラデシュ内政への重大な干渉だと非難した。これに対し、ワシントンは、モスクワが自国の外交政策を故意に誤解していると非難して反撃した。
・2024年3月、ビクトリア・ヌーランド米国次官がバングラデシュを訪問し、様々な民間およびビジネス界のリーダーと会談した。彼女の訪問後、バングラデシュの状況は急速に悪化し始めた。
・シェイク・ハシナ首相は、当初は平和的だった学生の抗議活動が暴力と混乱にエスカレートしたのは、バングラデシュ民族党(BNP)と禁止されているイスラム主義団体ジャマート・エ・イスラミのせいだとした。ハシナ首相によると、長い間疎外され権力を握っていなかったこれらの団体は、この騒動を利用して政治的に再主張したという。彼女は、学生に暴力の責任はなく、ジャマート・エ・イスラミとBNPに全面的に責任があると強調した。第二波の暴力の後、苛立ちを募らせたハシナ首相は、「暴力を振るっているのは学生ではなく、国家を不安定化させようとしているテロリストだ」と宣言した。
・ニューデリーとワシントンは、バングラデシュの政治力学について異なる見解を持っていた。インドは、イスラム教協会の過激化の可能性と地域における影響力を懸念し、同協会に政治的役割を与えることに反対した。一方、米国は、イスラム教協会を地下に追い込むことに慎重で、過激化が進むことを恐れていた。さらに、インドは、米国がバングラデシュの指導者交代を支援し、インドにとって信頼できる同盟者とみなされていたシェイク・ハシナよりもムハマド・ユヌスを支持する可能性を懸念していた。
・シェイク・ハシナとムハマド・ユヌスの間には敵意の歴史がある。シェイク・ハシナはムハマド・ユヌスを政治的脅威とみなし、ユヌスが否定しているにもかかわらず、BNPとのつながりを疑っていた。2006年にユヌスがBNPから暫定政府の一員として指名されたとき、彼女の疑惑はさらに深まった。ハシナはまた、ユヌスと米国との関係、特にヒラリー・クリントンとのつながりを問題視し、ユヌスが彼女の政府に対して陰謀を企てていると信じていた。2009年初めにハシナが権力の座に復帰したとき、グラミン銀行での彼の地位をハシナに支配する権利を与えた法律を変えようとするユヌスの努力は実を結ばなかった。ハシナは暫定政府による法律の撤廃を批准することを拒否し、閣僚を通じて問題を解決しようとするユヌスの試みを拒絶した。 2009年5月、ユヌス氏はハシナ氏に態度を翻すよう説得するため米国大使の協力を求めた。しかし、ハシナ氏はユヌス氏との面会に決して同意せず、長い政治闘争の末、2011年に裁判所命令によりグラミン銀行から彼を解任した。ハシナ氏はまた、グラミン銀行メンバーの選挙への潜在的影響力に関するユヌス氏の発言に憤慨し、それが選挙における党のチャンスに対する脅威であると感じていた。
・シェイク・ハシナがバングラデシュから逃亡してから24時間以内に、2つの重要な展開が起きた。まず、抗議運動の先頭に立った反差別学生運動の指導者らは、ノーベル平和賞受賞者でグラミン銀行創設者のムハマド・ユヌスを暫定政府の長に推薦することを決定した。彼らはすでにこの件についてバングラデシュのシャハブディン大統領および3人の軍司令官らと協議していた。地政学の世界に疎い者にとっては、ユヌスはCIAの傀儡であり、米国政権に近いことで知られている。
・第二に、ハシナ氏は英国で亡命を認められると期待していたが、労働党政権は米国との対立を避けるためか、亡命を認めることに消極的だった。その代わりに英国は、バングラデシュでの最近の出来事について国連主導の調査を求めた。一方、米国のバイデン・ハリス政権はすでにハシナ氏のビザを取り消しており、外交的にさらに孤立させている。これらの行動は、ハシナ氏の出国をめぐる国内外の激しい圧力を反映している。
・シェイク・ハシナ政権に対する米国の反対は、いくつかの要因に根ざしている。重要な問題の一つは、バングラデシュが中国とロシアとの連携を強めていることであり、これはこの地域における米国の利益と相反する。さらに、米国はハシナが民主的な慣行を制限し、野党の活動能力を制限していると批判している。ダッカ駐在の米国大使は、従来の外交プロトコルを無視して野党指導者と交渉しており、関係をさらに緊張させている。
・バングラデシュに対する米国の制裁は、これらの問題への対応として課せられた。特に、ウクライナ紛争後、バングラデシュが米国の警告にもかかわらずロシアとの貿易を継続したことが原因だ。ハシナ首相は台湾に関して、中国の「一つの中国」原則への支持を繰り返し表明し、外部からの干渉に反対したが、これも米国を苛立たせた。
・さらに、2016年に始まった中国の一帯一路構想へのバングラデシュの関与により、中国との経済関係は深まった。2023年末までに、バングラデシュは道路、橋、電力などのインフラプロジェクトに中国から14億ドルの投資を受けており、中国の世界戦略との整合性がさらに高まっている。
・シェイク・ハシナ首相は最近3日間の北京訪問でバングラデシュと中国の結びつきを強化し、両国関係を包括的戦略的パートナーシップへと格上げした。共同声明で中国は政治的相互信頼の深化を強調し、バングラデシュの主権と外部からの干渉への反対に対する支持を再確認した。バングラデシュは10億ドルの財政支援パッケージを求めたが、提示されたのはわずか500万ドルだったため、シェイク・ハシナ首相は結果に失望した。限られた財政支援とバングラデシュで進行中の学生運動のため、ハシナ首相は訪問を1日短縮し、ダッカに戻った。中国訪問前にハシナ首相は既にインドとティスタ川の大規模な再開発計画に取り組んでおり、これが中国の不満の一因となった可能性が高い。ティスタ川プロジェクトで中国ではなくインドと協力するという決定は北京の反応に影響を及ぼし、訪問中の議論の調子にも影響した可能性がある。
・バングラデシュは、地政学的状況の再構築を狙ったアメリカの介入主義のより広範なパターンの一部である。CIA の戦略は、中東からラテンアメリカまで、さまざまな状況で、アメリカの利益に有利な体制を確立するために採用されてきた。バングラデシュの場合、ベンガル湾における中国の影響力と戦略的利益に対する脅威が認識され、アメリカの介入を促しただろう。
・米国は民主化運動を支援し、人権を擁護してきた歴史があるが、その介入はしばしば疑念の目で見られ、特にそれが戦略的利益に合致する場合はそうである。バングラデシュの危機は、外国の介入の複雑さと予期せぬ結果を思い起こさせるものである。そして、CIA が介入したことは疑いの余地がない。あまり知られていないが、諜報界の噂によると、バングラデシュでの抗議活動激化の背後にいるリーダーたちは、地元当局に特定されたり追跡されたりすることなく抗議者と通信するために、CIA 工作員とされる人物から特別な WiFi ルーターを提供されていたという。
・シェイク・ハシナ首相の辞任はバングラデシュにとって重大な転換点となり、民主主義、地域の安定、国際政治に重大な影響を及ぼす。少数民族に対する暴力や、30年以内にヒンドゥー教徒が消滅する可能性は、安定した包括的な政府が緊急に必要であることを浮き彫りにしている。
5.ムハマド・ユヌス
ムハマド・ユヌス氏は1940年、英国統治下にあったバングラデシュの南部チッタゴンの宝石店の二男として生まれました。
チッタゴンカレッジを経て、ダッカ大学で修士号を取得し卒業。フルブライト奨学金を得て渡米し、1969年にヴァンダービルト大学で経済学の博士号を取得しています。その後、テネシー州で同郷の友人とともに「バングラデシュ市民委員会」を組織、祖国の独立を支援しました。
ユヌス氏は1969年から1972年までミドルテネシー州立大学で経済学の助教授を務め、その後、バングラデシュ独立の翌年の1972年に帰国し、チッタゴン大学経済学部長に就任しています。
ユヌス氏は1974年の大飢饉後に貧しい人々の窮状を目の当たりにして以来、その救済活動に目覚め、1976年に貧困救済プロジェクトをジョブラ村にて立ち上げました。そして1983年にグラミン銀行を創設し、無担保で少額の資金を貸し出すマイクロ・クレジット(無担保小額融資)を発案。農村部の貧しい人々の自立を支援する手法を全国で展開し、バングラデシュの貧困軽減に大きく貢献しました。
ユヌス氏は現在84歳ですけれども、シャハブッディン大統領はデモを呼び掛けた学生団体のリーダーや軍幹部と協議した後、ユヌス氏を最高顧問として起用すると発表。「バングラデシュは過渡期にある。この危機を乗り切るためにはできるだけ早く暫定政権を樹立することが重要だ」と声明で述べました。
これに対し、アメリカのブリンケン国務長官は、「暫定政府が下すいかなる決定も、法の支配を守り、人々の意思を反映させるために(中略)民主主義の原則を尊重する必要がある」と述べ、オーストラリアのペニー・ウォン外相は、すべての当事者に暴力を慎み、「普遍的な権利を尊重」するよう呼びかけ、「我々は、ここ数週間の出来事について、完全かつ独立した公平な調査を強く求める」と述べるなど、各国首脳らはバングラデシュに対し、ユヌス教授の就任後に民主主義を守るよう求めています。
複雑な背景をもとに起ったバングラデシュ政変。
南アジアの地政学的状況の変化と共にバングラデシュがこの危機をどう乗り越えていくのか。要注目です。
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